人間とテクノロジー

人間とテクノロジーについて、取材とか思ったこととかの備忘録

TOHO上野でレディ・プレイヤー1を観てきた

少し前に、上野に映画館ができた。上野、というより正確には御徒町だ。空いている、という理由で時々、ここにひとりで映画を観に来る。

近未来のVRがテーマだという「レディ・プレイヤー1」は、私のTwitterのTLではずいぶん前から、試写を観た方たちが推していたので、とても期待を膨らませて「これは必修科目だ!」として、公開初日のレイトで観に行った。もちろんひとりで。

一言で言うと「ゲーマーの、ゲーマ-による、ゲーマーのための映画」でした。80年代サブカル(”サブカル”っていう表現もまた80年代らしい)てんこ盛りで、配給会社などいろんな権利をまたいでここまで盛り込めるのはスピルバーグならではだし、スピルバーグにしかできない。その点、観ておいて損はない。

ただ、VRという技術が浸透した社会の物語を楽しみにしていた私は、正直がっかりした。現実の世界を楽しむことが、VRの世界を楽しむことになる。この物語は、そう説く。でも、そんなことは想定の範囲内で、言い尽くされていて、消費つくされた物語だ。原作小説は2011年ということだが、陳腐化している、すでに。

一方で、思ったのはこんなこと。VRの世界(デジタル)を成立させるには、現実の世界(物理)が必要で、デジタル化によって収益を上げるビジネスモデルは、フリーライダーとしてその大きな収益率を達成する。それは今の社会経済で当たり前のように起きていて、もううんざりしたモデルだということだ。

デジタル化、IT化は効率化(コネクティビティも含めて)をもたらすが、現実世界での物理的な創造をするものではないため、どれだけIT産業が巨大化しても、その下支えをする物理世界は、製造業などが担うことになる。物理世界がなければ、デジタル世界は成立しえない。私たち生物は、物理的な食べ物を食べ、物理的な居住空間に住み、物理的な生殖活動を行わなければ自身の存続または次世代の存続ができない。

でも時々、楽観的でイケイケなデジタル世界の人間は、それを忘れがちになる。

レディ・プレイヤー1の舞台は2045年。荒廃した世界で、スラム街で暮らす人口の大半はゲームの世界「オアシス」に入り浸っている。オアシスでは、創設者の遺言によってオアシスの所有権で5000億ドル相当の遺産が与えられるゲームが繰り広げられている。スラム街に暮らす若者がそのゲームの勝利をかけて奮闘するというストーリーだ。オアシス管理のために巨大資本を投じて主人公と戦う悪役として企業社長が登場。主人公はゲームの中で知り合った仲間と現実世界でも出会い、悪役社長との対決に勝利。やっぱ現実いいよね。というオチ。

VRが好きな人や、デジタルイケイケな人たちはしばしば、デジタルの中の世界の素晴らしさをとく。その中には、デジタルだけではなく現実世界を変えうる力を持つからだという主張も多い。それは否定しない。

でも、物理的な生産活動を辞めて日がな一日ゲームの世界で暮らす人々が人類の大半の世界は、成立しえない。

機械が生産活動を担い、人間は労働から解放されるととく人もいる。彼らのロジックでは衣食住といった生命維持のための物理的な生産活動を支えるのは機械であり、人間はそれらを行う必要がない。それならばデジタル世界に浸りきることもできる、と。

技術が理想の域に達すればそれは可能だけれど、それはまだ技術的にも社会的な実現可能性も、ともにメドが付いているものではない。妄想の域を出ていない。

ということを考えながら終電後にTOHO上野から自宅まで1時間近くかけて歩いていたのでした。