「信じてはいけない 民主主義を壊すフェイクニュースの正体」(平和博、朝日新書)
昨年の米大統領選挙で問題となったフェイクニュース。朝日新聞記者の平さんは、個人ブログ「新聞紙学的」で、米大統領選をめぐるフェイクニュースの現状、それに関連した国内外の動きを追っていた。それらをまとめた大幅に加筆したのが本書だ。
主にアメリカにおけるフェイクニュースの現状とその背景、それらに対する対応といった今知っておくべきことがまとまっている。日本の報道ではなかなかわかりづらい、アメリカを中心とする海外の動向が詳しい。
フェイクニュースが政治や社会を動かすほどに存在感を増す背景にあるひとつが、インターネットというインフラだ。だが、こうした問題は何も今突然出てきたわけではない。
本書でもたびたび引用されるが、アメリカの政治学者、キャス・サンスティーンは、2001年の著書「インターネットは民主主義の敵か」で、メディア空間の分断と、真偽不明な情報の氾濫の影響をすでに指摘している。
「インターネットの父」ティム・バーナーズ=リーは今年3月に来日して行った講演で、分散型から中央集約型になりつつあるネットの現状において、合わせて個人情報の扱い、フェイクニュースへの懸念を示したが、10年以上前から警鐘を鳴らしてきたという。
今後克服していくためにも、まずは現状把握が必要であり、本書はその大きな助けになる。
人工知能と安全保障技術研究ーその議論の素地を作っていく
日本では安全保障に関連する技術の研究や開発ー「軍事研究」と呼ばれることもあるーについて、イデオロギーなしでフラットに議論ができないものか、っていうか議論したいということを前に書きました。
同じように感じている人は私の周りの研究者やメディア関係者にはちらほらいて、そういう人たちとよく一緒に議論をしています。
こういうことを言っていると、あなたは記者なんだからあなたが書けばいいと、よく言われます。
それについては、前に弊誌でも書いたけれど、そもそも議論がないので、取材ができないという問題があります。議論があるところはイデオロギー論争をしている。私が知りたいのは、実際に手と頭を動かしている、工学系や情報系の研究者がどう考え、具体的にどうしているか、今後どうしていくかです。
議論がないから取材ができない。取材ができないと記事が書けない。そうするとますます議論にならない。
ならば、ないなら作ればいい。と、工学系や情報系の研究者の人たちと議論の場のための素地をつくろうと、ここのところ畑を耕しています。工学系や情報系の研究者の方たちと、安全保障技術をめぐる国内外の現状について、クローズドで勉強会をするとか、議論をするとか。
少しずつ種も蒔いています。
そのひとつが、先月の人工知能学会全国大会での倫理委員会の公開討論です。エマちゃんと2人で企画したこの公開討論で、AWS(Autonomous Weapon Systems)の議論をすることを念頭に置きました。
なお、公開討論のレポートは↓
これに関連して、日経コンピュータの浅川さんが先日、以下の記事を書かれました。
倫理委員会の公開討論のほかに、中で出てくるIEEEのワークショップもまたエマちゃんと一緒に企画と運営をしたものです。ちなみに、浅川さんはワークショップにも来ていただいてありがたい。
ワークショップの詳細はこちら。このワークショップは、倫理に配慮した人工知能の設計についてのIEEEのレポートへのインプットのための意見抽出が目的でしたが、8項目のうちもっとも議論になったのが、AWSの項目でした。なお、このページの一番下にはレポートもあります。
IEEE “Ethically Aligned Design, Version 1” Workshops in Japan - Workshop In Japan
こうやって少しずつでも議論の素地を作っていければなあと思っています。
最良の友は犬か猫か
先週の大特集は、犬と猫の特集でした。冒頭のトップストーリーと匿名座談会のページを担当して、記事はウェブでも公開されています。
