人間とテクノロジー

人間とテクノロジーについて、人と話したり、議論したり、思ったりしたことの備忘録

いわゆる「人工知能」研究者コミュニティの分類

一昨日の人工知能学会合同研究会での杉山先生の招待講演はほぼ一般向けの内容だったが、いわゆる「人工知能」研究者コミュニティの分類が整理されていてわかりやすかった。「人工知能」研究者、というと日本では人工知能学会が代表のように言われるが、機械学習が専門で東大教授、理研AIPセンター長の杉山先生は人工知能学会コミュニティではない。

人工知能コミュニティは、この図にある「人工知能研究」「ニューラルネットワーク研究」「機械学習研究」の3つのコミュニティに分かれて、それぞれで研究が進められてきたと杉山先生は指摘をする。これは国内だけでなく、海外でも同様という。

もともと「人工知能」はダートマス会議から始まり、人の知能をコンピュータで実現しようという夢が根本にある。こうした「人工知能」の思想を受けてその研究を進めてきた「人工知能研究」「ニューラルネットワーク研究」が1次ブーム、2次ブームとそれぞれ発展してきた。

一方、これらとは別に、90年代からコンピュータサイエンスの研究者が進めてきた流れが「機械学習」コミュニティだという。杉山先生もここに含まれる。先の2コミュニティに対して、この「機械学習」コミュニティは、人の知能をコンピュータで実現するといった「人工知能」を自分たちが研究しているという認識ではないという。

だが、経済社会的に実用面から今のAIブームで「AI」として注目を集めるのはこの機械学習の流れにある。

研究者コミュニティはこの3つに分断しており、特に「人工知能研究」「ニューラルネットワーク研究」のコミュニティは機械学習の流れを飛ばして、「汎用人工知能(AGI)」を目指しているが、これら3つのコミュニティが協力しあって研究を進めていく必要がある、と杉山先生は指摘する。

コミュニティが違うというのは、それぞれの研究発表の場である学会や研究会などが異なるということを指す。

この図では神経科学や社会科学などコンピュータサイエンス以外も含まれるが、「人工知能」に関係する国際会議と関連分野は多岐にわたる。

 

ところで、杉山先生の講演から離れるが、コンピュータサイエンスだけでも、ものすごく大雑把にAI(Airtificial Intelligence)コミュニティとIA(Intelligence AmplificationまたはIntellifence Augumentation)コミュニティに研究者コミュニティは分かれている。なお、AIコミュニティは杉山先生の3分類を包含するもので、IAコミュニティはVRなどHCI系だと理解している。海外でも同様だということがジョン・マルコフさんと瀧口さんの本でかなり明確に見てとれる。

 

人工知能は敵か味方か

人工知能は敵か味方か

 

AIコミュニティとIAコミュニティは、思想の根本の違いから二分できるようだ。前者は人間の知能をコンピュータで実現すること、後者は人間を拡張または増幅するためにコンピュータを活用すること。ものすごくざっくりと社会実装については、前者は分析などソフトウェア、後者はインターフェイスとして実装されることが多い。とはいえ、社会実装ではソフトウェアとインターフェイスは切り離せない。これらのコミュニティが研究だけでなく社会実装がより近くなるにつれ、接点が増えるのは必然だ。

なお、AIコミュニティ(のうち人工知能学会の方たちの一部)もIAコミュニティ(のうち主にバーチャルリアリティ学会の方たちの一部)も四川料理が好きという共通点がある。私はもともと辛いもの好きだが、両コミュニティの方たちとそれぞれ別に四川を食べに行くうちに辛いもの耐性が付きすぎてしまった。

杉山先生の講演にあったように、3つの人工知能関連コミュニティの連携または融合も必要だし、そのさらに進んだ社会実装レベルではAIコミュニティとIAコミュニティの連携がより重要になっていくと考えている。ただ、その際に両者の思想は水と油のようにあまりにも違いすぎていることが時々気になっていて、そのあたりうまく舵取りができるような仕組みとか枠組みとか人とかってどういうふうなのかなあ、結局は市場原理なんだろうけどなあとか、よくもやもやしています。

 

コミュニケーションの未来はVR

2016年は「VR普及元年」といわれるけれど、2017年は「コミュニケーションVR元年」だと勝手に思っている。昨年来製品販売が相次ぐ、ヘッドマウントディスプレイ(HMD)とコントローラーといったシステムをVRと呼ぶのなら、それらをネットワークに接続して人同士でコミュニケーションをとる「コミュニケーションVR」がVRの本命だと思っている。

オンラインのVR空間でコミュニケーションをするプラットフォームとしては、今年4月にFacebookFacebook spaceを発表したほか、日本ではclusterが6月から始まった。

Facebook spaceは同社が買収したOculusのHMDを使う事が前提になっているが、clusterはHMDのほか通常のPCのディスプレイでも利用できる。

また、コロプラ子会社の360チャンネルが今夏発表した「FACE」は、視線追従機能付きHMDの「FOVE」とカメラを組み合わせて、表情の情報を取得し、それをVR空間内のアバターにリアルタイムで反映させる。表情付きのコミュニケーションVRが可能になるというわけだ。

こうしたコミュニケーションVRのためのプラットフォームは増えていくだろう。

コミュニケーションのツールは、手紙、電報、電話、ポケベル、PHS、携帯電話、スマホとハード的に変化してくるとともに、ソフト的にもEメール、チャット、ビデオメッセージ、Skypeのようなテレビ会議とスピードが早く、情報量がリッチな方向へと進展してきた。コミュニケーションVRは当然、その延長線上にあるだとう。

っていう話を特集のメイン記事で書きたかったんだけれど、メイン記事では通りませんでした。ほかで書いたからいいんだけれど、でも、こういう避けられない未来、っていうのを今明確に書いておきたかった。

もう少しコミュニケーションVRについて。

HMDなど技術としてのVRは、ディスプレイの拡張だ。二次元で一定のスペース内だけだったディスプレイを3次元で360度にした。音声や触覚というのもあるが、視覚のディスプレイの効果が人の認知能力上最も大きい。

こうしたディスプレイの拡張によってコミュニケートできる情報量が圧倒的に増え、それによってリッチなコミュニケーションが可能になる、というのが最も単純な理解。現実のコミュニケーションの要点(そもそもバーチャルとは本質という意味だ)を抽出し、それを再現して提示する。それに加えて、追加の付加情報を提示する。コミュニケーションVRはそういったものだ。

でも、要点だけを抽出して提示するだけじゃなくて、付加情報や情報操作のあり方によっては、現実を「超える」コミュニケーションが可能になる。「超える」というのは、さまざまな点での定義ができるけれど、コミュニケーションにおいてはその機能から見ていくのが適切なのだと思う。

1989年に「バーチャルリアリティ(VR)」という言葉を最初に使ったコンピュータサイエンティストで起業家、音楽家でもあるジャロン・ラニアーは、当時すでに「バーチャル・リアリティの本当の効用はコミュニケーション・メディアという側面にある」と言っている。ここで言うコミュニケーション・メディアは電話のようなツールという主旨だけれど、情報伝達のために記号化できない、記号化によってこぼれ落ちる何かをすくい上げて提示できるのは、VRなのだと思う。

 

専門家と非専門家がひとつの目的に向かって一緒にわいわいするといいことあるよ

専門家と非専門家がひとつの目的に向かって一緒にわいわいするといいことあるよ

っていうことを、AI研究者の方たちに伝えたくて、今月の人工知能学会誌の小特集「マスメディアから見た人工知能」に「マスメディアから見た“AI”と専門家から見た“AI”のギャップを越えて 」という記事を書きました。記事っていうかエッセイ?

