料理の常識をうたがう
ちょっと前の以下のニュースがとてもよかった。
日本こんにゃく協会の発表資料はこちら。
私もしらたきがすき焼きの肉を固くするって思ってたよ。実家でそうやって親に言われてきたから。
しらたきに限らず、「料理の常識」は、まずは家庭で親から教わる。それと家庭科の授業。それから、本とかテレビ番組とかクックパッドとか。
でも、「料理の常識」とされているものの多くは、慣習とか口承によるもので、科学的根拠があるわけではないのでは?
ここ数年で、料理を科学的に調べる大学での研究が活発になってきた。
去年、食×テクノロジーという対談を企画しまして、そのときに伺った菊乃井の村田さんのお話が大変面白かった。村田さんは京都の料亭の三代目。プロ中のプロの料理人だ。
村田さんは7−8年前から、龍谷大の伏木先生らと一緒に、料理を科学する取り組みを行っている。
ラボと厨房が一緒にあって、いろいろな先生が集まってきて、僕らがそこで調理をして先生たちと意見を交わす。そうする中で、和食でずっとやってきたやり方が間違っていることもわかった(笑)
(中略)
そういうことはたくさんありました。経験や勘ほどいい加減なものはないですね(笑)。だいたい、経験や勘で10年かけて覚えても、人に教えるのに同じくらいかかります。それよりも、数値ではかることで誰でも安定して同じ味を出せるようになる。料理人が変わったら味がめちゃくちゃになるとかよくあるでしょ。個人の能力に頼らないほうが厨房は安定するんです。
と話す。詳しくは記事の中で。
料理に限らず、こういう慣習や口承でずっと言われてきて信じてきたことで、実際は間違っているとか、実際は効率が悪いとかということは多くありそう。
と、また調べてみるつもり。
TRAILER(神楽坂)
神楽坂から徒歩数分の建物の隙間の空き地におかれた木造のトレイラー・ハウスが、ステーキハウス?のTRAILERです。隈研吾さんの土地で、隈さんの息子さんの隈太一さんの企画・設計で、昨年秋から一年間限定でレストランをやっているということ。近所に住む友達に紹介されて行ってきた。
ほぼカウンターだけの狭い店内。平日だけれど常に満席で賑わっていました。
メニューはステーキがメインで、ほかにも珍しいお野菜たっぷりのお料理が。次の日肉肉学会なのと、一緒に行った先輩が肉苦手のため、肉は控えました。。。
また行きたいお店でした。こんどはお肉を。
ちなみに、たまたま今週号の防災特集で隈研吾さんにインタビューをしていて、シェアハウスの話題が出ているんですが、このトレイラーの土地に3軒目のシェアハウスをつくる予定とのことです。そこにもレストランができるということなので、できたら行きたい。
肉肉学会
肉は人を幸せにする。でも、知識があると、もっと。
知識って身に付けると世界の感動が増強される究極のAR
— 稲見昌彦 Masahiko Inami (@drinami) 2010年11月6日
ということで、えとさんに誘っていただいて、知識を身に付けながらおいしいお肉を味わう肉肉学会へ。
肉肉学会というのは、元農水省の原田さんや格之進さんの千葉さんらによる活動で、1年半ほど前から活動をはじめて、すでに10回目となる。私は今回初参加でした。
今回のテーマはチーズ。冒頭で原田さんからチーズの知識のプレゼンが。ナチュラルチーズの説明など、ハードとかセミハードとかウオッシュとか案外良くわかっていないので、大変勉強になりました。むかーし、獣医学部時代に習ったような遠い記憶が。。。
原田さんのプレゼンが。
肉肉学会では毎回、生産者の方にも来ていただくとのことで、今回は那須のチーズ生産者の高橋さんがいらしていました。
お品書き。チーズに合わせたお肉料理とワインのメニュー。
一品目。一緒に食べても美味しいけれど、チーズとコンビーフそれぞれだけでもおいしかった。
二品目。右側の中に練り込まれた、十勝ラクレットというチーズ、おいしかったです。
お肉とチーズのサラダ。チーズがふわふわ。意外とあっさり。
チーズ2種「りんどう」「ブルー」。これと「十勝ラクレット」と一緒にお肉を食べます。
