「天気の子」と狂った世界を生き抜く私たち

tenkinoko.com

雨が降り続く、狂った異常気象の東京。それをして「世界はもともと狂っている」と須賀さんはうそぶく。

人は科学技術によって自然を征服し、コントロールしようとしてきたのが近代の歴史だ。だが、自然や環境はそんなに簡単に人間にコントロールされるわけではない。異常気象の報道は「観測史上初めて」という言葉を使いたがるが、たかが数十年の「観測史」で初めて観測されたということに一体なんの意味があるのか。46億年に及ぶ地球史上にとってはなんてことのない自然や環境の事象も、自然を征服したい人間からしたら予測も制御もできない「狂った世界」と捉えられているにすぎない。つまり「世界はもともと狂っている」というのは実は圧倒的にリアリティがあり、映画の中の東京のひとびとは、その狂った世界でしたたかに、力強く生きていく。それでいいんだと。

「天気の子」の舞台は東京五輪後の東京。毎日降り続く雨、狂った異常気象の東京で、祈りを捧げると局所的に必ず晴れ間が訪れる「100%の晴れ女」である天野陽菜と、家出して東京にやってきた高校生・森嶋帆高のボーイ・ミーツ・ガールの物語だ。「君の名は。」以前の新海誠作品と同じ空気感が漂う。

自分たちの行動によって世界が「狂った」と考える主人公はいかにも中二病的だ。でも、自分もアラフォーともなると、たかだか自分の行動で世界はびくとも影響を受けない、ということをよく知っている。だから、主人公の行動による世界の変化を否定し、「世界はもともと狂っている」とうそぶく須賀さんの言葉に共感をする。そうした点で、「大人」にも「(中二病的な)子供」にも配慮され、どちらの視点からでもある程度は共感できる。

終盤、主人公は世界の調和よりも、自身の感情を選択する。論理的に帰結される全体最適という「正しさ」よりも、主観的な感情による選択だ。主人公の主観的にはその自分の選択によって、世界は狂ってしまい異常気象が続き、東京の一部は水没する。それでも、その東京を生きる人たちはそれなりに生き生きと、したたかに、楽しんで生きている。それでいいのだと、そういうものなのだと言わんばかりに。

テクノロジーが発達した現在は、ロジックによって世界を構築し、コントロールしようとする向きが強い。全体最適のためにはコントロールが必要だが、それは個人の選択を全体のために向かわせる、全体主義的な息苦しさも併せ持つ。そうした主人公の行動と、その結果に対する大衆の反応は、今の社会の現状へのアンチテーゼであり、またそして多くの人たちが感じている違和感を表しているようにも見えた。世界はもともと狂っている。それをコントロールするよりも、狂った世界を生きていくことが大事なのだと、というよりも、そうするしかないのだと。