犬か猫か論争はきのこたけのこ戦争並に永遠に噛み合わない論争なので、どちらかの陣営に与することはよろしくないと思いつつも、私は断然犬派です。正確に言えばレオナルド派。実家で飼っていた今は亡きゴールデン・レトリバーのレオナルドが一番なのです。犬とか猫とか犬種とか以前に、レオナルド。
とてもかしこい子でした。
社会や経済にとって重要な意志決定の場、または重要な情報共有の場には、若者も女性もいない
特集のために久しぶりに企業取材をしていて、ある会社の株主総会に取材で行ってきました。報道関係者は会場には入れませんが、別室で中継を見ます。最近どこで何の取材をしていても気になることが、ここでも気になったこと。
スーツのおじさん、おじいさんたちしかいない。見渡す限りスーツのおじさん、おじいさん。
会場入口から入っていく株主の人たち、報道関係者の部屋にいる記者たち・・・。ほとんどがスーツのおじさん、おじいさん。
普段、科学技術関連の取材にいく役所の会議やイベントでも、ほとんどがスーツのおじさん、おじいさん。報道する側の記者も同様だ。そういう場にいるのは、男性ベテラン記者が、多い。
つまり、社会や経済にとって重要な意志決定の場、または重要な情報共有の場には、若者も女性もいないのだ。おっさん、おじいさんばっかり。
そんなことは国会中継を見ていれば誰でも知っていることです。でも、そこだけじゃない。この日本では、特に重要な意志決定や情報共有を伴う場は、隅から隅まで、男性で占められている、特に高齢男性によって。
私は女性で、多分まだ若手に入る部類。だから、そういう場にいるとものすごく違和感を感じるけれど、一方でつい最近まではそういうものだって慣れてしまっていた。疑問を持たなかった。でも、社会や経済について重要な意志決定や情報共有を伴う場がおじさんとおじいさんたちにほとんど占められているって、異常なんじゃないのかと、昨今の沈みゆく日本を観察していて、思う。彼らは未来に責任を持たないよ。
川国志
先週末、川国志へ。唐辛子と中国山椒を、定期的に体が欲します。
魚の水煮
麻婆豆腐激辛中国山椒多め
ラーズージー
幸せでした。そして案の定、次の日お腹を壊しました(定例)。
人間をアップデートする
先週、URFCのシンポジウムで稲見先生の講演があるというので、行ってきました。人間拡張工学についての研究の話。
スーパーヒューマンとかネクストヒューマンとかHomo deusとか、言い方はいろいろあるかもしれませんが、テクノロジーによって人間をアップデートするという考え方が好きです。
恣意的にこうやって変えようとしなくても、人間はどんどん変わっているものです。身体においても精神においても。それならば、自身であろうと他者であろうと誰かの意図によって恣意的に変えられるのかしら、というのに興味があります。
もっとも人間の変化には必ずしもテクノロジーが関わる必要もありません。肉体改造は筋トレをすればいいわけだしね。
でも一方で、テクノロジーが関与して、精神、こころの部分がどのように変わっていくのか、変えていけるのか、もっというと設計できるのか、興味があります。
これは行き過ぎると、人間の意識、こころの部分をあたかも機械のように扱うということになるので、人間の尊厳という点で議論がある部分だと思います。でも、そういう議論も含めて、私は好きです。
胸像
とある研究会に参加で初めて訪れる建物へ。トイレを求めてさまよっていたら、廊下の扉を開けると、胸像が目に飛び込んできました。普通に心臓に悪い医学部迷路。
早稲田のカフェ
久しぶりに早稲田へ行きました。取材で。
アポとアポの間に時間があいたので、数年前に早稲田大で働いていたことがあり、その時に時々来ていたカフェへ行きました。ケーキとコーヒーおいしかった。
SCHAFTがGoogleからソフトバンクに買収される
ツイッターを見ていたら、ソフトバンクがAlphabet(Googleの親会社)から、ボストン・ダイナミクスを買収するというニュースが流れてきた。
ソフトバンク、Boston Dynamics の買収に合意 ~スマートロボティクス技術の開発促進へ向けたコラボレーションへ~
もしや、と思って読み進めると、SCHAFTも買収するとある。やったー!!わーい!!
