人間とテクノロジー

人間とテクノロジーについて、人と話したり、議論したり、思ったりしたことの備忘録

機械を支配し、機械に支配される、人と機械のあり方

 人工知能(Artificial Intelligence:AI)やロボットが人の雇用を奪い、やがて人の知性を超えるシンギュラリティが訪れるーー。パソコンやスマートフォンに四六時中向かっていることで、心身ともに健康を蝕まれていくーー。

 有史以降、言語、印刷技術、写真、映像、コンピュータと人間は情報技術を機械化とともに発展させてきたが、最近ではデジタル情報技術を脅威としてみたり悲観したりする向きも強い。

 だが、本当にそうなのだろうか。

 そもそも情報は、人が生きていくのに不可欠な要素だ。人が「現実」だと思っているのは、「情報」の認識の結果にすぎない。情報技術は、情報の収集、発信、共有にかかる能力を飛躍的に増幅させることで人の生存を支援してきた。人は情報技術を発展させることで、自分自身を作り変えて生き延びてきたと言える。

 コンピュータ、機械による情報技術は今もなお発展し続け、これからも発展していく。デジタル情報技術はパソコンやスマホにとどまらず、世界中を覆うインターネットへの接続とあいまって、Internet of Things(IoT、モノのインターネット)という考え方のもと、ペンや棚、壁のような家電製品以外の身の回りのモノへも拡がっていくだろう。コンピュータや機械はますます私たちの身の回りに張り巡らされ、それなしでは私たちはますます生存できなくなっていく。

 人工知能やロボットへの脅威論や悲観論は、それら情報技術によって、私たち人間の主体性や自律性が脅かされていると感じるためだろう。だが、すべてを人が自律的に判断して支配するのは幸せのだろうか?情報技術、機械に人が操作され、影響され、それらと人が協調していくあり方もまたあるのではないだろうか。

 「現在、すでに人はある意味では機械に支配されているとも言える」と、インターフェイス研究者の鳴海さんは言う

 たとえばEメールを書いているときの予測変換機能。「お願いします」と書こうとしていたが、自動的に「お願い致します」と表示されることがある。私たちが使う言葉や思考が、予測変換という機械の機能にコントロールされているということだ。

 ところが通常私たちはそれらのささいな違いには無自覚で「まあいいか」と受け入れて使う。最終的には文面は自分で決めたと思っている。

 心理学では「コントロール幻想」と呼ぶ考え方がある。実際は自分でコントロールしていなかったとしても、あたかも自分でコントロールできているかのように思い込む性質だ。人は機械をコントロールできるものだと思っているので、たとえ機械にコントロールされていたとしても、コントロール幻想によって自分でコントロールしていると感じる。コントロール幻想にはこのように、人の余計な不安を取り除き、現状を肯定する良い効果が知られている。

 人と機械、コンピュータとの関係では、人よりも機械が優れていることがたくさんある。時には人が機械に合わせた方がいいこともある。それだけではなく、人が機械に合わせて変質したほうが良いこともある。

 予測変換のように、ある意味で人が機械に支配されるような状態はすでに私たちの周囲にありふれている。むしろ、それを考慮した上で、どうやったら人や社会に役立てられるか設計していく必要があるだろう。