人間とテクノロジー

人間とテクノロジーについて、人と話したり、議論したり、思ったりしたことの備忘録

ディストピアと信頼と

昨夜エマちゃんと電話をしていて、

「信頼」が壊れた状態を作り出すことが必要なんじゃないか

とエマちゃんが言った。

そもそも、エマちゃんと私がここ半年くらいよく議論しているのが、「今がディストピア」だよね。と言う話。

ディストピア社会とは何か。個人の自由が制限された、全体主義的な管理社会、というのがひとつの解釈だろう。

そんな話を少し前にアエラで書いた。ディストピア小説が人気のわけは、今がディストピアだから、という内容。

toyokeizai.net

 

でも、「今がディストピア」というと、そんなことはない、と反論されることも少なくない。もちろん、現状認識は人によってことなるから、何が正解かなんてことはない。

一方で、「今がディストピア」を否定すること、そもそもそんなことは考えないこと、現状に満足しきっていること、そんな人が大多数の社会、それそのものが「ディストピア」と言えるのではないか、という解釈もまたできそうだ。

そうすると、大多数の人が自分の頭で考えなくなった社会こそが「ディストピア」という言い方もできそうだ。これは、「個人の自由が制限された、全体主義的な管理社会」とは矛盾していなくて、そういう管理社会においては、個人が自分の頭で考える必要もないし、考えることができなくなっていく。

じゃあ、そういったディストピアを回避するために、「自分の頭で考える」にはどうしたらいいんだろうね?と言う話から、冒頭の話につながる。

「自分の頭で考えない、考える必要がない」状態とは、現状が居心地がよくて快適で、そこに従属している状態だ。だから、現状に疑問をもたない。問いを持たない。だから考えることはない。

それを持って、現状を「信頼」している状態とする。

現状を打破するには、破壊することが思いつく。破壊とは、物理的なことばかりではない。精神的なものも含む。その、破壊の対象が現状に対する「信頼」であり、そこを壊すことで、自分の頭で考えざるを得ない状況になり、ディストピアからの脱却をして、その先を考えて作っていくことにつながるのではないか、という仮説。

でも、実はその先だってまた異なるディストピアが広がっているのかもしれない。

少なくとも、当初浸っていたディストピアは、物質的な欲求は満たされ、飼いならされていた社会であった。そのディストピアを打破して、次に向かったら、最低限の物質的な欲求を満たすことすらできなくなるかもしれない。これは管理社会とは別の意味での、生存を満たすことが困難と言う意味でのディストピアだ。

マトリックスの世界がユートピア。モーフィアスに起こされない方が幸せ。

と友人が言った。私もうなづいた。

「素晴らしい新世界」はユートピアだ。

と友人が言った。私はそれを否定できない。

それでもなお、自分の頭で考えたいんだよなあ、少なくとも自分は。