人間とテクノロジー

人間とテクノロジーについて、人と話したり、議論したり、思ったりしたことの備忘録

共感と”あざとさ”

先月、突如としてTwitterのTLが「すっごーい、たーのしー、おもしろーい」に染まった。けものフレンズを観ている友人は少ない。にもかかわらず、Twitterのやりとりに「すっごーい、たーのしー、おもしろーい」が入ってきたのだ。

アニメ、漫画、ゲーム、グッズなどメディアを組み合わせて計画的にマーケティングをして売っていくメディアミックスが常套手段となる中、少し前の日経MJの記事によると、けものフレンズはそうではないと言う。むしろゲームは打ち切りになり、マンガ連載も終了。ところが2月にはいって、Twitter上で視聴者が勝手に盛り上がり始めたという。制作サイドが綿密なマーケティングができなかった一方で、たつき監督のコメントとして、「手のひらの上で転がされるのを嫌う今の消費者に受けたのかも」と分析している。

モノが売れない今、ビジネスから何から何まで世間のキーワードは「共感」だ。理屈ではなく、感情を掻き立てて共感を呼ぶ人が受ける、お金が集まる、購買行動につながる。

何から何まで多かれ少なかれ、私たちは企業が敷いた綿密なマーケティングに囲まれて生きている。節分の恵方巻き、バレンタインデーのチョコレート、ホワイトデーのクッキ・・・すべて食品メーカーのマーケティングのためだ。ところが私たちは、知らず知らずのうちに、それらの企業のマーケティングやPRといった情報によって無意識のうちに行動が操作されている。

そうやって「共感」を作り込もうとする「クリエイティブ」をうたう広告代理店や広報PRやマーケティングの人たちの行動には、とても「あざとさ」を感じて、私は逆に拒否してしまう。コンテンツビジネスだって同じことだ。メディアミックスでも、原作漫画は好きだけれど、それ以外には惹かれない。というのは少なくない。

最近では「クリエイティブ」をうたう、手を動かさず口だけ動かす人たちは、みんなマーケティングとPRでありお金儲けのしもべに見えてくる。(被害妄想かしら。まあだけどだいたいあってると思う)

そういう「あざとさ」を嫌悪するのは、「共感」を作り込まれることで、自分が企業側に「操作されている」感じがするからだ。だから気持ち悪いと感じる。

数年前に、sence of agencyという単語を知った。心理学や認知科学の分野で研究対象として注目されているという。「自分がやっているという感じ」を指す。行為主体感とか自己主体感、自己帰属感といった訳をするそう。

人が何かを選択するとき、sence of agencyがあるのかどうか、つまり自分自身で本当にそれを選択したという実感を持てるかどうかが「あざとさ」を感じるかどうかの分水嶺だ。

枠組みやシステムを作る人は本当にすごいと思うのだけれど、クリエイティブという点に関しては、手を動かしてものを作る人達が本当にかっこいいと惹かれる。とはいえ、産業規模が大きくなると素朴にものづくりで手足を動かす人以外のステークホルダーがどんどん大きくなり、システムとして肥大化する。そうすると、システムの上の方を感じ取ってしまって「あざとさ」を感じて興ざめしてしまうんだろうなあ。

自分で選択したのではなく、選択させられている、操作されているという感じがしてしまう。でも、そう思うからと言ってそれを拒否するのもまた、他者によって自分の意思がコントロールされているとも言えるのかもしれない。

人が自由意思を持ちそれによって行動をするのはウソだというのは、神経科学や心理学、認知科学などが明らかにしてきたことだ。ただし、それでもなお、自分が何かをしている、自分が選択しているという実感であるsense of agencyを人は持つし、その有無によってパフォーマンスも意欲も変化する。

こわいなーと思うのは(おもしろいなーと思う方が勝るけれど)、sense of agency研究対象となっているということは、いずれはそれを征服する(操作する)こともできるようになるのだろう。いや、すでに経験的に行われているのかもしれないな、ということ。