「十勝ラクレット」と千葉さん
骨付きミスジと熟成肉すじ。ブルーは少しきつくてブルーの味になってしまうのだけど、十勝ラクレット、りんどう、それぞれと一緒に食べるとまろやかで美味しかった。
Lボーン。あぶらがわりと強いので、私はチーズと一緒よりもこのままでよかったかなあと。
チーズ全部のせのリゾット。美味しかった。
デザート。右側のチーズは「ゆきやなぎ塩なし」。ふわふわでこくがあって美味しかった。チーズのデザート最高。
今回チーズの会でしたが、肉知識も身につけたいと思いました。
イミテーション・ゲーム/エニグマと天才数学者の秘密
ナチス・ドイツのエニグマによる暗号の解読を進めた英軍でのアラン・チューリングのストーリーを描いた「イミテーション・ゲーム/エニグマと天才数学者の秘密」を観ました。AmazonPrimeで無料だったから。もう2年前の公開なのね。
アラン・チューリングは言わずと知れた数学の天才で、今のコンピュータの父であり、人工知能(という言葉は当時はなかった)の元の理論を作った天才であり、また機械と人間を判別する「チューリングテスト」の由来にもなっている。
詳しくは、以下で桂さんが解説しています。いい記事です。
時は対独戦争中。ドイツ軍の爆撃機ががんがん飛んできて、軍艦だけでなく、民間船や米国からの救援物資の輸送船までもがんがん爆撃していく。いったいいつどこからやってくるのかわからないドイツ軍に、英国は怯えている。
そのドイツ軍の動きの鍵を握るのが、暗号生成器のエニグマだ。ドイツ軍は毎朝6時に無線で暗号を送信している。英軍はこの信号の傍受をしているが、エニグマによって暗号化されているから解読できない。それも、暗号を解読するキーは毎日0時に更新される。たとえ1回解読できても、次の日にはまたゼロからやり直しになるというわけだ。
そこで、英軍は暗号のキーを生成するために、チューリングらはマシンを作ろうとする。マシンによってキーがわかれば、ドイツ軍の暗号を解読して、次の爆撃予定地がわかる。ドイツ軍の動きが手に取るようにわかるようになるというわけだ。
チューリングらは数学者。でも、その数学の手法によって英軍を支援して戦争に勝とうとする。映画の中でチューリングが自分たちがマシンを作るのは、「戦争に勝つのが目的だ」と言う場面がある。
チューリングは、暗号解読のためにマシンを作るのに10万ポンドの予算を要求する。重要な軍の任務のためだから、その予算は出て、チューリングらはマシンを完成させる。
戦争は、有史以降ずっとテクノロジーの進歩を後押ししてきた。原爆開発で有名なのはマンハッタン計画だが、第二次世界大戦中は日本でも「科学技術動員」として科学者・技術者が戦争のために集結された。チューリングは戦争がなくても天才だっただろうが、戦争がなければ、暗号解読のためのマシンは作られなかっただろう。
今の日本では、「軍事研究」に対するアレルギーのような拒否感が強い。でも、ずっとそうだったわけではない。先日読んだ杉山先生の「「軍事研究」の戦後史:科学者はどう向き合ってきたか」で非常に興味深かったのは、日本の科学者やメディアの中に「軍事研究」を否定するアジェンダ形成がされてきたのは、戦後20年かけてのことだったというくだりだった。
先の戦争での科学技術動員に対する反省から「軍事研究」を禁止する流れとなったと説明されることが多いが、そんな単純な話でもなく、左翼の活動や全共闘、学生運動の関連も深い、と東大全共闘を知る教員関係から聞いたことがある。
まあそれはさておき。
戦争、もしくは安全保障や防衛と、科学者、技術者、科学技術研究のあり方は、「軍事研究」とか「デュアルユース」といった単語で思考停止してしまうのではなく、もっと細かく具体的に考えないといけないんじゃないかなあと思うのです。ただ是非を声高に叫ぶだけじゃなくって。
6年前の今日
東日本大震災から今日でちょうど6年。毎年振り返っているけれど、改めて振り返り。6年前の3月11日も、今日みたいに青空が広がる、良い天気でした。