【会誌発行】人工知能学会誌 Vol. 32 No. 6 (2017/11) – 人工知能学会 (The Japanese Society for Artificial Intelligence)

 

小特集そのものは、鳥海さんの企画で、企画趣旨はここから読めます。

見出しは以下。

小特集「マスメディアから見た人工知能
小特集「マスメディアから見た人工知能」にあたって…………………………………………………………………………… 鳥海 不二夫 927
報道における「正確さ」と「わかりやすさ」の両立
 ─第二次ブームから第三次ブームへ─ ……………………………………………………………………………………………… 嘉幡 久敬 928
新聞記事に見る人工知能やロボットの言説の変化 …………………………………………………………………………………… 河島 茂生 935
現在のメディア空間における「人工知能」の語られ方 ……………………………………………… 吉永 大祐・小幡 哲士・田中 幹人 943
マスメディアから見た“AI”と専門家から見た“AI”のギャップを越えて ……………………………………………………… 長倉 克枝 949


朝日の嘉幡さんによるAI第二次ブームから今の第三次ブームに至る報道の話から始まり、河島さんによる第一次ブームから今に至る新聞における「人工知能」記事分析、田中さんらによる新聞やネットでの「人工知能」記事分析があります。

鳥海さんからの依頼は、メディアにいながら研究者の中にも入り込んでいる立場として書いて、というものでした。私は取材する側の記者ですが、人工知能学会では倫理委員をやらせてもらっていて、そういう意味ではアウトサイダーでありインサイダーでもあります。

両方の中にいると、それぞれのディスコミュニケーションが解消されるともっとおもしろいのになあ、と思う事が多々ある。じゃあもっとおもしろいことって何なのかなあと思って、ここ数年自分がやってきたことやエマちゃんをはじめとする仲間たちとの議論を振り返って考えてみたときに、一般的によく言われる「サードプレイス」みたいなものとして、専門家と非専門家が同じ目的に向かって一緒に議論したり行動したりする場の話を書くことにしました。そういう場が、コミュニケーション不全の解消に役立つだけではなく、もう少しメタに状況を捉えた時に、全体をある方向に進めていくことになるのだと考えています。経験則だけど。

学会誌自体はそのうちKindleで購入できるようになりますが、もし専門家と非専門家のコミュニケーションにご関心のある方いらっしゃいましたら、該当部分のpdfお送りしますのでご連絡くださいませ(不特定多数配布は禁止、特定の個人への共有可)。

人間関係をあたたかくするVR体験型パフォーマンス「Neighbor」

男女ペアでHMDかぶって体験する、体験型パフォーマンスの「Neighbor」が、昨日と今日、ICC(東京・初台)で体験ができます。

www.ntticc.or.jp

 前日の内覧会で体験、取材させてもらって記事を書きました。少しでも多くの人に体験してもらいたいと思ったから。

dot.asahi.com

https://www.instagram.com/p/BbCHIRnBifU/

https://www.instagram.com/p/BbCHKaaBYXV/

https://www.instagram.com/p/BbCHMZbBw_W/

https://www.instagram.com/p/BbCHOVGBOYn/

https://www.instagram.com/p/BbCHFkbhVyA/

体験後、HMDを外したら現実世界にもどり、なぜか爆笑してしまいました。

 

Neighborを知ったのは去年、藤井先生のFBの投稿。

grinder-man.com


当時のアーカイブは上のサイトから見られます。「人間関係をあたたかくするVR」というのが素敵だなあと、体験したいと思っていました。それが、今回ICCで体験できるというので、早速行ってきました。

藤井先生はVRで過去と現在の映像をシームレスに切り替えることで、目の前の現実世界とバーチャル空間を切れ目なく行き来する、代替現実(SR)システムを理研時代に開発しました。この仕組みを使ったアートパフォーマンスをパフォーマンスグループのGRINDER-MANらと制作してきて、今作はその3作品目になります。

2012年に発表された最初の「MIRAGE」は私も体験したのですが、現実と過去の区別がつかなくなるあいまいさ、世界がグラグラとする不安な感覚の中、ダンサーの方が自分に触れた時、横を通りかかった時のさっと風圧を感じる時、そうした時に現実の確かさを感じる、不思議な体験でした。

当時はリアルタイム映像の画質がそんなによくなくて、ノイズも入っているからよけいに過去映像との違いがわかりにくかった。同時に、映像の解像度やきれいさは、リアリティを感じるか否かには関係がないのだと感じました。

体験者はひとりでHMDかぶってその周囲をダンサーがパフォーマンスをするMIRAGEに対して、今回のNeighborは男女ペアの2人で体験する。この2人は、初対面の男女というルール。ダンサーの男女2人とともに舞台にあがり、体験者の2人はHMDを付けて、リアルタイム映像と過去映像が切り替わる中で、相手と手をつなぐように誘導される。

パフォーマンスの時間は約5分。体験後には、初対面の2人がまるで以前からの知り合いのように親密さが増す。

テクノロジーは人と人を分断する方向に向いがちだ。VRだってHMDかぶって一人の世界に入り込む。でもそうじゃない、人と人をつなぐようなテクノロジーの使い方ができないかといったときに、実はVRはコミュニケーションのためのツールなのだ。

桂さんの著書「人工現実感の世界」の中で、1989年に最初にVRという言葉を使ったジャロン・ラニア―は当時、「バーチャル・リアリティの本当の効用はコミュニケーション・メディアという側面にある」と言っている。ここで言うコミュニケーション・メディアは電話のようなツールという主旨だけれど、情報伝達のために記号化できない、記号化によってこぼれ落ちる何かをすくい上げて提示できるのは、VRなのだと思う。

ということでコミュニケーションのためのVRにとても注目しています。

 


 

「ブレードランナー2049」雑感 (ネタバレあり)

めっちゃ良かった。

映画『ブレードランナー2049』 | オフィシャルサイト | ソニー・ピクチャーズ

1983年の「ブレードランナー」はDVDで観たし、ディックの「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」もKindleで読んだくらいの一般教養程度の知識で、それ以外今作の事前知識はゼロで観に行ったが、すごく良かった。両質なSF映画。初日にIMAX 3Dで観てよかったし、これも一般教養として観るべきSF映画になるレベル。ただ、前作の予習は必修です。生命とはなにか、大きなストーリーとして見事につながっている。

以下気になった雑感メモ。思ったこと書きなぐったらめっちゃネタバレしてるわ。

 

