「自分の頭で考えなさい」
とメンターのような元上司に、しょっちゅう言われる。質問をすると、まあだいたいそうやって叱られる、いまだに。
「考えてもらいたい。考えるきっかけになればと研究をしている」
と尊敬する研究者である友人は言う。
友人が言うには、考えないことで、自分と異質なものに対して寛容ではなく、偏見や差別につながる。また、世の中は動的に変わっていき、それに適応していくには自分の頭で考える必要があるということ。
近しい人たちに「自分の頭で考える」ことを自身が心がけている人たちが多いせいか、その理由を考えるまでもなく、私は「自分の頭で考える」ことをいつも自分に言い聞かせている。いつからだろうか、多分、自覚的に「自分の頭で考える」と自分に言い聞かせるようになったのは、大学生くらい。
本当は、「自分の頭で考え」ないで、周りの言うことや書いてあることを受け入れるのは、とても楽なことだ。考えなくても悩まなくても済むし、何より周りとの軋轢が生じない。職場など環境によっては、そういうふうに自分の意見や考えを求められないところもあるし、ほかの人の言うことに沿うことが良しとされるところもあるだろう。
「自分の頭で考える」というのは、周囲との衝突を生むこともある。ある考えや意見や物事をそのまま飲み込んで受け入れるのではなく、「本当にそうだろうか?」「他の見方もあるのでは?」とある種の批判的な視点が必要だからだ。
でも「自分の頭で考える」って、どういうことなんだろうか?
先日、「ロボットは意識を持ち得るか?」がテーマのシンポジウムがあった。認知科学者でCaltech教授の下條先生の話は、意識とは「私は意識を感じるか」という一人称では問えず、「あなた」「第三者」との関係性の中で生じるという内容だった。
「意識は社会的なキャッチボール。互いに、相手に対してどう反応するかというところに本質がある」
と下條先生は言う。
考えるというのも、同じように相手とのキャッチボールの中で進むものなのではないのかなあ、とふと。「どう反応するか」というreflectiveというかresponsibleなやりとりが、考えるということなのではないかと思った。例え、自分ひとりで考えているように思っていても、過去未来問わずほかの人との相互作用そのものが「考える」ということなのではないかなと。
要するに、話しているうちに頭が熱くなってどんどん考えが頭をめぐってくるような、話し相手大事です。いい友人、周囲の人にめぐまれていると思います。