人間とテクノロジー

人間とテクノロジーについて、人と話したり、議論したり、思ったりしたことの備忘録

botはいかにして集団の全体最適をもたらすか

少し前にNatureに載ったこの論文が好きです。

www.natureasia.com

アダム・スミス国富論の中で、投資家が自らの利益を追求して振る舞うことで、市場全体が最適化される、「見えざる手」を説きました。ただし、人間社会全体においては、個人が(自らの利益に向かって)自由に振る舞うことは、必ずしも全体最適につながりません。にも関わらず、社会の多くの場面は細分化され、それらは個別最適化され、全体を見渡して舵取りする機能が喪失されているということが、ままあります。こうした状況では、個人は良かれと思い善意で努力をしても、全体としてネガティブに働くことが往々にして起こります。

これってディストピアだよね、ということを去年あたりからエマちゃんと議論しているわけですが、今の社会の問題の多くがこれに当てはまると考えています。つまり、どこにも明確な悪人はいない。みんな、自分の役割と居場所で努力をして、良かれと思って振る舞っている。それでも、社会全体が沈み込んでいっている。

なんてディストピア

それで、この論文の話。複数人で協力するゲームで、個人がゴールに向かって振る舞うよりも、ランダムに振る舞うbotを一定割合介入させると、好成績のゲーム結果を得られるというものです。

こうした、ランダムに振る舞うbotによる最適化は、コンピュータサイエンスなどの領域ではよく知られていたそうです。ところが、人の振る舞いによって構成される社会学においてはあまり知られていませんでした。この論文では、そうした他の領域での知見を、個人と集団という人の実際の振る舞いに当てはめて実験したところ、同様の現象が見られたということです

この論文でのゲームでは、botはどこでもいいわけではなく、多くのネットワークの中心(人間社会で言えば、集団のリーダーのようなもの)にあるときに、全体の1割ランダムに振る舞うことで効果を発揮しました。

実際の社会環境やほかの状況ではこの条件は適用されませんが、部分最適全体最適につながらない(「見えざる手」は機能しない)状況において、個別の一定のランダムさ(脱最適化)が全体最適につながることは、汎用的だと思いますし、実感にも合うでしょう。

論文著者で今は米エール大学博士課程の白土さんは、どこかで名前を拝見したことがあると思いググったら、以前テクタイルの活動をされていた方でした。テクタイルは10年前に同僚に勧められて展示を観に行って以来、おもしろい!と惚れ込んで、取材に伺ったこともあります。世間狭い。

www.techtile.org