備忘録

テクノロジーと人間

ディストピア化する社会とテクノロジー

先週号で、ディストピア小説の記事を書いた。

toyokeizai.net

 

去年末あたりから「ディストピア」についてEちゃんとよく議論をしていて、その議論の参考にとディストピア小説をよく読んでいた。ディストピア小説とは、ユートピアを目指していたはずなのにいつの間にか個人の自由が制限された全体主義的な管理社会となる社会を描いた小説だ。

ディストピア小説というのは、ジョージ・オーウェルの「1984年」「動物農場」、オルダス・ハクスリーの「すばらしい新世界」、伊藤計劃の「ハーモニー」あたりが代表だ。最近では、昨年芥川賞を受賞した村田沙耶香さんの「消滅世界」「殺人出産」もディストピア小説と言えるだろう。2014年頃の新聞記事を見ていたら、「殺人出産」に加えて、星野智幸さんの「呪文」もディストピア小説として人気、という記事があった。

ところで、年明けに米国でトランプ政権が誕生すると、海の向こうから「1984年」がベストセラーになっているというニュースが入ってきた。国内で翻訳本の売れ行きもいいという。

それで、記事になるかも、と提案した次第。取材をするといろいろと興味深かったです。日本では第2次安倍内閣になってから急速に「1984年」の売れ行きが伸びているとか、SF作家志望にとって「ディストピア」がメインのジャンルになりつつあるとか、記事には入らなかったけれど、2000年台以降、米国の若者向けには「ディストピア小説」の新刊のヒットが相次いでいるとか。

なぜ「ディストピア」についてEちゃんと議論をしていたかというと、技術(特に情報技術)と社会を取り巻く社会像や世界観の整理にあたって、そうなってほしくないと多くの人が考える社会像を「ディストピア」呼び、これを考え整理することで、現状とそうなってほしい社会像を浮かび上がらせようとできるのではないか、という意図だった。

そもそも「今がディストピア」だよね、というのがEちゃんと私の現状認識。

情報技術は、必ずしも人を幸せにはしなかった。もちろん、効率化と便利さをもたらしてはくれたけれど、一方で、あらゆる情報がデジタル化されて管理されるということは、まさに個人の自由が制限される管理社会そのものだ。それも、ビッグブラザー的な特定の権力者によるものではなく、不特定多数の社会全体の”善意”によってその全体主義化が推し進められている。

それに苛立ってもやもやとしていた。だから議論していた。議論したからといって解が得られるわけではないけれど。

ただひとつ、現状認識をする必要はあると思うのだ。人工知能がこれほどまでにブームになっているのは、その社会的影響の大きさのためだが、人工知能とはすなわち情報技術そのものだ。情報技術はこの30年で社会実装が進み、これからもさらに進んでいくだろう。

情報技術に加えてインターネットというネットワークが整備され始めた1990年代。多くの人たちは、知の民主化と真の民主主義が実現すると口々に叫んだ。でも、実際はそうはならなかった。まとめサイトに代表されるようなフリーで断片化されたクズ情報によって、コストを掛けた知が市場原理で排除されていき、フィルターバブルによって分断されたひとびとと情報、それにPost-trueth時代と呼ばれる、事実(ファクト)がないがしろにされ、それが政治と社会を動かしているのが現状だ。

これってすでにディストピア。でも、誰も悪くない。そうしようとしたわけじゃないのだ。みんな幸せになりたい、みんなでユートピアを作ろうとして、こうなっているのだ。

人って、そんなに賢くないし、愚かだ。だから、いつも立ち止まって、振り返って、ちゃんと見ないといけない。見たくないものも、自分の嫌な部分も、あるはずがないと思っている偏見を自分が抱えているということも。

そういう振り返りというか棚卸しがあって初めて、情報技術と社会のことをかんがえるスタート地点につくんじゃないのかなあ。