人間とテクノロジー

人間とテクノロジーについて、人と話したり、議論したり、思ったりしたことの備忘録

「ビッグデータと人工知能 可能性と罠を見極める」(西垣通、中公新書)

 メディア報道では少し前は「ビッグデータ」、最近は「人工知能(AI)」という単語がさかんに使われ、バズワードとなっている。バズワードとなったテクノロジーは、多くの場合その明るいメリットが強調されるかもしくは将来人類に不利益を与えるとする「脅威論」によって、ブームを煽り、注目を集める。

 「ビッグデータと人工知能 可能性と罠を見極める」(西垣通、中公新書)は、それらのブームの狂騒、特に脅威論に対して釘を差し、今考えるべきことを提示する内容となっている。

 著者の西垣通氏は、1980年代は東大工学部から日立製作所のエンジニアとして、当時第二次ブームと言われた人工知能の研究開発に関わっている。その後、人文社会科学のアカデミアの世界に転じ、東大情報学環教授などを務めて退官後、東京経済大学で教鞭をとる。著書「基礎情報学」「続・基礎情報学」では、いわゆる「理系」「文系」両方にまたがる情報学を定義している。

 新書らしく、テクノロジーに詳しくない人でもわかりやすく、理解が進むようになっている。まず、ビッグデータおよびAIの技術の現状とその意義について、わかりやすく簡潔に紹介される。

 その上で、「2045年にAIが人類を超えるシンギュラリティが到来する」「AIが雇用を奪う」といった技術決定論的な脅威論に対して、「生物と機械のあいだの境界線とはいったい何か?」という問いに答えていくことで、反論をする。理論的考察として、1950年代にウィーナーが提唱した古典的サイバネティクスをのちに進化させた、「ネオ・サイバネティクス」にもとづいて、自律システムである生物と他律システムである機械を区別する。

 ところで、今のAIブームが始まって少ししてから、ここ1—2年の間に、今またサイバネティクスについて聞くことが増えたように思う。サイバネティクスでは、生物と機械を一気通貫または比較して考えるが、「理系」的な視点と「文系」的な視点の両方を持ち合わせている。それらの融合が、今のAIブームの重要な論点のように感じている。

 シンギュラリティをもたらすとされる汎用人工知能(AGI)に対しては、脅威を振りかざして注目を集めて研究を進めようとするに過ぎないと、ばっさりと斬った上で、むしろ、「脅威」は人工知能に対してではなく、開発する人間側の問題であると指摘をする。

 表向きは大魔神である汎用人工知能の権威を振りかざしながら、支配層はその部下であるプログラム開発者たちが、裏でこっそりと自分たちに都合のよい目標を、汎用人工知能の内部パラメータとして組み込むかもしれない。(中略)こうして、コンピュータを人間に近づけるという名目のもとに、実はコンピュータを介して人間を奴隷に近づける計画が巧みに進められていく。

 ビッグデータやAIといったテクノロジー分野は、いわゆる「理系」(理系・文系という区別は、もともとは大学受験科目で数ⅢCの選択の有無の違いに過ぎず社会人になっても使われるのはナンセンスだと思っているので個人的にはあまり好きではないけれど、どういうわけか社会人がやたらと好んで使う表現なので仕方ない)と思われがちだが、これらのテクノロジーの研究開発や活用には、人文社会科学的な思考や視点が欠かせない。本書ではところどころで、その点が強調される。

 たとえは、AIの第二次ブームと言われた1980年代に始まった、通産省(当時)が10年間で500億円以上かけて取り組んだ「第5世代コンピュータ」プロジェクト。ここで開発された成果はその後使われることなく、一般的には失敗だったと言われている。その根本的な原因は、人文社会科学的な視野を欠いていたことにあると、本書は指摘をする。

 根本的な原因は、プロジェクト当時の関係者、とくにリーダーたちが、知識や論理、そしてとくに言語コミュニケーションというものに対する洞察を欠いていた点にあるのだ。(中略)そういう言語哲学的な難問から目をそむけ、ひたらすら並列推論マシンの実現というコンピュータ工学的な技術課題にとりくんだことが、失敗をもたらしたのである。いわば、あさっての方向にスタートを切ってしまったわけだ。

 この指摘は非常に重い。哲学的な問いを考えず、「ひたすら技術課題にとりくむ」のは、多くの研究開発の現場で見られる光景ではないのか。

 本書では課題を指摘するだけではなく、最後の章で、ではどうするべきなのか簡単に提示をしている。それが「集合知」「人間と機械の協働」といった視点だ。

 これまで一部の専門家の間だけで閉じられてきた知識は、インターネット時代には、誰でも入手できるようになった。そこで知の民主化が進むと、これまでも知識層は描いてきた。本書でもその考え方を踏襲している。ただ、少し物足りなさを感じた。わがままを言うなら、その先を読みたいと思った。