と朝から興奮。
SCHAFTとボストン・ダイナミクスはDARPA Robotics Challenge(DRC)出場を控えた2013年末、Googleに買収されたことが発表されました。
その一年ほど前からSCHAFTを取材していた私は、なぬー!聞いてない!!!となって、これは中西さん(SCHAFTのCEO)に聞きに行かないと!!と速攻航空券を取り、その2週間後DRCが開かれているマイアミへ行きました。(仕事じゃなくても行くつもりだったけど、結果的にいくつかの媒体に記事を書きました)
買収後はGoogleの方針で、SCHAFTの取材は一切できなくなりました。
買収前にSCHAFTを取材していたのは、SCHAFTの出身研究室のボスの先生からの紹介が発端でした。2012年末、何かのシンポジウムの後の懇親会で、「すごくおもしろことをやっている若者たちがいるんだ」とものすごく楽しそうな顔をして先生はおっしゃいました。ロボットを作りたいとベンチャーを作ったこと、そのベンチャーとしてDRCに出場するということ、(先生のみたてでは)絶対に優勝するということ。
おもしろいー!と、DRCへの出場、優勝までを継続的に取材をして書きたいと先生に言うと、それはいいね、ということで、SCHAFTを紹介してもらいました。ひょんなところからその後半年間くらい、彼らと同じ建物の中で仕事をすることになり、私は仕事をさぼっては、彼らの所によく遊びに行っていました。取材と称して。
というところで、Googleに買収されて取材が継続できなかったので、なぬー!となったわけです。DRCの予選で彼らが優勝する様子を見届けて、まあしょうがないやと思いましたが。(本戦はGoogleの方針で出場しなかった)
そこで、トヨタ(TRI)がSCHAFTを買収するという話が出た時には、おお、これでまた彼らを取材できる!とほくそ笑みました。TRIにはDRC関連で彼らと馴染みが深いギル・プラットやジェームズ・カフナーがいるので、有り得そうな選択肢だな。と思ったのです。またGoogleで彼らを買収したアンディ・ルービンはすでにGoogleを去り、自身のVCを設立していました。が、交渉が頓挫しているという話を聞けばやきもきしていました。
というところでのソフトバンクです。ソフトバンクは取材できるといいな〜。今となっては、自分はGoogle買収前のSCHAFTについてかなりよく知る記者だと思う。
なぜ、イデオロギーなくフラットに軍事研究の議論をできないのか
と、ずっともやもやしています。「軍事研究」っていう単語が適切かどうかはよくわかりませんが、ミスリードになりがちな単語だと思っています。防衛や軍事のための研究開発について、どう考えたらいいのか、よくわかりません。でも話題には上がります。最近では、AWS(Autonomous Weapon System)の話題もよく出てきます。
だから、話を聞きに行きます。研究開発の話だからと、研究者に聞きに行くと、たいてい、取材になりません。ほとんどの研究者は、防衛や安全保障、軍事と研究を結びつけて考えたことがないといいます。
一方で、声高に話をする人達は、政治的主張に基づいて発言をしているのですね。研究開発そのものの話ではなく。
防衛や軍事のための研究開発について、議論して、考えることができる場が、あまりにも少ないと思いました。とても大事な問題であるはずなのに。
先日、「武器と市民社会」研究会へ行ってきました。「武器」の話になると、「右」か「左」かのイデオロギーに分かれて、両者が一緒に話すことができない、というのが主催者の問題意識で、なのでこの研究会では、お互いが議論できるようにという場でした。
でも、やっぱりイデオロギーがはっきりしていると、かみ合っていないという様子もわかりました。登壇者4人のうち、2人が「右」、2人が「左」と言う色も見えましたし、対話や議論というよりも、やはりお互いの主張があったうえで、それらが交わることはないパネルでした。
でも、多くの研究者(工学系、情報系)は、「右」か「左」かというイデオロギーに基づいて研究をしているわけではありません。自分も含めて、政治的主張がとくにない人たちと、フラットに話をしたいと思っています。そういう場は、やっぱりない。
先日、人工知能について研究されていて、本を書かれたフランス人の客さん(情報系教授→哲学教授に変わった研究者と情報系教授)が来ていて、クローズドで2時間ほどフリーディスカッションのワークショップをしました。
AWSについて興味がある。と私は言いました。日本では、研究者はこうした話題について議論をする場がない、話題に触れることもできない空気がある。フランスではどうか。と聞きました。
彼は、まったく何を聞きたいのかわからないという顔をしました。防衛や安全保障は国にとって最も重要な問題で、その研究開発について研究者が議論に参加するのは当然のことであると。あとからフランスを良く知るKに呆れられましたが、軍需企業で食っているフランスでは当たり前のことでしょう、と。
議論の素地すらできていないのです。今の私たちのまわりでは。でも、まずは知り、考えること。そして、そのための場が必要だと思いました。
おやつがたくさんあるワークショップでした。
*