2011年3月11日は、午前中はつくばの動衛研に取材。お昼くらい、帰りのTXで、その前日にインタラクションで取材をして書いた原稿を、土曜の夕刊用に出稿しなおすようにデスクから指示があり、いったん大手町の本社に向かった。出稿用の記者端末を持ち歩いていなかったので本社で出稿しなおして、歩いて霞が関へ向かった。
当時、本社にもデスクがあったが、厚労省の記者クラブに所属していて、厚労省に常駐していた。15時から厚労省で感染症関連の審議会の取材があったので、それに間に合うようにと、向かったのだ。
雲一つない良い天気だった。だから(花粉症とはいえ)、大手町から霞が関まで皇居を望む内堀通りを歩いていくのはいい運動で気持ちが良かった。
日比谷公園を通過したのが14時半ごろ。まだ少し時間があるので、厚労省が入っている合同庁舎5号館に近い日比谷公園内のカフェテラスで、カフェラテを頼んで出てきたところで、地面が揺れた。
地震は部署の担当なので、とっさに本社に上がらなきゃって思った(入社してすぐの2007年の中越沖地震では祝日だったが本社から呼び出しがはいり、「携帯鳴らすまえに本社上がれ」とキャップから怒らたものだった)。
携帯はすでに通じず、キャップからメールで安否確認と指示が入った。とりあえず友人や弟に安否確認のメールをして、合同庁舎5号館から記者クラブの同僚や取材予定だった会議参加者らがぞろぞろと出てきて日比谷公園(避難場所だ)に集まってくるのに出会った。
すでにタクシーは捕まる気配もなく、仕方がなく大手町まで歩いた。道中同じような人たちがたくさんいたし、皇居前広場には避難している人たちが集まっていたから、写真を撮りながら本社に戻った。
2009年に新築された新社屋の編集局は高層にあり、私の所属部署も26階だった。当初から編集局を高層にするなんて正気の沙汰じゃないと言われていたが、案の定エレベーターは止まっているので、26階まで汗だくになって階段を昇った(途中でへばって倒れている?おじさんたちがいた)。
その日帰れたのは2時くらいだったか。一旦止まった地下鉄が一部運転再開したので地下鉄で帰った。普段なら宅送りで帰るが、道路よりも再開した地下鉄のほうが早そうだったから。翌日からは早番と遅番でローテが組まれて、震災・原発対応が、部署が変わるまで続いた。
今日の14:46には黙祷をしました。
技術なくってよし、を選べるのかどうか
研究者や技術者の取材をここ10年近く続けている。研究者も技術者も、テクノロジーによって課題解決をする。逆に言うと、その課題解決にたとえテクノロジーが必要ないとしても、あえてテクノロジーを適用する傾向があるということなのではないのかしら。
テクノロジーと社会について色んな人が色んな所でいろんな課題を挙げる。代表的なのが自動走行車だ。自動走行になると、「トロッコ問題」をどう考えるか。といった議論をみんな好むみたい。
でも、なぜ自動走行なのか、っていうところは、案外議論されていない。自動走行の技術を入れるとことは大前提となる。なんらかの課題解決のための自動走行、ではなく、そもそもの問いが自動走行の技術をいかにして社会実装するか、という議論が多い。(もちろんグローバルな流れを鑑みても、日本企業の自動車産業保護や技術的優位性という観点でも自動走行技術の開発は必須だが、そのうえでのあえての)
例えば、ある課題がある。課題解決としてのテクノロジーがある。ところがその社会実装に際して、さらなる課題が生じる。って言うケース。これをそもそもから考えた時に、では、そのテクノロジーはやめては?って言えるのかどうか。原発では言えなかったよね、誰もが。
ということを考えていた時に、じゅんじさんとドミニクさんが監訳された本が先日出まして、去年末からじゅんじさんにこの「ウェルビーイング」の話を聞いていたから、改めて聞きに行ってきました。
- 作者: ラファエル A.カルヴォ& ドリアン・ピーターズ,渡邊淳司,ドミニク・チェン,木村千里,北川智利,河邉隆寛,横坂拓巳,藤野正寛,村田藍子
- 出版社/メーカー: ビー・エヌ・エヌ新社
- 発売日: 2017/01/24
- メディア: 単行本
