「分人」を元にコミュニケーションを考える
数年前、分人コミュニケーションをテレコミュニケーションやVRで作る研究の話を聞いた。テレコミュニケーションのインターフェイスを最適化することで、分人を切り替えやすくするというそのアイデアは、なんとなくしっくりこなかった。
それ以来分人について特に考えることがなかったが、先週末、ひでまんたち北大出身研究者5人と旭岳での合宿で、「分人」の議論があったので、「私とは何か 「個人」から「分人」へ」(平野啓一郎、講談社現代新書)を再読。
この本での「分人」とは、「不可分」「もうこれ以上分けられない」を意味する「個人」に対する平野さんの造語で、対人関係ごとに見せる様々な自分のことを指す。
近代は、個人の人格をこれ以上分けられない単位として捉えて社会制度が作られてきた。個人の人格が分けられないといっても、人間関係において人はいろいろな顔を持つ。それは「ペルソナ」と呼ばれ、複数のペルソナたあっても自我はひとつだ、というのが一般的な考え方だ。
一方、「分人」の考え方では、そもそも唯一無二の「本当の自分」など存在しない。一人の人間は複数の分人のネットワークであり、対人関係ごとに見せる複数の顔すべてが「本当の自分」だとする。
個人は一個体として独立して存在するのではなく、他者との関係性の中で浮かび上がる。その他者との関係性がなければ、その分人は存在しないし、その他者との関係性の比重が大きくなれば、その個人の中でのその分人の構成比率は大きくなる。
上司、同僚、家族、中学の友人、高校の友人、大学の友人・・・・。それぞれ相手の分だけ、私達は分人を持つ。さらにSNS時代ではSNSごとにまたそれらと異なる分人も存在するかもしれない。たとえ、それら同士が矛盾していたとしても、それも含めてすべてが本当の自分だ。
それは直感的には当たり前のようで、現実の社会では当たり前とはみなされない。「猫をかぶっている」とか「本当の○○さんじゃない」とか言われることもある。でも、それも含めてすべて本当の自分だ。
コミュニケーションにおいては、「分人」を基本的な考え方とすると、すっと楽になることがたくさんありそう。ただ、現在の社会制度は個人をひとつの単位としていることから、どう折り合いをつけていったらいいのかしらと考えています。