「軍事研究」の定義自体がよくわかりませんが、、、議論のためにわかりやすく整理をするなら、防衛・軍事にかかる政府系機関から研究費等の支援を受けて行う研究、という整理が一般的かと思います。たしか、杉山先生の本でもそういう整理をしていた。
ちなみに、日本の科学技術予算約3兆5千億円のうち、防衛省予算は約1200億円です。ということで、日本にもいわゆる「軍事研究」はちゃんとあります。当たり前ですが。とはいえ、日本には軍はなく、軍事はないということになっているので、防衛技術研究とか、安全保障技術研究と言うのが正確かと思います。
これまでは、防衛装備品(つまり武器)の開発は防衛装備庁(昔の防衛省の技本)と企業がになっているということになっていました。ところが、2015年から防衛装備庁(当時は防衛省)が、大学や研究機関、企業向けの研究費助成を始めたことから、話がややこしくなりました。これまであって、防衛予算は当然大学や研究機関にも流れていたわけです。それが、公募と言ういう形でより明示的になったため、これまで2度の声明で「軍事研究」を禁止してきた日本学術会議では「軍事研究の是非」と言う議論になり、今年3月に出した声明で、これまでの声明を踏襲する形で「軍事研究」を禁止するということになりました。
「軍事研究」の議論になると、だいたい「右」か「左」か何らかの政治的主張が伴うものばかりで、どちらでもなく、というか科学技術やアカデミアに関心のある自分としては、なんだかなあ、という気分でいます。本音と建て前と言うか、現実と虚構というか、イデオロギーの主張というか。
現実的には、いわゆる「軍事研究」に含まれる、安全保障技術研究もしくは防衛研究は存在し、その公的予算も増えています。
じゃあ、それをないものとしなくて、現実的にどう理解したらいいのか、よくわかりません。だから、みんなで勉強して、考えて、議論していけたらな、って思っています。
VRで無限階段を上り下りしてきた
昨日今日と開催中の東大・駒場リサーチキャンパス公開で、廣瀬・谷川・鳴海研の無限階段VR(でよいのかしら?)の体験ができます。
無限階段VRは、HMDを付けて階段を上り下りするのですが、足元に細い棒が等間隔で置かれていて、これを踏みながら歩くことで、あたかも階段のエッジを踏みながら階段を上り下りするというものです。
写真は体験させてもらったときのもの。センサー付きの靴を履き、HMDを被って、等間隔に置かれた棒を踏みながら地面を歩きます。写真右手のパソコン画面の映像が、HMDをかぶった私の視界に入ってくる映像です。映像では、階段を下りているように見えます。
階段を上るときはまだしも、降りる時は、HMDの映像が結構急なので映像を見ているだけで足がすくみました。これは通常のHMDだけのVRでも同様かと。ただ、この無限階段VRでは、一歩足を踏み出すと、足裏に棒が触れるので、階段のエッジのような感覚を得られ、なんとなく安心感につながって一歩ずつ降りやすかったような気もします。
無限階段VRのポイントは、HMDによる映像だけではなく、足裏で棒を踏むことによる触覚の効果を加えているところです。これでリアリティが増すのはあるのかと思いますが、VRの世界にもかかわらず現実世界を歩いているのだという確認をとれることによる安心感みたいなものがあるのかなあと思いました。
普通に現実を生きていても、あれ、今って現実だっけ、と手をじっと見ることが時々あって、そこに本当に手があると安心する。というような安心感が、無限階段VRでは足裏の感覚によって得られるのかなあと思いました。
なお、この関連研究は、Unlimited Corridor(無限回廊VR)。9月のメディア芸術祭でも体験できるのかしら、どうなのかしら。
↓前に書いたUnlimited Corridorの記事
Unlimited Corridorでは、VRによる視覚だけでなく触覚の効果を加えることで、空間知覚まで変わってしまうと言うところが面白かった。実際は円柱の壁に沿って歩いているのに、あたかも真っすぐに歩いているような感覚がします。この感覚は相当強烈で、仕組みを知っていても騙されます。
これと比べると、無限階段VRでは衝撃はそんなにないですが、ただ細い棒だけで階段を上り下りする感覚を増強できるというのは、簡便だし実用的だなあと思いました。
ロボカップはトヨタHSRを観に行くつもり
今年7月に名古屋でロボカップが開かれます。今年から公式ロボになっているトヨタHSRを観に行くつもりです。
RoboCup2017 Nagoya Japan(ロボカップ2017 名古屋世界大会)
ロボカップはソニーCSLの北野さんらによって「2050年に人型ロボットでサッカーで世界チャンピオンに勝つ」というのをゴールに1997年から毎年開かれているロボコンです。サッカーだけではなく、レスキューロボット、ホームロボットのコースもあります。
先週名古屋であった人工知能学会全国大会では、ロボカップ@ホームのデモがありました。
こんな、リビングを模した空間でロボットがタスクをこなすのを競います。ロボットのハードウェアは参加チームでオリジナルを作るほかに、トヨタの生活支援ロボットHSRも公式ロボットに含まれています。HSRはこの写真の中には2台映っています。
ロボカップに併設して、Amazonのロボットチャレンジも開催されます。これも楽しみ。
なぜ、人工知能と社会とか倫理とかに興味を持って、いろいろと動きまわっているのか?