- この商品を含むブログを見る
前から、エマちゃんにじゅんじさんを紹介したいと思っていたので、せっかくならとエマちゃんと一緒に聞いてきて、せっかくなので対談にして記事にまとめた。まあ長いです。
ウェルビーイングの詳しい内容は記事の中でじゅんじさんも言っているしここでは書かないけれど、記事の中でエマちゃんも指摘しているんだけど、課題解決のために、ステークホルダーが一番大切にしていることを捨てることも選択肢ですよね、と。例えば、ステークホルダーが技術者であれば、技術を捨てることかもしれない。じゅんじさんは、それに対して、全然あり、と答える。じゅんじさんは情報技術の研究者だけれど、こういうことをサラッとおっしゃるからおもしろいなあと思う。
もちろん、私個人としてはテクノロジーは好き。テクノロジーに期待をしている。テクノロジーはこれまでもたくさんの課題を解決してきたし、これからも解決していくだろう。それは、単純な代替や効率化だけではなく、もっと人のウェルビーイングにかかわるところでも適用可能だろう。
それでも、テクノロジーありきで考えない、というのはとても大事なことだと思うのだ。
GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊の中で素子がこう言う場面がある。
便利なものよね。その気になれば体中に埋め込んだ化学プラントで血液中のアルコールを数十秒で分解してシラフに戻れる。だからこうして待機中でも飲んでいられる。それが可能であればどんな技術でも実現せずにはいられない。人間の本能みたいなものよ。代謝の制御、知覚の鋭敏化、運動能力や反射の飛躍的な向上、情報処理の高速化と拡大。電脳と義体によってより高度な能力の獲得を追求した挙句、最高度のメンテナンスなしには生存できなくなったとしても、文句を言う筋合いじゃないわ。
技術は便利だけど、リスクでもある。両面を常に併せ持っている。
当事者不在の議論
日本学術会議ではこれまでに2回にわたって「軍事研究」を禁止する声明を出してきた。一方、一昨年度から防衛省(防衛装備庁)による安全保障技術研究推進制度としたファンディングが始まり、大学などのアカデミア研究者が防衛予算によって研究をする仕組みが整った。
先日の検討会傍聴。混んでた。
縦目と順目
この複雑な世界を複雑なまま生きることは果たして可能か
日本酒
アルコールが苦手だ。すぐに赤くなり動悸が激しくなり、気持ちが悪くなったりする。学生の頃は飲み方もわからずよく吐いていた。たぶん、2型アルデヒド脱水素酵素がうまく働かないのだと思う。(アルコールは肝臓で1型アルコール脱水素酵素によってアセトアルデヒドに分解されたあと、ALDH2によって酢酸に分解される。顔が赤くなったり気持ち悪くなったりするのはアセトアルデヒドのため)
とはいえ飲み会は好きなので、よく行く。最初からウーロン茶を頼むか、最初にビールや酎ハイを頼むと、最後までかけて半分くらい飲む程度。赤くなったら嫌だなあとか気持ち悪くなったりしたらたくさん話せなくて嫌だなあと思うと飲めない。だいたい飲まなくても楽しいし、なんでも話せる。
ということで日本酒のようにアルコール度数が高いものはこれまでほとんど馴染みがなかったけれど、ここ数週間で立て続けにたまたま口にした日本酒がめちゃくちゃおいしくて、びっくりした。それも、ワイングラスに少なめ1杯くらいだけど、全然気持ち悪くならなかった。
昨日少し飲ませてもらった日本酒も美味しかった。
日本酒っておいしいのか。なんか今まで損した気分。
LIVING LAB HONGO
CABINはみこしだった。みんながそこに集まった。
っていう話を、CABINが撤去される直前に開かれた「さよならCABIN」といういうイベントで先生方が仰っていたのが忘れられない。
CABINは部屋の5面がディスプレイになっている没入型ディスプレイで、1990年台後半から2012年ごろまで東大IMLにあった。そこでは、工学系の先生や学生だけでなく、心理学など文系の先生方も集まり、CABINを使った研究を行ったという。
