人間とテクノロジー

人間とテクノロジーについて、人と話したり、議論したり、思ったりしたことの備忘録

「その人がどう考えどう感じるか」患者の主観評価へ、という中島先生の話と、人とテクノロジーにおける主体感について

 先日のシンポジウムで興味深かったのが、医療現場で今、患者の主観にもとづいた治療評価がトレンドとなっているという、国立病院機構新潟病院副院長の中島孝先生の話だった。

「臨床評価を、患者の主観に基づいた評価にしていこうとしています。医療におけるアウトカムで一番重要なのは客観的指標ではなく患者の主観なのかもしれない」

 と、中島先生は言う。中島先生は神経外科医で、このシンポジウムではロボットスーツHALによる神経難病の治療をする臨床試験(治験)を担当した立場から、「ロボットスーツHALの医療応用における健康概念の変更と主観評価アウトカムに関する研究—サイバニックニューロリハビリテーションの治験実施から」とした講演があった。

 一般に、病気の患者が治療によってどの程度よくなったかどうかといった評価は、検査値などの客観的な指標をもとに評価される。一方最近では、患者の主観にもとづいた自己申告であるPatient Reported Outcome (PRO)を評価に使うという世界的な流れがあるという。ただし、客観的指標と異なり、主観評価では病気の経過や治療方針、回復を医師が判断するための尺度をどう作るかが難しい。

 だいたいが、患者に限らず人の自己申告の評価は、「適当」だ。いや、ほかの人から見たら「適当」に見える。客観的指標で良くなっても悪くなったということもあれば、悪くなっていても良くなったということもある。

 だが、結局のところ、本人がどう感じているかどう言っているかという主観のほうが重要なのではないかというのがPROを評価に使うという流れの中にはあるのだろう。

「なぜなら、病気の大きな問題であり治そうとするモチベーションである苦しさや痛みは、それそのものではなく、構成概念なわけです」

 と中島先生は言う。

 苦しさや痛みは、それそのもので存在しているわけではない。例えば、痛みの神経の反応を見ても、本人が本当に「感じて」いる痛みを評価できるわけではない。これまでの経験、人間関係、生活、仕事の様子など本人にまつわるあらゆることが合わさって、構成される。治療をしなくても痛みがおさまるということも、客観的指標では正常値でも痛みがあるということも当然起こりうる。

「患者が語るナラティブ(ものがたり)と外科医が語るナラティブは相違することがある。では「事実」とはなんでしょうか?患者はとてもいい加減なんじゃないかと思うことがあるが、本当はそうじゃないんです。人はどんな苦悩であっても、ナラティブを書き換えながら生きている。人間が複数のナラティブをつくる能力は、人間にとって救いです」

 最先端の医療現場は、人と機械の関係を常に考え続けている現実的な現場だ(多くの人が議論したがるSF的ストーリーや思考実験と異なり)。治療とは、人の機能なり形態なりが異常になった状態を正常に戻すものだが、医療技術によって人の本来の機能や形態を増強する「超」治療も可能だ(美容整形はまさに形態の増強)。

 医療評価において患者の主観が重要でありながら、これまで評価軸に入れるのが難しかったのには、尺度作りが難しいなどそれなりの理由があるだろう。いくら主観が重要といってももちろん客観的指標も必要だ。バランスだと思うけれど、PROを重視する傾向があることは、これまでの科学や西洋医学がたどってきた系譜を振り返ると非常に興味深い(そもそも科学は客観的に記述されるし、医療でEBMが言われるようになって久しいが、ここでいうevidenceは客観的指標のことだ)

 ところで、人工知能やロボットなどの機械、情報技術と人はいかにして付き合っていくかという議論が日々いろいろなところで繰り広げられている(出来る限り、おもしろそうなところに顔を出す)。

 そこで最近注目しているのが「主観」「自己主体感」「自己帰属感」「行為主体感」といったキーワードだ。人間ひとりひとり、自分自身がどう感じるかどう考えるかといった視点だ。「機械に使われる」というのを懸念する人は多いが、「自分が機械をどう使うか」という自分と、「機械を使いこなしている実感」を持つことが重要だという話(その感覚さえテクノロジーによって与えられるという議論もあるが、またそれは別の話なので別途)。

 結局本人がどう感じ、どう考えるか次第なんだよ。と言ってしまうと身も蓋もないが、案外本質なのだと思った。