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「日本のルィセンコ論争」(中村禎里、みすず書房)

※昨年、特定の人に読んでもらうために書いたもの。

 

日本のルィセンコ論争 (みすずライブラリー)
中村 禎里
みすず書房
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 ルイセンコ事件をご存知だろうか。1930年代のソビエト連邦で、独自の遺伝学説を唱えた農学者のルイセンコをソ連政府と共産党が支持し、その学説にもとづいた農業政策を推進する一方で、ルイセンコと対立する正統派の遺伝学者らを追放した事件だ。

 ところが、実際は農業生産の拡大に繋がらず、ルイセンコは60年代に失脚。ルイセンコの学説も否定される。ルイセンコに対立する遺伝学者は追放されたため、ソ連の生物学は大きな打撃を受けることとなった。

 そのため、ルイセンコの名は、「トンデモ」学説が政治とイデオロギーと結びついた悪い事例として、科学史の中では扱われることが多い。

 ただし、科学は常に大きく進歩し続けている。人の全ゲノムを数時間で読めるようになった今となっては、ルイセンコ学説は「トンデモ」に見えても、ワトソンとクリックがDNAの二重らせん構造を明らかにする以前もそうだったわけではない。本書は、ルイセンコ学説の是非をめぐる、日本の学者らによる「ルイセンコ論争」の詳細な記録だ。科学的知見と技術の限界から実験によって明らかになっていなかった生命現象に対する理論構築による飽くなき探究の一方で、科学者としての謙虚さを失ったことによる大きな誤謬の様子がわかるのが興味深い。

 ルイセンコは、後天的に得た形質である「獲得形質」も遺伝するとした説を唱えた。モルガン・メンデルの学説に基づく正統派遺伝学では否定されている考え方だ。

 ルイセンコ派の八杉竜一は「ルイセンコ学説は2つの点で革命的である。第一に形態を機能と切り離すことなく、ともに遺伝性の概念にふくませていること。第二に、生物と環境との関係を定義の中に入れていること」と言う。飯島衛は、ルイセンコ学説は細胞説の否定であり、全体論だと指摘した。

 ルイセンコがユニークだったのは、生命現象を理解するために、生物の機能に着目したという点だ。ルイセンコは生物の本性を、物質代謝の型とした。一方で、モルガン・メンデルから続く正統派では、生物の形態に着目して遺伝の研究していた。もっともこれは、生物の形態を指標にして調べるしか当初は手法がなかったためだが。

 つまり、細胞という要素に分解して深掘りして理解しようとする、要素還元主義の一般的な科学の手法に対して、ルイセンコはより高次から全体を通して機能をも理解することで生命現象を明らかにしようとしたのだ。

 ただし、ルイセンコは代謝過程のうちで当時の技術的に追求しやすかった生化学的アプローチをとったが、実際に機能を理解して高次の生命現象を追求するには、大きな隔たりがあった。そのため、ルイセンコ学説は実験による裏付けのない「トンデモ」となってしまったというわけだ。

 実際の実験と理論の乖離を見定められなかったルイセンコおよびルイセンコ派の学者たちには、謙虚な態度で対象に望むという科学者としての態度が欠けていたのは大きな問題だろう。

 だが、生命現象および自然現象そのものを理解したいという欲求と、要素還元主義の乖離による飛躍の罠は、科学者であってもなくても、常に身の回りに潜んでいる。

 現在の科学技術の研究では、分野をまたぐ学際研究が活発に行われている。例えば、日本政府が力を入れている再生医療ひとつをとっても、分子生物学、発生生物学、遺伝学、バイオインフォマティクスなど多岐に渡る分野の知識とアプローチが必要だ。科学誌ネイチャーにも論文が掲載されているある著名な再生医療研究者は、「要素還元的アプローチにはすでに限界がある」と言い、細胞などの要素だけでなく、それらの相関関係やコミュニケーションに着目して研究をしている。

 こうした、従来は要素を分解して深く掘り下げて研究されてきた分野を横断的につないで、全体を俯瞰し、生命現象や自然現象を理解しようとする試みは、むしろ現在では主流派になりつつある。このときに、知りたい全体像と技術的な限界とできることの見極めをする謙虚な態度は同様に重要だ。一歩間違うと、「ルイセンコ」になりかねない。

 もっとも、本書を素直に読めば、ルイセンコ論争を不毛な議論に終始させた、日本の学者らへの批判とそこから教訓を得ようとする態度が主題だ。

 論争に参加した学者らは、生物学上の学説とそれを政治利用するソ連政府の科学行政に対する批判的態度を欠いていたと、著者は批判をする。その上、論争は理論とイデオロギーにこだわるあまり、追試実験をしてルイセンコ学説を確かめるという作業を怠ることで、科学者としての責任も放棄してしまった。

 なお、あとがきの後を読むと、それまで読み進めてきた本書の印象は180度変わる。本書の初版はルイセンコ論争から数年後だが、初版から30年後の再版に際して著者が寄せた文章では、「ルイセンコ」になるかもしれなかった著者の告白が綴られている。著者は、ルイセンコ論争の観察者・記録者でありながら、当事者でもあったのだ。

 科学者にとっても非科学者にとっても、多様な情報があふれる複雑な社会の今だからこそ読む価値があるだろう。