インターネットディストピア
昨日、エマちゃんに会いに駒場へ行ったら、 をしていたのでふらりと入った。
マザリナードは、フランス革命直前の17世紀のフランスで宰相マザランに関連して出回った大量の文書だ。もともと、フロンドの乱と同時期に反マザランの書き手たちがマザランの批判の文書を書いたことを発端に、マザラン側の王太子妃らに対する誹謗中傷の文書が氾濫し、一方で親マザラン側はマザラン擁護の文書を書くなどして、フロンドの乱の6年間の間に5000〜6000の文書が溢れた。
文書の内容は、事実に基づいて論理的にマザラン批判するものから、虚偽の内容までさまざまで、書き手の間の党派間で対立が起こると、党派のプロパガンダのための事実の捻じ曲げも行われた。
マザリナードは8ページくらいで今の物価だと3-40円ほどで売買された。一般大衆が購読した。印刷技術の普及で、一般大衆にも知識が広がっていったのだ。だが、内容は事実かどうかといった妥当性よりも、誹謗中傷が過激な文書ほど高価で取り引きされ、王太子妃を侮辱する内容の文書は4倍もの値段がついたという。マザリナードはのちにコレクターたちの蒐集対象となったが、その際にも、過激な内容のものに高価な値がついた。
人は、見たい情報しか見ない、しかも、感情的で過激で下品で刺激的な情報を人は求める。淡々とした事実の描写よりも、感情的で刺激的な内容をあたかも事実とした情報の方がより強く拡散するのは、いつの世も同じことだ。
「インターネットディストピアだよ」
出版社で社長兼編集部長をしている元上司が、疲れた顔をしてため息混じりにそう言った。ネットが普及し、ろくな取材もせずに書かれた無料の記事がPVを集め、新聞も雑誌も売れず読まれなくなってきた。
20年前にインターネットが普及し始めた時、ネット界隈の人たちは、誰でも無料で情報を手に入れられ、自由に言論を発表することができ、知識は民主化され、民主主義がアップデートされると期待の声を上げた。
だが、実際に私達が経験してきたのは、濫造される質の悪い(剽窃だったり、デマだったり)コンテンツがPVを集めることでさらに量産され、取材や事実確認にコストをかけたコンテンツが駆逐され、「事実」が軽視される情報の流通だった。それによって、出版社や新聞社といった、コストのかかる質の高い情報を流通する企業のビジネスモデルは崩壊しつつあるのが現状だ。
welqの件は氷山の一角だし、インターネットディストピアは悪化する一方だ。
イギリスとのオックスフォード英語辞典は、今年の言葉として「post-truth」を選んだ。「客観的な事実や真実を重視しない」社会を指すと言う。Brexit、米国大統領選では、ネットやSNSに氾濫するデマ情報が結果に影響を与えたとされる。「事実かどうかは言論の構成には関係のない時代」になりつつある、いやすでにそうなってきている。
だが、そんな時代は嫌だ。事実を元に、論理的に議論ができる世の中がいい。なるべく多様な人の話を聞き、取材をし、事実に基づいて記事を書く。その後デスクと校閲さんの手が入った記事が印刷され、流通に乗る。そのようにして情報の質を保つ仕事をしてきた。私は私の仕事のやり方で全力で抵抗をする。
駒場はもう黄葉終わりかけ。きれいでした。
トランプの大統領の誕生と科学者の反応
ドナルド・トランプが米国の次期大統領となることが決まった。一般に、科学技術政策は、国の重要アジェンダとなることはあまりない(票田にならない)が大統領によって、科学研究に影響がでることもある。例えば米国では2001年にジョージ・ブッシュ大統領がES細胞への研究支援の打ち切りを決めたことがあった。
大統領がオバマからトランプに変わることでどう変わるのか。Natureに掲載された、Jeff Tollefson、Lauren Morello、Sara Reardonによるコラム「 」では、移民政策に対する科学者の懸念と、気候変動への対応の変化の2点が主に挙げられている。
以下、全訳してみた。
ドナルド・トランプの大統領選勝利に科学者たちは衝撃を受ける
共和党は、研究へのはっきりしない影響で、ホワイトハウスとUS議会を一掃する
Jeff Tollefson, Lauren Morello& Sara Reardon
2016年11月9日
米国大統領に選出されたドナルド・トランプの支持者たちは、ニューヨークで祝賀を上げるだろう。共和党のビジネスマンでありTVスターのドナルド・トランプが次のアメリカ大統領になる。科学の話題は今年の劇的で激戦となった選挙戦のわずかな一部にすぎないとは言え、多くの研究者は11月8日の選挙でヒラリー・クリントン前国務長官を破ったとして、恐怖と不信を示している。
「トランプは、我々が知る中で最初の反・科学の大統領になるだろう」と、ワシントンDCにある米国物理学会の広報ディレクターであるMichael Lubell氏は言う。「結果は、非常に非常に厳しい状況だ」