人工知能学会倫理委員会の委員をやっています。もちろんノーギャラで。何をしているかというと、会議でわいわい話したり、先日の人工知能学会全国大会での公開討論の企画・準備と当日の司会したり、報告書つくったり、サイトのお世話したり。あと、同じく委員のエマちゃんとは、人工知能と社会、倫理をテーマに、これやりたいねーあれやりたいねーといつも企みごとをしていて、実際一緒にワークショップをやったりレポートを書いたりしています。もちろんノーギャラ。
先日の公開討論のことをFacebookに書いたら、「ながくらさんのこういう取り組みの価値が全くわからない」ともりやまさんにコメントをもらいました。
人工知能ブームになりつつある3−4年くらい前から人工知能とか社会とか倫理とか話題になりだして、なにそれなにそれ?っていうただの好奇心でいろんな人に話しを聞いたり議論したりとうろうろしていたら、気付いたらなんだかいろいろ自分も関わるようになっていました。なので、わからないと言われても、ただ自分の興味のままに動いているだけで特に価値とか考えていないんですが・・・と言っても納得してもらえそうにないので、なんでかなあと考えてみることにしました。
ちなみに私は人間に自由意志は存在しない派で(今のところ)、自分の現状や行動は環境とのあらゆる相互作用による身体反応の結果で、行動の理由は自分で説明できるものではないと思っています。後付けの理由ならなんとでも説明できるんですけど。でも意図を持ったポジショントークならともかく、その説明ってなんか意味あるのかなーと思ってしまうのがコミュ障といわれるとこなんですかねごめんなさい。
ですが、がんばって理由を考えます。まあ後付けですけど。ポジショントークかもしれないですけど。
お前の取り組みの価値は何だ?と聞かれていますが、価値ってなんだっけ?と価値の定義から考えて出して問いの意味がよくわからなくなったので、とりあえず問いは、「なぜ、人工知能と社会とか倫理とかに興味を持って、いろいろと動きまわっているのか?」とします。
回答1:研究者がおもしろいから
Facebookでも書いたんですが、人工知能ブーム以降、人工知能と倫理とか社会とかたびたび話題になり、研究者(工学系、情報系)の方たちに取材に行くと、「倫理や社会議論するって研究者にとってなんのメリットがあるの?」と言われることは何度もありました。ですよねーと思います。全くもって同意します。
それでも、倫理委員の皆さんを始めとして、工学系や情報系の研究者の方たちの中には、倫理とか社会とかめんどくさいことにわざわざ積極的に関わって、勉強して議論をする方たちがいます。その議論の内容も興味深いんですが、その態度や行動そのものがおもしろいなあと興味を持ちました。なんでこの人たちは、一文にもならないし、自分の研究に直接関係しない、しかも自分の専門ど真ん中でもないのにこんなに一生懸命に時間と労力を使って勉強したり議論したりするのかなあと。
一方で、そういう研究者たちの態度そのものが、社会の何かを作っていったり良い方向へ変えていったりするんじゃないかなあという期待があります。だから、彼らをちゃんと見て記録していかないと、自分にできることはサポートしないとと、見ていて自ずと思っています。それで、なんだかいろいろとやっています。
回答2:多様な人たちの多様な視点を抽出して整理することがおもしろいから
人工知能と社会や倫理を巡っては、書籍のほかいろんな組織がつくるドキュメントやメディアの記事など、ここ数年で大量のテキストで溢れかえっています。でもそれぞれ論点も視点もバラバラで、主張が先にたっていたり、根拠がよくわからなかったり、とにかく混沌としています。
私は頭が悪いので、自分の理解を助けるためにそれらの議論をちゃんと整理をしたいと思いました。そう思ってもやもやしていた2年位前に飲み会(2人ともお酒飲めないのでウーロン茶を飲む会)で話して意気投合したのがエマちゃんで、彼女は頭が良い上に、私と同じように議論の整理をしたいと思っていました。