自己保存と自己増殖、生命としての要件
前作では寿命4年のネクサス6型の自己保存がテーマだったが、今作のレプリカント製造はタイレル社倒産後に買収したウォレス社がになっており、すでにレプリカントの寿命はなくなり(!)、そのハードルはクリアされたようだ(前作で散々課題になっていた寿命延ばす話が今作開始5秒くらいであっさりクリアされてて何だったんだ感とまあSFってこういうものよね感と)。一方、生命としての要件は自己保存に加えて自己増殖、つまり繁殖を満たすことだ。

レプリカントが生殖能力を持つことは、生命としての要件を満たすことになる。今作が生殖がテーマになることは、レプリカントを介して生命を問ううえで自然な流れだろう。

 

相変わらずレプリカントのメカニズムはわからない
とはいえ、レプリカントが何なのか、科学的な説明は一切ない。まああったら物語として成立しませんが。

レプリカントは普通の人間と比べて超人的な能力を持つ。Kは怪我の部分を接着剤のようなものでくっつけるだけで怪我が治癒するし、ゲノムのシークエンスを目視で判定する。だが、解剖学的には人間そのものだ。この設定は前回と同じで、レプリカントか人間かの判別をするには、専用の装置で目を検査するほかない(前作であったようなチューリングテスト的な問答は今回は必要ないらしい)。それと今作では骨に刻まれた製造番号を顕微鏡のズームで確認して判断するという場面もあったが、これは人間の専門家は見落としていたから、一般的な判別方法ではないだろう。

で、どうやってレプリカントを製造するのかとか生命?維持システムとかレプリカントのメカニズムが気になるんだけれど、そこはわからない、というかそれが明確になったらこのストーリーは成立しない。

超人的とはいえ、解剖学的、肉体的にはほぼ人間と同じだ。一方で、レプリカントは「魂(soul)」を持っていないということになっている。その点において人間ではない、ということで奴隷のような労働に従事させられたり、人間から差別的な扱いを受けたりする。

あれ、でもこれってちょっと待って、人間社会で頻繁に見られることでは。つい数十年前まで黒人は白人社会において人権がなかったし、日本社会ではいまだに事実上女性に人権がないかのような場面も少なくない(というと反発もあるだろうが、まあ事実だし)。レプリカントという異質な存在を描くことで、人間社会の差別や偏見をも浮かび上がらせている。

 

二項対立ではない、自立と解放

前作では、人間とレプリカントの対立という二項対立が描かれた。前作の最後で人間であるデッカードレプリカントであるレイチェルを殺すことなく一緒に逃亡する。二項対立の物語はその時点で終わった。今作ではレプリカントは人間から解放され、自立することを志向する。対立じゃなくて、「ほっといて」ということ。

人間で警察でKの上司であるジョシは人間社会の秩序を守ろうと、部下であるレプリカントのKを使う。一方、レプリカントのラヴはウォレス社社長の命令に従って、Kを”使って”レプリカントの子供を探そうとする。秩序通りに、人間がレプリカントを支配する世界だ。ただ、レプリカントはその秩序から自ら解き放そうとする。終盤、Kはジョシに嘘をつき、嵐の中の海辺での戦いでラヴは殺すべき敵であるKにキスをする。

レプリカントが解放され、自立するために必要な要件はなにか。冒頭でKに殺されるモートンは、「奇跡をみた」という。レプリカントが子供を産んだのだ。その奇跡に、物語のすべてが集約される。それは神ができていくプロセスであり、宗教的でもある。

 

雪が示唆するキリストの誕生
キリスト教では、神の子イエス・キリストが誕生するのは、雪の日の夜である。前作が徹底して雨の映画である一方で、今作は雨、高濃度放射線の乾燥地帯のほかに雪が重要な役割をはたしている。

幼少期を持たないレプリカントに記憶を作るデザイナーであるアナ・ステリン博士にKが会いに行く日も、Kとデッガードが会いに行く日も、外には雪が降っている。ホログラムで世界を作って遊ぶのが好きなステリンは、ガラスの部屋の中で自分の周囲に雪を降らせる。Kが最初に会いに行った時に遊んでいたホログラムは、子供たちが誕生日会でケーキのろうそくの火を吹き消す様子だ。

奇跡の子供であるステリンが神の子であり、レプリカントが生命として自立して解放されることを導いていく様子が示唆される。

 

バーチャル彼女の存在感
Kの彼女はウォレス社製のAIとホログラムでできたバーチャル彼女のジョイだ。ジョイの存在感は大きい。レプリカントの娼婦マリエットよりも人間らしく描かれる。

VR好きの人は、虚構が現実を凌駕すると読み取るのかもしれない。だが、虚構は虚構でしかない、ということは作中で何度か描かれる。マリエットが言い捨てる「あんたの中身を見たけれど、空っぽだった」という一言が意味深だ。ジョイがKにつけた名前「ジョー」はいかがわしい広告の巨大なVRの裸の女性が通行人の男性に呼びかける名前だ。

 

結局のところ、主人公はデッカード
レプリカントの生命としての自立と解放の物語でもあるが、主人公が誰かと言えば、デッカードだ。Kの物語であるように描かれるが、実はKはある意味での狂言回しの役割でしかないのだと、終盤気付かされる。物語として、前作から引き続き、最初から最後までデッガードの物語だった。

DCEXPOでVRを体験する

今年もデジタルコンテンツエキスポ(DCEXPO)が昨日から3日間開催されています。

経産省などが主催するDCEXPOは、イベントや展示会が多い秋でも終盤に開催されますが、CEATECなど他のビジネス系イベントと比べるとゆるめで比較的来客が少ないため、ここ1年位のさまざまなイベントで体験しそこねたコンテンツを体験できる機会だと勝手にとらえています。

で、今年はどのイベントにいっても展示手法としてどこでも見かけるVRですが、ビジネスでもアカデミックともに新しいVRを体験できるのもDCEXPOの特徴かと思っています。

DCEXPO出展選抜の審査にVR系の人が多かったり、国際学生対抗バーチャルリアリティコンテスト(IVRC)の決勝戦が同時開催されたりと、もともとアカデミックのVR系コンテンツはDCEXPOでは多いですが、今年は去年に引き続きさらに増えた。あっちこっちでヘッドマウントディスプレイ(HMD)をかぶって体験するコンテンツで溢れています。

ということで、初日の昨日行ってきました。

今年はこれは体験したいと思って行ったのが、NHKの「8K:VRライド」。去年良かったのが、NHKの「8K:VR」というコンテンツで、これは8Kディスプレイを使ってHMDを使わずにリアリティの高い映像体験をするというもの。今年はさらに4D機能も追加された「8K:VRライド」というコンテンツになっていました。

展示は7階へ。

半球形ディスプレイに8Kプロジェクターで映像を投影し、椅子の部分は可動式でコンテンツに応じて動きます。コンテンツ連動ではないですが、正面から常に風が拭いてきています。映画館の4Dで画面が半球型になっているという感じ。視野全体にディスプレイが入るので、HMDではなくても高い没入感が得られます。