「昔の工学部は設備産業。なかなか触れない設備が、人を集める力になった。少し前には3Dプリンターやモーションキャプチャーもその役割を果たしたかもしれない。でも今は違う。原点に戻ろう。人が集まるのは、おもしろい人が集まっているところ」
と、昨夜、稲見研LIVING LAB HONGOのオープニングパーティの冒頭で稲見先生がおっしゃった。LIVING LAB HONGOは、そのように人が集まる場にしていきたいという。
昨夜のオープニングパーティは、先生のその思いがとても伝わってきて、また実際におもしろい人たちが集まり、何かの反応が起きているような熱い場だった。
いいな、と思ったのが、異なる世代間の研究者たちの反応を垣間見られたこと。
「ばーかばーか」
と、若手セッションに乱入してきた少し上の世代のベテラン勢。その場では若手がやられっぱなしに見えたけれど、あとからついったー上で若手からの宣戦布告(?)のやりとりを目にして、にやりとしてしまった。いいなあ、って。
研究者に限らず、今の日本で起きているのは、世代間の考えの乖離だ。少子高齢化と人口減少で社会が衰退期に向かっている一方で、具体的にどうしたらいいのか大きなストーリーが誰もが描けていない。その中で、「未来」の年数の違いがそれぞれの考え方に大きく影響して、世代間での乖離が進んでいるのが現状だと思っている。
その乖離自体は仕方がない。でも、問題はそれぞれの間でお互いに対する理解が進んでいないことだと思うのだ。異なる考え方の人同士の乖離が生まれているのはなにも世代間に限らないけれど。でも、LIVING LABのような、色んな人が集まる場が、そういう乖離を少しでも埋められるといいな、と思った。
それと、こういう場が大学の中にある、ということに意味があるようにも思った。少し前にある業界の大御所研究者がこうおっしゃった。
「大学はいいよ。異なる分野、業界の人達と一緒にプロジェクトを進めるために。なんでだと思う?」
と聞かれ、中立だからですか?と答えたら、
「(企業などとくらべてセキュリティが甘く)誰でも入れるから。それと大学は社会から敬意を払われている」
と笑った。
その先生は、数年前から省庁横断で産学官のプロジェクトのトップをつとめることになった。ずっと専門性を突き詰めてきたから、異分野の研究者や業界の人たちとの協働は始めてづくしという。それでも、その先生のお人柄もきっとあり、分野が違うと常識が違う、ということをすごく楽しんでいらっしゃった。
それはともかく、LIVING LAB HONGOのこれからがとても楽しみ。
「マイクロバイオームの世界 あなたの中と表面と周りにいる何兆もの微生物たち」(ロブ・デサール&スーザン・L.パーキンズ著、斉藤隆央訳、紀伊国屋書店)
マイクロバイオームの世界――あなたの中と表面と周りにいる何兆もの微生物たち
- 作者: ロブ・デサール,スーザン・L.パーキンズ,パトリシア・J.ウィン,斉藤隆央
- 出版社/メーカー: 紀伊國屋書店
- 発売日: 2016/12/01
- メディア: 単行本
- この商品を含むブログを見る
電王戦の終わりと、人工知能と共に生きていく人間と
コンピュータ将棋とプロ棋士が対局をする電王戦は、今年4月の開催をもって終了するという。
記者会見でドワンゴの川上さんが
電王戦をドワンゴでやっていこうと決めたときから、将棋界のことだけではなく、人間とコンピュータの関係がどうか、人間社会に示すと決めてやってきた。その意味で、人間とコンピュータが同じルールで真剣勝負をするというスタイルが果たした歴史的役割はこれで終わったと、(電王戦を)終了することにした
と言っていた。つまり、勝負にならないほどすでにコンピュータのほうがずっとずっと人間よりも強くなったのが現状というわけだ。
この今終了という時期については、情報処理学会ではすでに1年半前にコンピュータ将棋プロジェクトの終了を宣言しているし、電王戦の発表があった日にあるAI研究者とこの話をしたら、むしろ電王戦を終わるのは遅い、まだ続けるの?という見解だった。なるほど、そうだなあ。そして羽生さんは結局コンピュータ将棋との公的な場での直接対決のタイミングを永遠に逃してしまったのだなあ、今更だけれど、2年位前に言っていた話だけど。
