人間とテクノロジー

人間とテクノロジーについて、人と話したり、議論したり、思ったりしたことの備忘録

WIREDの科学特集についてもやもやしている友達に話すことの整理

WIRED最新号の特集は「サイエンスのゆくえ」。

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村上陽一郎さんの寄稿を始めとして、科学哲学の色が濃い特集だ。これを読んだKさんがもやもやと感じていることをインスタでメンションをくれたので、今度会うときに彼女に話したいことを整理しようと思う。

編集長の若林さんの、科学とテクノロジーの現状認識は、とても悲観的だ。巻頭のEDITORS LETTER(私は若林さんが書く文章が好きなので、真っ先にここを読む)で、民主主義と自由経済にのっとった社会と、その上での研究者の認識の課題、科学とテクノロジーの現状についてこう述べる。

科学者や工学者が「ロマン」ということばをしきりに使ったり、子ども時代に見たマンガやアニメの影響を喜々として語りたがることに違和感を覚えるのはそれがまるで、動機の純粋さを語ることで自分たちの「価値中立性」が担保され、価値判断から免除してもらえることを望んでいるのように聞こえるからだ。

けれども、科学とテクノロジーと資本主義が巨大機構をなして、社会も人も置き去りにし(とくにはなぎ倒しながら)、もはや誰が望んだのかすらわからない「未来」を切り開いてしまう時代にあって、「純粋さ」は何をも担保も正当化もしないだろう。それに気づきはじめたのか、科学者たちは最近もっぱら「社会課題の解決」を語る。なんにせよ、いまどき科学をやるにはなんらかの免罪符が必要、ということになるらしい。

 

この息苦しさの理由として、若林さんは「自由がない」ことを挙げる。その上で、

「科学はどこからきて、どこへいくのか」という問いは、「科学はいかに『自由』を取り戻すのか」を意味しているのだと思う。

と締めくくる。

また、ウェブで公開されている「ポスト真実」と科学の終わりー特集「サイエンスのゆくえ」に寄せてとしたテキストも同じトーンだが、最後はより過激なトーンになっている。

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科学が、その上に築きあげられた壮麗にして複雑な社会機構の奴隷になってしまっているのだとしたら、科学は自らをその軛から解放し、いまの「当たり前」に傲然と中指を立てることのできる場所を探すしかなさそうだ。

Kさんの違和感はきっと、なぜこんなに科学が大仰なものとして扱われているのか、という点のようだ。

それに対する私の答え、というか教科書的な答えはこうだ。20世紀に入ってから、科学は「制度化された科学」の時代に入った。政府や企業による制度のひとつのピースとして科学の研究は推進された。それを推し進めた原動力は、ひとつは戦争。もうひとつは、経済だ。その中で、本来異なるものであったはずの科学とテクノロジーは、両輪として扱われるようになった。日本の戦時中の「科学技術動員」はそのいい例だ(なお、戦後の「科学技術庁」をはじめとしていまだ行政用語として脈々として使われている「科学技術」という単語は、このときの科学技術動員に端を発している)

戦後日本は憲法9条によって戦争を放棄したことになったので、科学技術の推進の原動力は経済となった。

それでも、科学技術への期待がそれほど大きくなかったーというのは、産業とアカデミアが良くも悪くも分離していた時代のことだ。経済に貢献する研究は企業の中でやっていればよかった。予算規模が断然小さいアカデミアは、教育を盾にして、ある程度自由に研究ができたーころは、それほど注目されなかった。

ところが、先進国の経済成長が低迷するとー拡大と成長を前提とする資本主義では、常にフロンティアへと拡大をしていかないと、その状態を維持することはできない。植民地支配や戦争による領地拡大というフロンティア開拓の手段を失うと、自ずと成長は低迷する。成長をしないことはすなわち衰退なのだーフロンティアを、テクノロジーによるイノベーションへと求める風潮が高まった。それが幻想なのか現実的な解なのかは、わからない。ただ、社会経済、そして政治はそれを求めている。

だから、科学技術への期待が高まった。そして、より経済との結びつきが強くなった。これが私の科学技術の現状認識だ。この現状のフレームの中で、ものごとを考えざるを得ないのが今なのだと思う。

だから窮屈だ。自由がない。その点で、私の現状認識は若林さんとほとんど同じ。

では研究者はどうするのか。私が新聞社をやめてからこの5年、右往左往しながら手当たり次第にいろいろとやって考え続けてきたのは、そこだった。

社会と科学技術の距離が近くなった。社会が向かう方向性は不確実性にあふれている。誰もが解をもたない。

それならば、研究者は研究者以外の人たちと一緒に社会をつくっていったらいいんじゃないのか。というのが今なんとなく思っていること。政治、経済、社会の決められたシステムの中で決められたゴールに向かって駒のように研究を続けるのが現状ならば、そのシステムをつくるところから研究者が関与していってはどうなのか。システムの向かう先について、政治も経済も社会も解をもたないのだから。

っていうはやすし。。。すみません。