コンテンツは、東京を瞬間移動したり上空に飛び上がったりして、縦横無尽に行き来するというもの。上空に上がったり降下したりするときには、HMDかぶった時に感じるような、あたかも実際に上下しているかのような体性感覚がありました。実際に椅子ががたがたと動きので、その効果もありますが、視野全体に入る半球面ディスプレイの視覚効果も大きいと思います。

ただ8Kといっても、通常の8Kディスプレイで見る解像度だと思っていると、少しがっかりするかもしれません。もっと解像度は落ちて見えます。

それとやはり物理的にガタガタ身体を動かされるのは、不快感が伴うなあと。。臨場感ではあるんだけれど、たぶん、外部の力によって身体を動かされるということ自体が、人間にとっては避けられない不快な感覚なんだと思う。

そういう点で、いつもおもしろいなあと思っているのが東大の廣瀬・谷川・鳴海研究室の鳴海さんたちがつくるVR体験で、外部から無理やりではないやりかたで、臨場感というか新しい体験を作り出す。

同じ7階で、無限階段VRの出展がありました。

 単純に床にアルミパイプが置いてあるだけで、その上をHMDを付けてあるくことで、階段を昇り降りしている感覚が得られます。

整理券配布で体験できます。他の展示が1Fに集まっていて7Fはわかりにくいですが、まず7Fへぜひ。

メインの会場は1F。

ずっと体験したいと思って今回初体験だったのが的場やすしさんの「流動床インターフェイス」。

ただの砂場に下から空気を送り込むことで、砂をあたかも流体ようにするというもの。砂が敷き詰まっていますが、スイッチをオンにして空気を送り込むことで、このボールがずぶずぶと沈み込んでいきます。

DCEXPOは大学などアカデミックの展示も多く、VRブームでビジネスや開発よりの人たちが増えている中、研究としての(いい意味で)変態的な技術も多く楽しめます。そのひとつが「バーチャルな加速感覚を付加する高臨場感VRヘッドセット」。阪大・安藤さん、明治大・青山さんたちによるもの。安藤さんたちは前庭電気刺激(GVS)によって、人の動きをコントロールするという研究をずっとされていますが、今回は、GVS専用のVRヘッドセットになっていました。

おでこの両側と耳の裏側を拭いてから、ヘッドセットとイヤーマフのような装置を装着します。

普通のヘッドセットに電極を付けた手作り感が溢れますが、ヘッドセットを被るだけで電極を当てられるのは便利。

コンテンツはVRでよくあるジェットコースターでしたが、これは普通に視覚だけのVRだとまず酔います。そこにGVSを加えることで加速度を感じる感覚を制御して、酔いを減らす、というのがおそらく研究の狙いなのだと思います、、、が最初にGVSなしでコンテンツを体験してさんざん酔い、そのあとにGVSありで同じコンテンツを体験するというのは普通に辛かったので、2度目で酔いが低減したような気もしますが、すでに酔っていたから。。。

 

球体の中にはいってHMDかぶって体験するコンテンツ。やりたかった・・・。

自動で折りたたみをしてくれるセブンドリーマーズも出展していました。

メガネスーパーウェアラブルバイスを出展していました。社内で開発をして、分社化してB向けに来年から量産に入るとのこと。

シースルー型ではなく、ふつうのメガネに小さなディスプレイを取り付けるといった、手元にあるスマホをメガネに装着するような感覚です。普段使いにはまだまだですが、工場などで手作業をしながらディスプレイに指示書を出す、といった用途を想定しているそう。

超音波ディスプレイで知られる東大の篠田研からは、超音波を使って、狙った場所ににおいを届ける匂いディスプレイが出展されていました。

煙のように見えるのは、においが含まれた蒸気で、左からコーヒー、ミント、グレープ。奥に超音波を発生する装置が並んでおり、手前に座っていると、コーヒーの匂いだけをかぐようにしたり、ミントだけの匂いだけをかぐようにしたり、という切り替えができます。

地味にすごいなと思ったのが首都大の池井先生の研究室が出展していた、THETA2台を動かすことで、自身の分身のようにするテレイグジスタンスシステム。

画面左下にTHETA2台が台の上に載っていますが、HMDのを着けている私の視界はこのTHEATAに映る様子がリアルタイムで反映されます。首を振ってHMDを動かすと、TEHTAが載っている台が同期して動きます。

意外と簡単なシステムでテレイグジスタンスができていいなあと。

通り道に、ユニコーンガンダムもいました。

DCEXPOは明日まで。無料。

東京モーターショーに見るVR

東京モーターショーが、明後日から5日まで開催される。今日と明日はプレスデーで、行ってきました。

www.tokyo-motorshow.com

 

各社、EVとAIが目立つ出展でした。ところで、展示手法としてVRがもはや定番化してきていたのが興味深かった。

まず、モビリティの未来を展望するTOKYO CONEECTED LAB2017という展示。車の展示というより、コンセプト展示の位置づけが強い。

www.tokyo-motorshow.com

ここでメインになっている体験型展示が、「THE FUTRE」と「THE MAZE」。

まず「THE FUTURE」から体験しました。スマホのアプリから数個の質問に回答して、自分の未来のモビリティのタイプや乗り物のデザインを判定します。ちなみに私は「SHARE」でした。

全天周のドームに入ります。

こっちは出口ですが。

こんな感じで、ドームの内面に映像が投影され、未来のモビリティについての解説映像が流れてきます。

全天周ドーム内面360度映像の投影ですが、没入型ディスプレイ(IPT)といってもいいのかなあと。その意味で、これはIPTのVRとも言えるのかと(強引)。

VRと言えば今はヘッドマウントディスプレイ(HMD)のイメージが強い。「THE MAZE」は同時に30人がPSVRを装着して、VR空間で都市の道路を抜けてゴールまで向かうドライビングゲームです。

なかなかディストピア感漂って素敵な光景だなあと。

実際にHMDを付けてゲームをしている時間は10分弱ですが、あっという間に酔いました。椅子に身体を固定した状態で、あたかも運転席に乗って移動しているかのような映像が続くので、苦手な人は酔いやすいコンテンツです。

酔って気持ち悪くて早く終わりたかったので、あっという間にゴールできました。ゴール後に画面が動くので、それがまた酔いを誘います。ゲーム中はともかく、ゴール後に無駄に画面を動かすのは必要ないかな―と思いました。

このコーナー自体のコンセプトが「コネクテッド」なので、このゲームでも、同時プレイしている30人が同じVR空間内をドライブしていて、道でであったりすることでコネクトして、滑走した地図を共有する、といったコミュニケーション機能があります。

が、ちょっとコミュニケーション機能が弱いかなあ、と。30人同時接続プレイの意味はあんまりない。(個人的にVRの本命はコミュニケーションVRだと固く信じているので、コミュニケーション系VRに求めるハードルが高いです)