トランプは、気候変動の根拠としての科学を疑問視している。例えば、それは中国のデマだと示唆した。また、2020年以降の温暖化対策の国際枠組み「パリ協定」から米国を離脱させるとしている。
バイオ医学研究政策に関していくつか言及してきた一方で、昨年、トランプは米国国立衛生研究所(NIH)について「恐ろしい話」を聞いたと話した。彼はまた、NASAを「低軌道飛行のための物流代理店」として、米国の宇宙計画を商業ベースの宇宙産業の役割まで拡大すると述べている。
トランプの移民に対する強行な主張(イスラム教徒の米国入国の禁止、メキシコに壁を設けるといった)のために、研究支援者たちは、才能ある外国人研究者が米国内の研究機関で仕事をしたり学んだりすることを思いとどまらせてしまうのではないかと心配している。
「少なくとも、海外から米国に来ようと関心を持つ科学者を萎縮させると思います」と、メリーランド州ベセスダにある米国細胞生物協会の渉外・広報担当ディレクターのKevin Wilsonは言う。
一部の研究者は、すでに選挙をきっかけに、米国を離れることを考えている。「米国の大学で働いているカナダ人がカナダに戻るといったことを、我々はこれから目の当たりにするだろう」とジョージア州アトランタのエモリー大学で環境経済と政策を学ぶMurray Ruddはツイートした。
■数字ゲーム
トランプが選挙結果の展開を見ていたニューヨークで11月9日午前3時少し前、勝利に必要な270票を上回った。クリントンは、選挙当日までは世論調査でリードしていたが、女性、マイノリティ、大卒者の強い支持を得ていたとはいえ、トランプの予想外に好調な結果に打ち勝つことができなかった。
共和党はまた、下院と上院で議席を獲得し、議会の過半数を占めることとなった。トランプが彼の政策の優先順位と重要なポジションの候補者をプッシュするのは容易なことだ。例えば、NASAや米国海洋大気庁といった科学者組織のリーダー、また現在空席のある最高裁判所の判事もそこに含まれる。
「研究者が科学のために立ち上がることは非常に重要だ」とメリーランド州ベセスダの米国実験生物学会連合の法務部門のディレクターであるJennifer Zeitzerは言う。連邦政府資金による研究がいかにアメリカ人に利益をもたらすかをトランプ政権が理解をしていることを意味していると、Zeritzerは言う。
この選挙結果に対するソーシャルメディア上の多くの研究者の反応は、研究資金の削減が多くの懸念だ。「私は博士号取得のために、乳がんの研究をしています」とアイオワ大学の大学院生Sarah Hengelがツイートしている。「私の将来だけでなく、研究の将来が怖い」
「科学、研究、教育、そして地球の未来にとって脅威です」と、スタンフォード大学で電気化学と持続可能なエネルギーのための対話を研究しているポスドクであるMaria Escudero Escribanoはツイートしている。「私はヨーロッパに帰国すべき時だと思う」。
■気候変動に対する対応の不確実さ
最高裁判所の欠員は、オバマ大統領による気候変動に対する計画の主要なひとつの運命をトランプの手に任せることとなっている。裁判所は、既存の発電所からの二酸化炭素排出量を抑制するための規制を検討している。オバマは欠員を埋めるために、中立な候補者を指名しようとしているが、共和党はこれを防ごうとしている。だがトランプはすぐにそのポジションを埋められるだろう。彼の候補者は、まだ指名されていないが、気候変動に関する決定票を投じることができる。
彼が公約通りパリ協定から離脱するには、長い時間がかかる。法的には、彼は4年間そうすることができない。だが、トランプの選出によって、モロッコのマラケシュで現在進んでいる、パリ協定をどのように実行するか検討中の国々による交渉に影響を与えるだろう。アメリカは世界第二の二酸化炭素排出国だ。そしてオバマはパリ協定を作り上げる上で、重要な役割を果たした。
カリフォルニ大学サンディエゴ校の政治学者であるDavid Victorは、国際社会が一致して協定を維持する可能性があると指摘する。彼が言うには、一つの可能性として、中国が気候変動に関する世界的なリーダーの役割を果たすようになるかもしれないという。
Victorはまた、トランプの選出は一般に、国際関係に多大な影響を与えるだろうと言う。「アメリカのイメージをひどく悪化させるだろう」と彼は言う。「国民の約半数は、大統領として不適格な人物に投票をした」
今年もDCEXPOへ行ってきた
先週、デジタルコンテンツエキスポ(DCEXPO)へ。DCEXPOは経産省などが主催するデジタル技術の展覧会で、経産省が認定したInnovative Technologiesの展示やデモがあり、それらを誰でも無料で体験できるイベントだ。他にもシンポジウムや展示があるが、主に大学や研究機関、企業のデモを体験するのが目的で、記者1年目の時から10年連続取材に出かけている。