初めのうち、私はまず人工知能と社会や倫理に関わる、いろんな人の話を聞いて、テキストに起こそうとやってみました。でも、これだと一方的で主観的な意見になりがちで、大量のドキュメントを読むのと変わりません。そうではなくて、色んな人たちの意見がぶつかって変容していく、それによって議論が整理されていく様を見たいな、と思いました。
人工知能と社会や倫理に関わる人たちは、もちろん工学系や情報系の研究者だけではありません。エマちゃんのような人文社会科学系の研究者、企業の方、行政の方、メディア(自分も)もそうです。そうした、社会の中で何らかの専門性を持つ、さまざまな領域の人たちが、「人工知能と社会、倫理」に何らかの興味を持っていて、同じく興味を持っている自分もそのうちの一人なんですが、気づくとそういう人たちが自ずと集まって議論をするようになっていました。
余談ですが、人工知能と社会、倫理(に限らないが)の議論はファクトとオピニオンを分けて議論することがとても重要だと思うんですが、専門家の人でもこの件に関してはなぜかファクトとオピニオンをごっちゃにして議論をしがちです。それだけもやっとして何がファクトか、と切り取るのが難しい領域なんでしょうけれど。
そういういろんな人たちの議論の場をつくることで、上述のようないろんな人たちの議論の整理ができるのではと思いました。そこで最近では、エマちゃんと一緒にワークショップをして、いろんな分野の専門家の人たちの話を聞いたり、議論をしたりして、それを報告書にまとめて可視化、記録することで、整理ができないかなあと模索しています。
回答3:第三者視点で書く(これまでの)記者のあり方の限界を感じることがあり、書き手のあり方を模索する上で解につながるような気がするから(?)
報道記者は、第三者の視点で取材をして書きます。そのため、記事を書く際には、第一人称視点を(読み手に感じさせないよう)消し去るように訓練を受けてきました。そういう記者のあり方では、基本的に取材対象は固定であり、記者は取材対象の変容に関与しません、少なくとも建前上は。
でも、これまでの価値観がゆらぎ、これまでの専門性ではカバーしきれない新たな価値やものの見方が必要になっている現在において、固定的な専門家の視点だけでは、社会の変化に対応できなくなっているようにも感じます。一方で、専門家が専門家ならではの見識を持って、非専門分野であっても関与していき、新たな価値観を見方を作っていくという、おもしろいことが生まれつつあるようにも思います。
で、それは多分記者のあり方についても同じで、記者が自分の職業の(これまでの)あり方に固執する必要もなく、他の職域の専門家と関わることで、あり方の模索にもつながるし、また一緒に何かを作っていけるのかもしれないのかなあとか。って、この辺あやふやで整理がついていないんですが、上でも書いたように「人工知能と社会、倫理」っていうのは価値観やあり方が定まっていないにも関わらず、これからの社会や未来に大きく関わるものなので、多様な分野の専門家が集まってきます。なので、そこでの議論や関与を通じて、自分自身の書き手としてのあり方も模索していけるんじゃないかなーっていうのは完全に後付けです、ごめんなさい。
問いへの回答は以上なんですが、Facebookでももりやまさんに回答して書いたんですが、「人工知能と社会、倫理」というテーマについて考えたり議論したり情報を得たりするというのは、誰もがアクセス可能であり、でも誰もが強制されるものではない、というものだと思っています。別に誰もが興味持つ必要はないし、興味あってもなくてもどっちでもいいし、誰かに強制されるようなものではない。上でも書いたみたいに、「それ自分に何のメリットあるの?」と興味を持たなくても別にいいと思うんです。
でも、ふと、あれ?と気になった時に、参考にできる情報とか、議論できる人や場があるといいなあと思います。これは自分の経験上。最初のうち、何だか雲をつかむみたいでよくわからなくてもやもやひとりで考えていましたが、議論できる人が欲しかったから。だから議論できる人や場づくりを今やっているのかなあとも思う。