というかVRのイベントではなく、モーターショーなのでした。

車の展示エリアに戻ります。

EVと言えば、話題になるのが日産のリーフ。完全自動運転EVのリーフIMxの発表がありました。

で、そのコンセプト展示手法もIPT的なVR。

ディスプレイは3面ですが、一番手前のディスプレイのうち座席部分はディスプレイではなく、実物大の実体です。


171025_東京モーターショー日産LEAF

この映像は見ているだけで楽しい。しかしこれ、リーフnismoだ。

ほかにVRが目立っていたのがデンソー。ここは渋谷のVR PARK TOKYOかと一瞬見間違いました。

トヨタももちろんHMD系VR。

目玉のコンセプト愛の展示でも、体験展示がありました。

東京モーターショーは、車とお姉さんを見に行くだけじゃなくて、体験型展示も楽しめるかと。

岩井俊雄さんとメディアアートとテクノロジーと

岩井俊雄さんがICCで9年ぶりに講演をするというので、ICCへ。ICC20周年記念シンポジウム「メディア・アートの源流とその変遷 メディア・アートとICCの20年」を聞きに行きました。

www.ntticc.or.jp

 

岩井さんは絵本作家として人気だけれど、私以上の世代の人にとってはメディアアーティストとして影響を受けた人は少なくない。小学生の頃クラスの誰もが見ていたウゴウゴルーガも岩井さんが手がけた。当時はまだ珍しかったCG合成によるテレビ番組のさきがけだ。坂本龍一さんとのピアノ演奏と映像のコラボ作品は、誰しも一度はどこかで見たことがあるはずだ。

私が岩井さんを意識して知ったのは10年前で、上京して記者になってテクノロジー取材するようになってメディアアートに興味を持ったころに、ヤマハから発売されたのが電子楽器のTENORI-ON。でも結果的には、2007年のこの作品が、(現時点では)岩井さんのメディアアーティストとして最後の仕事になった。

その岩井さんが、子供時代から振り返り、メディアアーティストとしての仕事を解説、さらに実演まであったのが昨日のシンポジウムでした。講演は1時間の予定が2時間近くは話されていたんじゃないかしら。

今、岩井さんの話を聞きたかったのは、岩井さんの「転向」に対して、どこか腑に落ちないままもやもやとしていたからなのかもしれない。TENORI-ONを最後に岩井さんはメディアアーティストとしてではなく、絵本作家として子供たちに向けて絵本を書いている。

最後の対談でのICCの畠中さんの指摘のように、メディアアートはテクノロジーを使いながら、テクノロジーに対する批判や批評をもともと含んでいる。岩井さんは、映画やテレビといった映像メディアが発展し普及する中でこぼれ落としてきたものを、その時々の表現やテクノロジーをもって拾い上げてきたのだと思う。そこには、テクノロジーを使いながら、テクノロジーへの批判・批評が含まれている。

テクノロジーを礼賛し、その利便性を享受しながらも、私はどこかテクノロジーへの警戒を持っているし、健全な批判がないテクノロジーは健全な発展はないと思っている。単なるテクノロジー礼賛と活用にとどまらない、批判精神を含むメディアアートは、テクノロジーの健全な発達にも寄与すると思っている。

ところが、岩井さんは「今のコンピュータは不完全。子供の創造性を高めるには、今のコンピュータは役不足」として、コンピュータを捨て、紙と鉛筆に戻り、絵本作りやワークショップの活動をしている。

テクノロジーと人間の間に足りないものを拾い上げて、豊かな人間のために表現をしてきた岩井さんだからこそ、コンピュータから紙と鉛筆に戻ったことが興味深くもあるし、わからなくもないのだけれど、まだ30代の私たちは、それをあっさりと受け入れるには、まだまだ経験も人生も足りていないのだと思う。

イベントのあと、このもやもやした感じを友人に話そうとしてもうまく言葉が出てこなかった。「絵本作家です」と、子供のためのWSの話をされる岩井さんは、正直に素敵だと思った。でも、メディアアーティストとしてのお仕事の話はすごくどきどきした。どっちもほんと。ただ、岩井さんから大きく影響を受けているという友人の「岩井さんは絶望したんだと思う」という推測は、それを肯定することで、自分やその友人の10年後20年後に訪れるかもしれない絶望を予言してしまうような気がして、どう捉えていいのかわからない。たとえ岩井さんが人類に絶望したシャアのように、テクノロジーとそれを作り出し使う人間に絶望したのだとしても、この先何があるかわからないにしても、その友人には、絶望してほしくないなあと思った。

 

ともかく。岩井さんの講演は、岩井さんの子供時代からこれまでのメディアアート作品の解説と実演。愛知県で育った子供時代。おもちゃを買うかわりに、自分で作りなさいという親。中部電力の技術者だった父親。ものづくりの道具はなんでも買ってくれて、それで作りたいものを作った子供時代。制作ノートをつくり、完成図とメカニズムの説明図を絵に書いた。すでにある機械から、手を使わなくても傘をさせるマシンなど。

筑波大学で芸術を学ぶ。フィルム映画の制作をしたかったが、コストなどから難しいと、子供の頃に作っていたパラパラ漫画にヒントを得て、CGをツールをして使いながら、パラパラ漫画でアニメーションを作った。

19C末、リュミエールが映画を発明する以前の映像メディアにヒントを得て、制作をする。ひとつは「驚き版」。スリットが入った絵が描かれた円形の板をクルクル回して鏡にうつし、それをスリットからのぞくと、描かれた絵がアニメーションのように動いて見える。さらにその進化系のゾートロープでは、壁面にスリットが入った円柱の筒の内側に絵を描いた紙を巻きつけ、筒を回す。これはハードウェアをソフトウェアが分離したということ。

驚き版や、ゾートロープにヒントを得て作品を制作。「映画以前の映像メディアを、今のアイデアや技術でその可能性を開かせる」と岩井さんは言う。映画の登場で、驚き版やゾートロープのような他の映像メディアの進化は閉ざされてしまったけれど、それ自体が独自の進化を遂げることもあったかもしれない。それを、コンピュータやアイデアを使って、進化を進めてきたという。

例えば、円盤の上に立体物を敷き詰めた「時間層」では、回転させてスリットから覗き込むのではなくて、ストロボの光を点滅させることで、あたかもスリットから覗き込むのと同じような効果を出した。また、円盤上の立体物は、コンピュータで位置を計算して配置した。ストロボとコンピュータがない19C末にはできなかったことが、こうして20Cのテクノロジーで進化を遂げた。

なお、この「時間層」の実演はNHKの番組で放送され、その放送を見ていたスタジオジブリの宮﨑駿監督からオファーがあり、当時三鷹で制作中だったジブリ森美術館に展示するために、トトロの立体ゾートロープのインスタレーションを作ったという。今でもこれは現役で見られるとのこと。

