人間とテクノロジー

人間とテクノロジーについて、人と話したり、議論したり、思ったりしたことの備忘録

他人とわかりあうことなんてできないけれど、だからどうしたというのか

帰宅途中の山手線で、「なるほど」とか「そうですね」とか「わかります」とか相槌を打ちながら、コミュニケーションについて議論をしていた。

「でも、他人とわかり合うことなんてできないんですよ」と相手は言い、「はい、今私は『なるほど』と相槌を打っていたけれど、言われたことの半分も理解していないかもしれません」と私は言った。

他人のことを理解することは不可能だ、という前提にたっている。議論をしているとき、対話をしているとき、一見スムーズに会話が進んでいるように見えるときでも、相手が言っていることを100%理解していることはあり得ない。逆に、お互いに相手の言うことを何割か理解していなくても、議論も対話もスムーズに進みうる。

議論も対話も、言語という記号を媒介するコミュニケーションのひとつだ。でもコミュニケーションは言語を介するものだけではない。ひとりの人間に情報をインプットするツールは五感しかないから、五感のいずれかに働きかけることで相手に情報を伝達する。言語情報以外にも、表情、身振り手振り、声のトーン、身体の動き、におい・・・それらが五感に働きかけて、ひとりの人間の情報を、もう一方の人間に伝達する。

議論や対話は、言語によって意思や思考を相手に伝え、また相手からフィードバックがあり、それを元にまた思考し、記憶し、さらにフィードバックをするというキャッチボールだ。そこでは、一見、言語がそのキャッチボールの媒介の役割をはたしているように見える。でも、それだけだろうか。一番重要なのは、本当に言語だけなのだろうか。

言語コミュニケーションと非言語コミュニケーションのあり方についてよく考えています。議論や対話は、リアルの場で対面だけによって行われるのではない。言語情報のみのテキストコミュニケーション(メール、メッセンジャーツイッター、slackなど)、音声情報での通話(電話など)、映像と音声情報での通話(スカイプなど)と、オンラインが加わることで多様化している。

これらのオンラインコミュニケーションは、対面よりもコミュニケーションの情報量が減る。そのため、対面のほうがオンラインよりもコミュニケーションの質は良い、とするのが一般的だろう。記者のような仕事をしていると、対面のほうが情報をとってくるという点で優れていると感じることは多い。ただし、コミュニケーションの目的によっては、必ずしも対面のほうが優れているというわけではない。

たとえば、精神科の遠隔診療では、強迫性障害の行動療法は、対面よりも遠隔のほうが治療成績がいいという。強迫性障害では、手が汚いという強迫観念から1日中手を洗い続けるといった行動が見られる。この治療のために、あえて手にドロを付けて手を洗うという行動療法がある。これは、クリニックなど非日常の場よりも、自宅のような日常の場で行うほうが効果が高いという。そのため、対面よりも遠隔のほうが効果があったとも言える。

こうした、必ずしも対面のほうがいいわけではない、ということは、一般化できることではなく、ケースバイケースになるだろう。「会わないコミュニケーション」を具体的に見ていくと、その友好的な活用方法があるわけで、そういう話を書きたい。