人間とテクノロジー

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昭和6年(1930年)の曽祖父一家の引っ越し

「家計の縮小をはかるため、先祖伝来の西間門の家を去って、沼津の真砂町に移転、父の五十才頃ですので、経済的には最も困った時代と思います」

 曽祖父の三周忌に当たる1974年、その妻と7人の子がつづった「父の思い出」という小冊子の中で曽祖父の長男・喜一が記した、昭和6年(1930年)の曽祖父の家の記録だ。

 西間門の家は子供たち全員に乳母が付き女中さんが複数いる大所帯の屋敷だったそうで、そこを出て真砂町の借家に移らざるを得なかったことは、喜一らの記録を読む限り、一家没落の象徴的な出来事だったようだ。

 曽祖父の家は片浜村(当時)の地主一家の分家で、その頃には本家も傾いていたようで「当時、小作代より税金の方が多いとか、父から聞いた覚えがありますが、長倉本家の田畑の整理にも、父が大いに骨折って、本家によく出入りしていました」と続く。

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 曽祖父のキャリアは銀行業から始まった。本家が出資し経営に携わっていた駿東実業銀行(駿河銀行)に19年にわたり勤め、1917年36歳の時に独立。だが、製紙、ゴム、人造醤油など次々と会社を作っては失敗しを繰り返した。

 曽祖父の名前で国会図書館デジタルコレクションを検索したところ、書籍『千本松原』(沼津出版社、昭6)に、曽祖父について2頁書かれていた。筆者は茂野染石と言う人で、1929年2月から1930年1月まで「沼津通信」に連載したコラムから収録した書籍という。

https://dl.ndl.go.jp/pid/1175167/1/82

 その中で曽祖父に対してこう言及している。「その東洋加工紙も例の財界の好況時代には一時利益をあげ、君も其の重役として気炎を吐いたものであるが、財界の逆陣と同時に同社も解散の悲運に陥り、君も又外に活路を求むるの余儀なきに至り、各方面に飛躍を試みたが遂に其の志を遂げることが出来なかった」

 そもそも事業の才格は全くなかったようだ。『千本松原』で筆者はこう続ける。「君は其風格からして守成の人であつて創業の人でない。モット明瞭に言ふと最初から事業界へ踏み出したのが錯誤だった」。

 曽祖父は1920年の戦後恐慌で、その財産の多くを失った。「大正9年1920年)のパニックは、一朝にしてすべてを無に帰し、自分の財産の殆どと、長倉本家の財産の相当のものを吐き出して、他人の迷惑を最小限に押さえて、収拾したと思います」(「父の思い出」の喜一の記録より)。

 その後は銀行業に戻り、駿河銀行との合併のあたり、富士銀行側と加島銀行側のそれぞれに入り整理をするなどしたようだ。

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 昭和6年(1930年)はどういった年だったのか。『千本松原』は当時の沼津の経済界や文化界隈の人間模様や出来事が描かれている。「夜逃する迄」という一節にはこうある。

「夜逃げといふと、決済月の七月とか十二月とかに限られて居つたものですが、此の頃では不景気の故か、無性矢鱈に夜逃げが流行して殆ど季節知らずの感があります」。ほかに、「夜逃げした人々」や芸妓の夜逃げや没落なども描かれ、昭和恐慌の影響で庶民にとって経済的に苦しい時代だったことがわかる。

 曽祖父にとっても苦しい時代がしばらく続いた。「真砂町の借家に於ける生活は、昭和二十年(1945年)の春まで続きます。昭和十三年(1938年)五月、東洋醸造に入社するまでは、前述の土地会社や、在家の田畑の整理や、炭の売買やらやつて来たようです」(「父の思い出」の喜一の記録より)。

 1938年に57歳で東洋醸造に入社し監査役などとして21年務めた後、東洋醸造旭化成の資本参加を受け傘下に入ったことを機に1959年に78歳で退社、喜一が代表を務める会社の監査役になると同時に愛知の喜一一家と同居し晩年を過ごす。なお東洋醸造は酒造・製薬会社だが、祖父によると曽祖父は下戸で全くお酒が飲めなかったそう。東洋醸造入社の経緯は喜一の記録によると、「東洋醸造の大株主で大債権者である駿河銀行の頭取、岡野さんが、父をお目付け役として差し向けたものと、思われます」。

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 曽祖父は自分よりちょうど100年前に生まれた。100年前の人間から何か学べないかと調べてみたら、90歳で亡くなるまでの経歴をたどると、日露戦争の好況、1920年戦後恐慌、1930年昭和恐慌、第二次世界大戦、高度経済成長期など明治末から昭和の1世紀の歴史をさらってみているようで面白かった。

 国会図書館デジタルコレクションは、古い官報や経済関連記録をオンラインでも読めるので、明治以降の曽祖父の会社登記やら役職人事やらも確認できて、祖父から聞いた話や「父の思い出」の記録の裏取りもできて便利でした。

 なお、曽祖父は会社をいくつも作っては潰し、時代の影響もあったとはいえ一家の財産をすっからかんにした一方で、女子2人含む7人の子供たち全員を大学など高等教育まで受けさせ、男子はほとんどが会社経営者や学者になったので、きっと立派な人だったんだと思います。私生まれる前に亡くなっているので知らないけど。。。