この複雑な世界を複雑なまま生きることは果たして可能か
それからずっとお話を伺いたいと思っていた。雑誌の対談とか、インタビューを読んだ。色々なイベントに登壇されているのは知っていたが、機会がなくて講演を聞いたこともなかった。それが、未踏会議で鈴木健さんが登壇されるということで、去年に続いて今年も未踏会議の取材に行ってきた。鈴木健さん目当て。
未踏は、トップエンジニアの育成事業。未踏のイベントは、非エンジニアでプログラムを書けない人は人にあらず、という空気を感じるので、正直苦手。トップエンジニアは、賢い。論理的だ。効率的だ。ものすごく賢い人たちは、もしかしたらプログラムで動いているのかしら?と思ってしまうこともある。情報系研究者の取材先や友人を見ていても感じる。
でも、人間や社会はもっとあいまいなもの。論理的じゃないし効率的でもない。モデル通りには動かない。「話せばわかる」なんてうそ。だから、彼らを尊敬していてすごいなあと思っている一方で、どこかでなんかこわいなあという不安を感じることも、正直ある。だって、彼らの論理的な思想では、論理的に割り切れない、数値化出来ない、きたないアナログであいまいな世界を、蔑み、否定しているように感じるから。
でも、鈴木健さんの本はそうじゃなかった。そういうあいまいさも含めての世界なのだということを許容して、そのうえでどうしたらいいかを、エンジニアの視点で考えられていて、少し、ほっとした。
未踏会議での鈴木さんのプレゼンは、「なめらかな社会とその敵」でテーマとした「この複雑な世界を複雑なまま生きることは果たして可能か」という問いからはじまった。
人は、見たい情報しか見ない。知りたいことしか、知ろうとしない。それによってフィルターバブルが形成され、人びとの分断は広がる。それが、ネットによって情報が手に入りやすくなったはずの今起こっている問題。
SNSやニュースアプリは、そのフィルターバブルを強化し、人びとの分断を加速している。スマートニュースは北米版では昨年夏から、政治的なバランスをとるアルゴリズムを採用しているという。例えば、リベラルな人にあえて保守のニュースを、保守の人にあえてリベラルのニュースを配信する。
「2020年大統領選に向けて我々は何をすべきか」
と鈴木さんはプレゼンを締めくくった。
でも、同じ問題は、日本でも起きている。フィルターバブルの情報、ひとびとの分断。それと、政府による情報操作。もともと多様性を許容する文化がなく、また「ジャーナリズム」がない日本では、アメリカよりも情報によって多様性を担保するのが難しい。
この複雑な世界を複雑なまま生きることは果たして可能か