人間とテクノロジー

人間とテクノロジーについて、人と話したり、議論したり、思ったりしたことの備忘録

錯覚を活用して人の感情を操作する

 今朝、NHKをつけたら錯覚を活用する特集をやっていた。「サキどり」という番組。鳴海さんたちの「扇情的な鏡」やあぱぱさんの「電気味覚フォーク」も出ていて、番組の最後で、あぱぱさんは「錯覚を利用して幸せになるのもよいのではないでしょうか」と言う。

 番組は、錯視を活用して自動車のスピード出しすぎを防いだり、ファッション誌で着痩せを指南したり、メイクに活用したり、といった内容だった。「経験的にそうだと思っていたことが、科学的な裏付けがあると嬉しい」というようなことをコメンテイターが言っていたが、なにも錯視を活用した着痩せやメイクは最近出てきたものじゃなくて、自分がファッション誌をよく読んでいた20年前の中高生時代から、よくあった。

 科学的裏付け、というが、錯視は最近わかってきたものでもない。番組の中でも着痩せに活用として取り上げられていたミュラー・リヤー錯視は1889年に発表されたものだし、デルブーフ錯視は1865年に考案されたものと言われている。19世紀から引き継がれてきた知見ですよ。

 番組としては、最近になって錯視など錯覚を活用するようになってきた、という社会的文脈がある、もしくはつくりたい、ということなのだろうけれど。相変わらずこういうときには「科学的」という言葉はあたかも権威付けのように使われる。

 一方で、鳴海さんたちがやっているような、錯覚現象という知見をもとにして、情報技術を使って人の感情や行動を動かすという研究は、人工知能が話題になる昨今の高度に情報化された社会において、間違いなく大きな流れのひとつと思っている。

 人工知能の社会的懸念がさまざまな場で議論されているが、本当に気をつけないといけないのは、本人が気づかないうちに人の感情や行動を簡単にコントロールできるのが、人工知能にしろインターフェイスにしろ情報技術だということ。自分が知る知らないにかかわらず、すでにそういった仕組みは社会実装されているし、これからもされ続けていく。

 もちろん利用する側の問題なのだけれど、技術そのものとその可能性を説明するのは、研究者(専門家)の責任なんじゃないかなあと思う。