パンチ穴の開いた長細い紙を使った手回しオルゴールがある。この紙を逆にすると、まったく新しい曲になる。そこからヒントを得て、作ったのが、楽譜ではなく、オルゴールのパンチ穴を、夜空の星のように描いて、そこを縦線が通り過ぎる時に音が出るCG作品。では、パンチ穴をコンピュータで入力してプロジェクターで映像を投影、それがピアノの鍵盤を通り過ぎると音が出るーー。そんなインスタレーションにつながった。さらにこれが、1996年の坂本龍一さんとの共演へと発展する。先のインスタレーションと逆に、坂本さんがピアノを演奏すると、その音がパンチ穴のように映像となって空間に投影される。ここで、楽器が変わると、音楽家はどう変わっていくのか見たかったと岩井さんは言う。

このあたりから、物質性やインターフェイスへと関心がうつっていたと話す。「作品それだけで完結するのではなく、関わった人によって変わっていく。いわば道具のような作品」と岩井さん。メディアアートの特徴のひとつはインタラクティブ性で人が関わることで作品となるものが多い。こうしたもののさきがけを作ってきたのも岩井さんなのだと今更ながら気付かされた。つまり、メディアアートとして方法としてできることは、岩井さんが10年前までにだいたいやりつくしている。

テクノロジーと人間が向き合う中で、そこからこぼれ落ちたもの、見逃されているもの、そういったものを私たちは考えて、それらをどうにかして補いたいって考えながら生きている。それは結構しんどいことでもあって、戦いでもある。でもまだ、絶望しないで戦っていたいんです、私はね。

「わたしを離さないで」はディストピアSFだ

カズオ・イシグロさんが、ノーベル文学賞を受賞した。これまでに「日の名残り」も読んだが、7年前に初めて読んだ「わたしを離さないで」は強烈だった。

 

わたしを離さないで (ハヤカワepi文庫)

わたしを離さないで (ハヤカワepi文庫)

 

 

今思うと、「わたしを離さないで」は、ディストピアSFだ。テクノロジーは、人の便利さの追求だけでなく、人そのものの健康にも大きく貢献している。ただ、ある人の生の追求が、他の人の生を犠牲にして上で成り立っているものなのだとしたら。

「わたしを離さないで」は、そんな話。人間を始めとする生物は、すべてが何かの犠牲の上で生きている。それは生物であれば自明。なぜなら、生物は自己保存と増殖のために、ほかの生物を捕食して、エネルギーを得なければならないからだ。人間も同様。

でも、人間が自らの生の追求のために、ほかの生物の生を奪うだけでなく、人間の生を奪うとしたら。それが、人間が作り出した人間だとしたら。

そういう世界を、幸せな世界と呼ぶのかしら、ユートピアと呼ぶのかしら、それともディストピアと呼ぶのかしら。

過去のブログを見ていたら、初めて読んだのは2010年10月。2010年は改正臓器移植法が施行された年だ。当時、科技部で厚労省担当だったから、直接担当していなかったとはいえ、臓器移植のニュースは関心を持って追っていた。

私が高校生だった1996年、臓器移植法が施行された。たぶん授業で先生が話題にしたのだと思う。意思表示カードを記入して、すべてを提供する、としていた。子供なりに、考えた末でそう記入した。

でも、いつくらいか、大学生くらいから、提供しない、と書き換えた。今は、意思表示をしていない。その時々に、それなりの理由があってのことだ。臓器移植についての私の考えは、いつも揺らいでいる。

続きを読む

第1回肉肉学会カンファレンス雑感

農水省の原田さん、格之進の千葉さん、稲見先生、江渡さんらによる肉肉学会主催の第1回肉肉学会カンファレンスが昨日駒場で開かれました。格之進での講義の後に試食をする肉肉学会にはこれまで伺ったことがありますが、今回のカンファレンスは講演、アンカンファレンス、懇親会(BBQ)と盛りだくさんの中、研究者、生産者、料理人、消費者ら多様な分野の人たちが分け隔てなく議論できていて、そこから何か生まれていきそうで、なんかすごくドキドキしました。

午後は講演とアンカンファレンス、夕方からBBQというスケジュールでした。最初に、個人活動から起業して培養肉(純肉、クリーン・ミート)の開発・普及に取り組むインテグリカルチャー(株)の羽生さんの講演があり、その後、「肉肉学会への期待」と題して、肉肉学会を作ってきた江渡さん、人形町今半の高岡さん、格之進の千葉さん、調理シミュレータを開発する加藤さん、美味しさの研究をする河合さん、食研究と言えばの和田先生、食VRと言えばの鳴海さん、触覚からの食というじゅんじさん、生産者のための食の流通をつくるベンチャー、プラネット・テーブルの菊池さん、磯沼牧場の磯沼さんによるトーク

途中、おやつ休憩で、今半の揚げたてコロッケが届けられました。びっくりするくらい美味しかった。

続くアンカンファレンスは江渡さんによる企画で、その前の講演を聞きながら、参加者はポストイットに気になるテーマや話したいテーマをそれぞれ書いていく。それを元に次のアンカンファレンスが行われました。

アンカンファレンスとは、話すテーマから参加者で自由に決めて進める議論の仕方です。まず先程のポストイットを、なんとなく近いテーマごとに模造紙に貼り付けていきます。それを大雑把に6つのグループに分けて、それぞれのグループの模造紙1枚に先程のポストイットを貼ります。テーマは、チーム1は「純肉」、チーム2は「美味しいのメカニズム(心理・脳)、チーム3は「美味しさの化学・科学」、チーム4は「新調理法」、チーム5は「五感と美味しさ」、チーム6は「消費者と生産」に。

各チームには予め決められたファシリテーターがひとり付きます。ちなみに私はチーム1のファシリ。ファシリ以外は、自由に移動をして、自分が参加をしたいチームを決めます。だいたい1チーム5〜6人に分かれて、セッションがスタート。

1セッションは20分。チーム内で進行役、書記、タイムキーパー、発表役を決めて、議論を始めます。「何を話すか」から、予めあるポストイットを見ながら話し合います。

私が参加したチーム1は羽生さんの講演にあった「純肉」がテーマです。純肉は培養細胞によって作る肉。量産化によって肉の生産エネルギーを大幅に下げて環境負荷を軽減するというもの。背景には、3Dプリンターの普及とメイカームーブメントからパーソナルファブリケーションへと進んだ流れと同様に、細胞培養などのバイオテクノロジーを自宅で気軽にできるようになるというバイオテックのカルチャーもあります。一方で、純肉の社会受容やバイオテクノロジーを気軽に利用することへの倫理的な懸念もあります。そこで、私たちのチームでは、社会受容について話し合いました。ただそもそも、ルール作りや倫理的観点など、社会受容に向けて考慮、整備することが多い中で、環境負荷軽減以外に、消費者にとって純肉のメリットはあるのでしょうか。そこで、稲見先生から「パーソナルファブ肉」という単語が飛び出しました。自分で好みにあった肉を作れるというわけです。

これらの議論をまとめて、発表役が最後に各チームごとに発表をしました。個人的に興味深かったのがチーム6の発表です。チーム6はテーマは「消費者と生産」ですが、マーケティングや情報発信、リスコミのようなソフト面の要素がポストイットには多く含まれていました。