将棋や囲碁のようなルールベースの完全情報ゲームは、そもそもコンピュータが得意とする分野。アルゴリズムとデータ量と計算機のパワーが上ば、コンピュータが強くなるのは必然だ。
だからといって、コンピュータ(いわゆる人工知能)が人を超えたということには当然ならない。が、そうはといっても、そもそも人間の知能に近づけるとして研究開発されてきたコンピュータや人工知能なので、多くの人びとの関心は高い。
でもね、コンピュータ将棋のように、人とコンピュータ(人工知能)が競い合って注目を集めるショーはすでに時代遅れ。時代はもっと進んでいる。だって、実際に「使える」コンピュータ(人工知能)がもうそこにあるものだから。じゃあどう使うか。と、だからもっとプラクティカルに考えないといけない。
それは、普通の人たちだけではなく、コンピュータや人工知能に詳しい研究者やエンジニアも同様だ。
ということで、人工知能学会倫理委員会では、研究者が社会と対話をしていくための基盤としての倫理指針をこの2年間議論して作ってきた。それが昨日の学会の理事会で承認された。
みなさまお疲れ様でした。でも、やっと基盤ができたところだから、これから、ですね。
人の感情に働きかける
「人は泣くから悲しいのか?悲しいから泣くのか?」
心理学では、「人は泣くから悲しい」という説が支持されているのだという。身体反応が先に立ち、それから感情が生まれる。
「扇情的な鏡」という作品がある。ディスプレイを鏡に見立てて、ディスプレイ上のウェブカメラに写った人の顔をリアルタイムでディスプレイに表示し、且つその顔の表情を変化させるというものだ。
白の鏡は、そこに映った顔を笑顔にする。
黒の鏡は、そこに映った顔を悲しい表情にする。
昨日、これを作ったしげおさんの作品展示とD論お疲れ様会がありました。情報提示によって人の感情に働きかける領域を、しげおさんはCybernetic Mindsと呼ぶ。
「泣くから悲しい」なら、「泣く」状態をつくってあげたら?というのがこの涙眼鏡。
眼鏡をかけると、眼鏡から水滴が目頭にでてきてあたかも涙のように頬をつたっていく。以前デモを体験させてもらった時には、悲しくなるというよりも、笑ってしまったけれど。
ところで、泣いている人を見たら、自分の悲しくなるのではないだろうか。これが「情動伝染」だ。涙眼鏡は当初は扇情的な鏡のように本人の感情をつくることを狙っていたが、展示中、涙眼鏡のデモを体験している人を横から見ていたおばあさんが、悲しくなる、と言ったという。そこから、涙眼鏡は情動伝染を作り出すのでは、と考えるようになったとしげおさんは言う。
その情動伝染をもっと便利に使おうとしたのが、「smart face」。
Skypeのようなウェブ会議システムで相手と話すとする。その時に、自分が笑うと、ディスプレイに表示される相手の顔も笑うように、画像処理されるシステムだ。自分に共感をしてくれるように感じて、共感を生むのだという。
感情は、私たちは毎日付き合っているにも関わらず、(だからこそかもしれないけれど)その詳しいメカニズムはよくわかっていない。というかメカニズムってなんだ。わかるってなんだ。
自分や他人の感情のコントロールは、すでに私たちは日常的に自然にやっている。それを情報技術でサポートする、というのはおもしろいと思う。だが、言語や表情、態度、行動といった生身の人間の言動によって自分や相手の感情をコントロールすることは日常的に行われているが、情報技術の介在がどれだけ認識されるのだろうかという不安はある。自分で気づかないうちに自分の感情がコントロールされる。日常でもよくあることだ。でも、それが誰かによって恣意的に、ツールとして情報技術を使って行われるとしたら、なんか気持ち悪いな―、種明かしを事前にしてほしいなーって、思うんだろうな。なんでだろ、自分や他人の感情コントロールそのものは日常的に行われるものなのに。