人間とテクノロジー

人間とテクノロジーについて、人と話したり、議論したり、思ったりしたことの備忘録

「わたしを離さないで」はディストピアSFだ

カズオ・イシグロさんが、ノーベル文学賞を受賞した。これまでに「日の名残り」も読んだが、7年前に初めて読んだ「わたしを離さないで」は強烈だった。

 

わたしを離さないで (ハヤカワepi文庫)

わたしを離さないで (ハヤカワepi文庫)

 

 

今思うと、「わたしを離さないで」は、ディストピアSFだ。テクノロジーは、人の便利さの追求だけでなく、人そのものの健康にも大きく貢献している。ただ、ある人の生の追求が、他の人の生を犠牲にして上で成り立っているものなのだとしたら。

「わたしを離さないで」は、そんな話。人間を始めとする生物は、すべてが何かの犠牲の上で生きている。それは生物であれば自明。なぜなら、生物は自己保存と増殖のために、ほかの生物を捕食して、エネルギーを得なければならないからだ。人間も同様。

でも、人間が自らの生の追求のために、ほかの生物の生を奪うだけでなく、人間の生を奪うとしたら。それが、人間が作り出した人間だとしたら。

そういう世界を、幸せな世界と呼ぶのかしら、ユートピアと呼ぶのかしら、それともディストピアと呼ぶのかしら。

過去のブログを見ていたら、初めて読んだのは2010年10月。2010年は改正臓器移植法が施行された年だ。当時、科技部で厚労省担当だったから、直接担当していなかったとはいえ、臓器移植のニュースは関心を持って追っていた。

私が高校生だった1996年、臓器移植法が施行された。たぶん授業で先生が話題にしたのだと思う。意思表示カードを記入して、すべてを提供する、としていた。子供なりに、考えた末でそう記入した。

でも、いつくらいか、大学生くらいから、提供しない、と書き換えた。今は、意思表示をしていない。その時々に、それなりの理由があってのことだ。臓器移植についての私の考えは、いつも揺らいでいる。

 

ちなみに、2010年10月3日のブログには、「わたしを離さないで」の感想をこう書いていた。

一気に、読んだ。

31歳の「介護人」、キャシーの一人称で語られる。子供のころから思春期をへて青年期を送るまでを振り返る。臓器提供を運命付けられたクローンとして施設で育ったこと、幸せだった日々、友情、愛情、そんなものが語られる。

ひとつ、これは悲劇だということ。
人間のエゴが生んだ、悲劇。臓器工場として、クローン人間を作り、臓器提供のために育てる。施設に定期的に訪れる施設の支援者であるマダムは、彼らを恐れる。クローン人間だからだ。自分たちとは異なる異質な存在と意識しているからだ。
でも彼らはれっきりとした人間だ。
ねたみもある。嫉妬もする。恋もする。深い親愛の情を持つ。

私たちとなんら変わらない、そういった人間の心情が、キャシーの独白からくっきりと浮かび上がる。
マダムがいくら恐れようとも、読者は彼らを異質な存在とは認めない。
それにもかかわらず、彼らのもとには次々と提供者になるための通知がくる。介護人は、臓器を摘出され傷ついた提供者を介護する役割。やがて提供者になるまでの猶予期間でもある。
運命から逃れることはない。彼らは、猶予を伸ばせないかと、試しては見るけれど、けっしてもがいて逃げることはない。彼らは、静かに受け入れる。そのために生まれたのだから。

4度の提供を終えると、彼らは使命を終える。