人間とテクノロジー

人間とテクノロジーについて、取材とか思ったこととかの備忘録

何でもかんでも“人工知能”って呼ばない。

 触覚研究者の渡邊淳司さんが2014年に出した本が毎日出版文化賞を受賞して、その祝賀会が先日あった。そのときに淳司さんにもらったのがこのステッカー。

「何でもかんでも人工知能って言わない」

 人工知能ブームだ。

 人工知能研究の歴史は長い。人工知能実現に対する人々の期待が高まる一方で、実際の研究や技術やそれに応えられるものではなく、がっかりされて冬の時代が訪れる、といういくつかの波を経てきた。そして今、春の時代が訪れている。

 人工知能と今のブームを知る入門には、「人工知能は人間を超えるか ディープラーニングの先にあるもの 」(松尾豊、角川EPUB選書)が最適だ。 人工知能の社会との関わりから、研究の動向やトピックスまでわかりやすくまとめた一冊だで、人工知能研究に関して、歴史的な流れから、技術のトレンドまでわかりやすい。

 そもそも「人工知能」とはなにか?

 「人工知能」の定義は研究者によってもさまざまだが、この本では「人工的につくられた人間のような知能」(人間のように知的であるとは、「気づくことのできる」コンピュータ、データの中から特徴量を生成し現象をモデル化することのできるコンピュータとしている)としている。

 なお、日本の人工知能学会のほかの専門家それぞれの定義するところでは「人工的につくられた、知能を持つ実態。あるいはそれをつくろうとすることによって知能自体を研究する分野」「『知能を持つメカ』ないしは『心を持つメカ』」「人工的につくった知的な振る舞いをするもの(システム)である」「人間の頭脳活動を極限までシミュレートするシステムである」などがある。

 あたかも人間の知能による振る舞いと同じようなことをするコンピュータと言えそうだ。

 では、そのような「人工知能」は実現しているのかというともちろんまだできていない。だが、技術的にはこれまでの壁を乗り越えるブレイクスルーが起きたと、著者は書く。

 それが「ディープラーニング」だ。

 これまでのコンピュータは、情報に意味付けをしたり解釈をしたりするために必要な「特徴」を自力で取り出すことができず、人工知能の実現への壁となっていた。一方、ディープラーニングという手法を使えば、人間の手を借りなくてもコンピュータが特徴を取り出せるようになるという。

 この技術が注目されたのは2012年。人工知能の性能を競うコンテストで、ディープラーニングを使ったトロント大学の研究チームが圧倒的な好成績をおさめたからだ。それ以降、大きな技術トレンドとなっている。

 では、壁を突破した人工知能はどこまで進化し続けるのだろうか。

 SF好きの人なら、「シンギュラリティ」の議論は興奮するだろう。シンギュラリティ(技術的特異点)とは、人工知能が自分の能力を超える人工知能を自ら生み出せるようなる時点を指す。

 著者は、「人工知能が人間を征服したり、人工知能を作り出したりと言う可能性は、現時点ではない。夢物語である」と断言する。

 一方で、情報技術は今や社会のインフラとなっている。人工知能や高度な情報技術は今後も社会の中に入ってきて、社会を支える重要な基盤となっていくだろう。

 では、人工知能が社会を変えるのか?それはものごとの一つの面でしかないのだと思う。技術が社会を変えるのか、社会が技術を変えるのか、という問いを再度考える必要があると思っている。

 淳司さんが冒頭のステッカーをつくりたくなるほどに「人工知能」という単語そのものはバズワード化していて、特にメディアで使われるときのその言葉の範囲は曖昧だ。

 言葉の混乱をめぐっては、整理をしようという個別の動きもまたある。最近、IBMは「コグニティブ」という言葉をよく使う。一般には「人工知能」と呼ばれるワトソンについても「コグニティブ」としている。また、WIRED創刊時編集長だったケヴィン・ケリーは、WIREDのAI特集での寄稿文で、「コグニファイ」という自身の造語を使っている。

 個人的には、「人工知能」と呼ぶものは広義では、インテリジェントな情報技術、というくらいに捉えることはできないかな、と思っている。研究者は目くじらを立てるかもしれないが、一般には「人工知能」「AI」という単語がすでに浸透しているし、意味としてはそのくらいで使っているのではないか。