人間とテクノロジー

人間とテクノロジーについて、人と話したり、議論したり、思ったりしたことの備忘録

専門家とメディアの信頼に基づいて、一緒につくっていきたい

 新卒で入社した新聞社の社是は、「中立公平」だった。記者は、ファクトを探してきて、自分をできるだけ省いてそのファクトだけを書くのが仕事だ。そう思っていた。

「Aさんはインドネシアを侵略すべし、と言った。一方Bさんはマレーシアを侵略すべし、と言った。中立に、というのは長倉ならどう書くの?中間をとって、シンガポールを侵略すべし、と書くの?」

 先輩はそう言った。ちょうど1年位前、私は医療ミス疑惑の案件を取材していた。いろいろと話を聞いているうちに、それは医療ミス、というよりも、複雑な人間関係による情報戦が垣間見えてきて、どう書くべきか、書かないべきか、悩んで、新聞記者時代に師匠と仰いでいた先輩に相談したときのことだ。

「違うでしょ。自分なら、『侵略はすべきじゃない』と書く」

 新聞社にいたときの私はとても単純で、ファクトというのは絶対的なものだと信じていた。客観的な事実は、誰がどう見ても事実だと。でも、そうじゃない、そのファクトを取材する、取り上げる、というアジェンダ設定には、すでにバイアスがかかっている。あらゆるファクトはバイアスから逃れることができない。

 そのバイアスは、世論とか、メディアとか、会社とか、部署とか、デスクとか、いろんなレイヤーでかかってくる。あらゆるバイアスがある中で、いち記者として何を取材して何を書くのかといったときに、重要なのは、いち記者の自分はどう考えるか、その軸をちゃんと持て、とその先輩は言いたかったのだと思う。

 ところで、ここ数年続いているとある医療関連の一連の報道や記事を見ていて、思ったこと。「どっち側」にしろ、専門家をやり玉にあげることでしか、解決にもっていけないというのは、違うんじゃないか、と。憎しみや怒りは、強い共感を産み、情報発信として強力なツールとなる。だから、そういった報道や記事が力を持ちやすいという力学は理解できる。ただ、それではなにも解決につながらないのでは、と。

 中高生から、ずっと科学技術の近くで生きてきた。大学以降はずっと研究者を身近で見てきた。だから、昨今の、研究者(専門家)に対する不信感の高まった空気が、ただひたすら悲しい。

 専門分野をめぐる報道のあり方について、もし私に軸があるとしたら、専門家とメディアの信頼に基づいて、一緒につくっていきたい、ということだ。

 専門家不信は、科学技術政策においては震災後高まったと言われているけれど、医療事故報道が相次いだ1999年以降から、ずっと続いている。専門家不信と、メディア報道は切っても切り離せない。専門家を疑いもせず持ち上げて、問題が見つかると叩くというメディアにも、もちろん問題はある。

 だからこそ、初めから専門家とメディアがもっとコミュニケーションをとってやっていきたい。問題だと声高に非難するだけでは何も良くはならない。

 自分の考えが甘いのかなあ。