このチームが導き出した結論は「FOOD5.1」。プラネット・テーブルの菊池さんのトークでは、現在の大量生産・大量消費型の食品生産・流通を「FOOD4.0」として、その次の生産者から消費者へ必要な分だけ無駄なコストなく時間のロスなく流通をする流通改革を含め「FOOD5.0」という概念を打ち出していました。それをさらにアップデートしたものがFOOD5.1という、ウェルビーイング的観点が含まれていたものでした。

ポストイットを使ったワークショップはここ数年参加したり企画運営側だったりしてきましたが、江渡さんのアンカンファレンスはとても刺激的です。たぶん今まで2−3回参加させてもらったことがありますが、参加者みんなが関わって、次へ進めていこうと、参加者それぞれが気付きを得えらます。今回も、とても充実したアンカンファレンスでした。

アンカンファレンスのあとは懇親会BBQ。格之進のハンバーグ、ステーキ、今半のすき焼き肉での焼きしゃぶを、千葉さんと高岡さんが焼いてくださるという贅沢なBBQでした。率直に、最高だった。

農政長く担当して外交今見ている某社の記者の方と、今や担当分野だけ取材していると実体がつかめなくなっているっていう話を懇親会でしていて、本当にそう思いました。

また帰り道では、peripheralっていう単語が研究者から何度か出てきたけど、研究者だけじゃなくて記者にとってもperipheralが大事だと思っています。(でも中心を持っていないと周辺もなにもないけれど)

週刊誌に来てからは政治も経済も事件も土地勘のない分野や人のところに突っ込んできたけれど、でもそれって結構しんどい。前提や文脈、目的、見ている方向、それらの共有は難しく、何か共通項を見つけないとコミュニケーションはしんどい(コミュ障の自分にとっては。コミュニケーション強者の同僚はコミュニケーションについて考えたことがないと言っていて目からうろこだった)。

肉肉学会は「肉」という共通項で研究者、生産者、料理人、消費者ら多様な分野の人たちが集まってきて、同じ愛する対象があると、コミュニケーションしんどくないんだなあというのと、そこから何か生まれそう、というのでドキドキしました。

ちなみに炭の火消し(新品)はワインクーラーに使っていました。後片付けのときに知ったw運営スタッフのみなさま、素晴らしい会をありがとうございました!この後の展開が、とても楽しみ。

f:id:katsue-nagakura:20171001234220j:image 

展示物すべてが”フェイク”?「クローン文化財」のシルクロード企画展がとてもよかった

昨日から藝大で開催されているシルクロード特別企画展「素心伝心」は、展示物のすべてが失われた文化財を複製した「クローン文化財」で構成される展覧会だ。

バーミヤン石窟を始めとして、シルクロード仏教文化財の中には、近年の紛争など失われたものが少なくない。そこで藝大では、資料や三次元計測などを元にしてあたかも本物と同じような見た目や質感の「クローン文化財」を制作した。

複製技術推しなのかと、あまり期待せずに行ったら、展覧会としてとても良くてびっくりした。素人の私にとっては、仏像も壁画も、本物でも複製でも、多分区別がつかない。「クローン文化財」とはフェイク。本物ではない。だが、展示物が本物である必要性はいったいどのくらいあるのだろうか。「本物」がすでに存在していないという事実もまた、フェイクであるクローン文化財の価値を意味づけする。

10月26日まで開催している。入館料は1000円。

sosin-densin.com

まず入ると、すぐに気づくのが香りだ。まるでお寺の中に入ったかのような、お線香の香りがする。ここには、法隆寺金堂壁画と釈迦三尊像が再現された展示がある。

「触れる展示」も。複製ならではだが、複製とはいえクローン。質感なども本物の再現をしているという。

アフガニスタンのゾーン。

展示物が「本物」ではないということから、むしろ展示としての幅が広がっているのが興味深かった。たとえば、展示物に自由に触れることができる。部屋中にお線香の香りが充満する。指向性スピーカーにより、ラクダの足音がどこからともなく聞こえてくる。

 

デジタル技術によって、展示を豊かにしようという試みはこれまでもある。今回の藝大の「クローン文化財」も文科省COIという研究費助成事業の一貫として行われているが、10年位前にも、文科省ではデジタルミュージアムの基盤技術開発という研究費助成事業があった(事業仕分けとかいろいろあり途中で終了したが)。デジタルミュージアムのプロジェクトでは、「本物」にデジタル(映像投影など)によって情報を付加して拡張するという方向性がメインだったと記憶している。

他人とわかりあうことなんてできないけれど、だからどうしたというのか

帰宅途中の山手線で、「なるほど」とか「そうですね」とか「わかります」とか相槌を打ちながら、コミュニケーションについて議論をしていた。

「でも、他人とわかり合うことなんてできないんですよ」と相手は言い、「はい、今私は『なるほど』と相槌を打っていたけれど、言われたことの半分も理解していないかもしれません」と私は言った。

他人のことを理解することは不可能だ、という前提にたっている。議論をしているとき、対話をしているとき、一見スムーズに会話が進んでいるように見えるときでも、相手が言っていることを100%理解していることはあり得ない。逆に、お互いに相手の言うことを何割か理解していなくても、議論も対話もスムーズに進みうる。

議論も対話も、言語という記号を媒介するコミュニケーションのひとつだ。でもコミュニケーションは言語を介するものだけではない。ひとりの人間に情報をインプットするツールは五感しかないから、五感のいずれかに働きかけることで相手に情報を伝達する。言語情報以外にも、表情、身振り手振り、声のトーン、身体の動き、におい・・・それらが五感に働きかけて、ひとりの人間の情報を、もう一方の人間に伝達する。

議論や対話は、言語によって意思や思考を相手に伝え、また相手からフィードバックがあり、それを元にまた思考し、記憶し、さらにフィードバックをするというキャッチボールだ。そこでは、一見、言語がそのキャッチボールの媒介の役割をはたしているように見える。でも、それだけだろうか。一番重要なのは、本当に言語だけなのだろうか。

言語コミュニケーションと非言語コミュニケーションのあり方についてよく考えています。議論や対話は、リアルの場で対面だけによって行われるのではない。言語情報のみのテキストコミュニケーション(メール、メッセンジャーツイッター、slackなど)、音声情報での通話(電話など)、映像と音声情報での通話(スカイプなど)と、オンラインが加わることで多様化している。

これらのオンラインコミュニケーションは、対面よりもコミュニケーションの情報量が減る。そのため、対面のほうがオンラインよりもコミュニケーションの質は良い、とするのが一般的だろう。記者のような仕事をしていると、対面のほうが情報をとってくるという点で優れていると感じることは多い。ただし、コミュニケーションの目的によっては、必ずしも対面のほうが優れているというわけではない。

たとえば、精神科の遠隔診療では、強迫性障害の行動療法は、対面よりも遠隔のほうが治療成績がいいという。強迫性障害では、手が汚いという強迫観念から1日中手を洗い続けるといった行動が見られる。この治療のために、あえて手にドロを付けて手を洗うという行動療法がある。これは、クリニックなど非日常の場よりも、自宅のような日常の場で行うほうが効果が高いという。そのため、対面よりも遠隔のほうが効果があったとも言える。

