人間とテクノロジー

人間とテクノロジーについて、人と話したり、議論したり、思ったりしたことの備忘録

ITと世界の分断、拡大する格差

最先端のITを理解して活用し、その恩恵を受ける人は、世界のわずかの人々なのだ、と彼女は言った。その資格を得られる人は、経済的にも文化的にも豊かな人々で、新しいテクノロジーを受け入れ、使いこなすだけの「リテラシー」を持つ。そりゃそうだ、1000万円の買い物を簡単にできる人は、そんなにいない。

限界費用ゼロ社会 <モノのインターネット>と共有型経済の台頭」(ジェレミー・リフキン/柴田 裕之、NHK出版)で、資本主義社会の発展における矛盾が指摘されていた。資本主義では、資本家の資本の増大のために、テクノロジーによる効率化・生産性の向上が導入される。だが、新しいテクノロジーの導入には投資が必要で、資本が大きくなりすぎるほど(例えば大企業など)、そのコストは膨らむ。そのため、大企業では資本家はよりレガシーなテクノロジーに固執する。特に市場を独占している場合は、社会全体で新しいテクノロジーの導入を阻むことで、自身の利権を守る。資本主義は、根源的にそのような矛盾をはらむのだという。

高度経済成長期に大きく成長した国内の大企業は、一般大衆を対象にモノやサービスを売っている。一般大衆の職場や生活には、化石のようなレガシーなテクノロジーしか入ってこようがないのだ。

「IT時代と言われたのはすでに30年前。当時の技術で出張精算の自動化くらいはできるはずなのに、未だに私たちは手入力で毎回申請している」と、出張中の羽田空港でM先生が嘆息した。

科学技術社会論の人たちは、科学技術の社会実装においては、人々の受容を議論することは多いが、経済の視点ではあまり語らない。だが、少なくとも先進国や日本においては資本主義に基づく経済システムがベースにあり、そこに乗らないテクノロジーは、社会に入ってこないシステムになっている。技術的合理性、生産性の問題ではない。ひとえに権力者の利権による。

戦後日本は、華族が廃止され、財閥は解体され、一億総中流と呼ばれ、社会階層に大きな格差はないとされてきた。「社会格差」が話題になったのはここ数年のことだが、言うまでもなく、政治・経済・社会は一部の権力者の利権によって動かされている。しかも、それは固定化している。

少なくとも、政治・経済の利権を持つ人たちは、一般大衆がテクノロジーにより豊かな生活を送ることを、目的にはしていない。どちらでもいいことなのだ、問題の本質ではない。彼らにとって重要な事は、自分たちの利権を守ること。そのために、忘れっぽい人々が覚えている限りの数年内に目立って褒められることを成し遂げること。50年後、100年後、1000年後の自分を含む社会全体のことを本気で考え取り組む権力者がどれだけいるのだろうか。

とはいえ、一部の「選ばれた人々」(利権を持つ人)自身は、最先端のテクノロジーの恩恵を享受する。だが、それと一般社会の人々がどうするかというは別のことなのだ。

今の日本は、自分が「選ばれた人々」に入るしかない。そういう社会を、格差社会と呼ぶのではないか。