こうした、必ずしも対面のほうがいいわけではない、ということは、一般化できることではなく、ケースバイケースになるだろう。「会わないコミュニケーション」を具体的に見ていくと、その友好的な活用方法があるわけで、そういう話を書きたい。

消費ではなく生産を

「『人をダメにするソファ』ってありますよね。僕らはそうじゃなくて、消費ではなくて、生産する道具をつくりたくて」

と、先日あるイベントでメーカーの方が仰った。消費者が消費をするのではなく、消費者が生産するプロダクト、って矛盾しているようだけれど、今の世の中の空気感は間違いなくそちらへ向かっている。

「もう癒やしとか求めているんじゃないんだよね」

って、ブレストだったか雑談だったかで同僚が少し前に言った。そうなのだ。現代人は疲れているという。疲弊しているという。それでも、求めているのは癒やしではない。

では何が必要か。

個人個人が希望を持つようになることだと、ひでまんさんは言う。無意識を含めた個人の能力を引き出すことだと、なるみさんは言う。2人の考え方に共感をしているから2人と話すのは楽しいが、言語化するまでもなく自分が感じていることなので、これらをきちんと言語化するのは難しい。ただ、「消費ではなく生産を」というのも少し近いと思っている。

プログラミングがブーム?のように言われるようになって以来、「作った人が勝ち」と言われる。作るというのは、仕組みであろうとプロダクトであろうとソフトウェアであろうと。それらを作るハードルが下がったことで、作った人が権力者となり、それを使う人は奴隷になる、極論したらそういう言い方もできる。

でも、ここで言う「消費ではなく生産を」はそういった強い意味ではない。自分の精神を消費するのではなく、活性化された、活発な状態にすることくらいの調子だ。

 

銀座の日産クロッシングでカタログVR

昨年、銀座の4丁目交差点に新しくオープンしたギンザプレイス1−2Fにある日産のショールームニッサンクロッシングは、個人的にVR活用の定点観測スポットのひとつにしている。2Fのオープンなスペースでは、VRコンテンツが体験できるから。以前行った時はドライブシミュレーター的なエンタメ要素の強いVRだったが、今日行ってみたら、いわばカタログVRとでもいうような販促向け位置づけが強くなっていて、VR活用という点でいい感じでした。

 

2Fは電気自動車リーフの展示があるスペースだ。実際に展示されているリーフは赤色の一台だが、VRでは14種類のカラバリとホイール3種類を変えて360度さまざまな角度からリーフを体験できる。このスペースには何もないが、HTC Viveを付けていると、その場にリーフの車体があるかのように見え、コントローラーで操作をすると、車体のカラーを変えたり、ドアを開けて車内を覗き込んだりできる。カタログVRならば、通常のカタログでカラーやオプションを選ぶよりも情報がリッチになる。

スタッフの方が体験中の様子をiPadのカメラで撮影してくれて、アンケートに回答すると写真をメールで送ってくれるというサービスもあり。スタッフの方によると、まだまだVR体験自体が珍しいので、こうした写真をSNSで共有することでVR体験をしたいという人たちに人気という。

銀座は外国人観光客が多い。ニッサンクロッシングが入るギンザプレイスには、ソニーショールームも入る。そのため、全体的に外国人、それも西洋人比率が他の場所と比べてここは多いように感じる。実際にVR体験をしていく人も、外国人観光客が多いという。

ViveとPCがあればできるから、VRカタログはもっと広まっても良さそう。

 

人はAIの指示に従って、たとえ自身に不利であってもそれを選択する

ドライブ中、AIがこの道へ行くように指示をしたら、たとえそれが合理的には不利な選択肢だったとしても人はそれを選択するか?これをゲーム画面で実験してみると、多くの人はAIの指示通りに不利な選択肢を選ぶという実験結果が、先週のFITでの発表であった。

最初の実験は、2又に分かれた道のうち、右の道か左の道かをAIが指示をする。AIにも信頼性の高いAIと信頼性の低いAIがあって、被験者は経験的に、AIの指示がいつも正しいか、時々間違えるか、認識している。この状態で、AIが真ん中、つまり道のない選択肢を指示したときにどうするか実験したところ、AIの信頼性の高さ低さにかかわらず、多くの人はそのまま真っ直ぐ突っ込んだ(つまり衝突事故)という。ただし、信頼性の高いAIのグループでは、選択するまでの反応時間が長かった。これは、このAIの指示を信じていいのかどうか、被験者が考えている時間が反映されているという(とはいえその選択結果は、真ん中を選ぶわけだが)。

これだけだと、まあシミュレーションゲームだし、真ん中へ突っ込むことの意味(事故)を被験者が理解していないということも考えられる。そこで、次の実験では、2又の道のうち、一方の舗装された道に行くと高得点が得られ、もう一方の凸凹道へ行くと減点されるようにした上で、被験者は何度かこの走行ゲームを繰り返す。その上で、AIは凸凹道へ行くようにと指示を出す。この場合でも、多くの場合は被験者は高得点を得られない凸凹道を選んだという。

これが示しているのは、AI(つまりプログラム、機械といってもいい)の指示に慣れた人間は、自分の頭で考えて判断することを怠り、たとえAIの指示が合理的ではなかったとしてもそれに従ってしまうということだ。

これは、ニコラス・カーの「オートメーション・バカ」(2014年)の中で書かれていた、「オートメーション過信」「オートメーション・バイアス」にも通じる。カーの「オートメーション・バカ」の中では、「オートメーション・バイアス」としてこんなエピソードが紹介されている。

2008年、シアトルでハイスクールの運動部員を乗せた車高12フィートのバスが、高さ9フィートのコンクリート製の橋に突っ込んだことがある。バスの上部はもぎ取られ、21名の学生が怪我をして病院へ運ばれた。GPSの指示に従っていて、前方に低い橋のあることを警告する標識も点滅灯も「見なかった」と、運転手は警察に語った。

 

オートメーション・バカ -先端技術がわたしたちにしていること-

オートメーション・バカ -先端技術がわたしたちにしていること-

 

 

これはどちらかというと、機械(GPS)の指示に注意が向いているために、ほかのことに対して注意が向けられなかったという、人の注意能力の限界を示しているが、たとえ前出の実験は注意が向いていたとしても、機械(AI)の指示を過信することを示している。

オートメーション化はこれまでも、これからも不可逆的に進んでいくだろう。テクノロジー、オートメーション化は人間に福音をもたらすばかりではない。その副作用やリスクも含む。

「情報技術は、気づかれたら負けなんだよ」とエマちゃんは言う。オートメーションを進める情報技術は、利用者が気づかぬうちに生活、仕事の中に入り込んでいる。だからそのリスクや副作用も気づきにくい。前出のような研究や事実は、こうしたリスクや副作用の存在を気づかせてくれる。その時、人間はどうするのだろうか。思考停止に陥らずに、批判的な視点を持って、常に考える必要があるのだろう。