今年は、中国など海外の出展が増えたというのが第一印象。メイン会場入口近くの大きなブースが中国企業だったというのが印象強かっただけだけど。ただ、HTC viveとグローブ型のセンサーを使ったVRのデモだったが、精度とコンテンツが微妙だった。お花見の桜が舞うコンテンツだが、せっかくグローブ型センサーを使っているのに、花びらをつかむといったインタラクションができなかったのが不満。
VR空間で手を自由に使えるようになると、インタラクションがないと不自然で不満感が増す。
一方、NHKによる8K:VRシアターではその逆のことを感じた。視覚体験だけで満足すると、インタラクションはさほど重要ではないのかもしれない。8Kの3Dディスプレイのシアターで、3Dメガネをつけて鑑賞するが、HMDを被る必要はない。小さな映画館のスクリーンが高精細になり3Dになったというイメージだ。コンテンツはサカナクションの碧のプロモーション映像だった。
高精細の映像はきれいだ。3Dメガネをかけると、バンドのメンバーがスクリーンから前に出てきているような、距離感を感じることができた。
ただ、コンテンツの作り方には不満が残った。プロモーション映像だから仕方がないのかもしれないが、文字が浮き出るとか、3Dである必要性がないシークエンスがいくつかあった。いいコンテンツだと思ったのは、ライブ映像で、ステージ上のバンドを周囲から360度回転させた映像だった。つまり、ステージの裏からまわりこんで正面まで見られるということになる。これはリアルではまず体験できない、映像ならではの体験だ。こういったコンテンツには、適していると感じた。
もっとも、VR研究者に言わせると、これはインタラクションがないのでVRではなく8K・3Dだということだが、体験としてはインタラクションがなくても、それなりに満足できた。映画館で映画を見て、インタラクションがなくても別に不満じゃないでしょ?それと同様に。まあVRかどうかは議論が分かれるのかもしれないけれど、一般人としては、どっちでもいい。
今年のDCEXPOはHMDを被るタイプのVRが比較的多かった。HMDは現状技術としてはだいたい成熟していて企業がHMDを次々と開発する段階なので、展示はコンテンツを見せるものがほとんどだ。個人的に今のHMDは付け外しがめんどくさいし重いし使い勝手が悪すぎるので、普及するとは全く思っていない。もっと使用者の負担が軽くなるものがでてくることを期待している。
NICTの360度方向からの裸眼立体視ディスプレイ。つまりレイア姫。写真ではわかりづらいが、中心の円形の部分から立体像が出ていて、360度どこから見ても立体像が見られる。テーブルの下にディスプレイが多数並んだアレイがあって、そこから複数方向に一度に投影することで立体像を見せているそう。まだぼんやりしているけれど、ディスプレイの個数を増やせばもう少し画素が上がって見やすくなるのだろうか。
地味にすごいなあと思ったのが、星さんたちの指向性スピーカー。超音波で制御してあげることで、空間の一地点だけから音が聞こえるというスピーカーだ。写真ではライトと台の中間くらいに耳を傾けると、音が聞こえるが、それ以外の場所では全く聞こえない。
Unlimited Corridorは、高所恐怖症なのに体験してくださった石黒先生のリアクションが最高でした。仕組みを知っていて何度か体験させてもらっている私でも怖いし、最後は反射的に叫び声あげてしまうし。
現状のウェブ文化へのジャロン・ラニアーの痛烈な批判
フリー、オープンネス、知の民主化、クリエイティブ・・・
そのようなキーワードをもってインターネットを礼賛する声は多い。だが、インターネットは本当に私たちを知的に、賢くして、幸せにしたのか。この10年、それは幻想だったことに多くの人たちが気付き、民主主義をアップデートするといった楽観的な議論を書き散らしていた言論人たちは、何も言わなくなっていった。
ジャロン・ラニアーは2010年の著書「人間はガジェットではない IT革命の変質とヒトの尊厳に関する提言」(ジャロン・ラニアー著、井口耕二訳、ハヤカワ新書)の中で、現在のインターネット文化全体覆う、イデオロギー「サイバネティックス全体主義」に対して痛烈な批判を浴びせる。
ラニアーは1980年代に「バーチャルリアリティ」という言葉を最初につくったコンピュータ科学者で、ミュージシャンで、変人。そして、徹底した人間中心主義者だ。「技術の一番大事なポイントは、それが人々をどう変えるか」だという。彼が最初につくったVRのシステム「VR for 2」は、彼のお母さんとコミュニケーションを取るためにつくったのだという。
ラニアーがサイバネティックス全体主義と呼ぶのは、「オープンな文化やクリエイティブ・コモンズの世界の住民、リナックスコミュニティ、人工知能的アプローチのコンピュータサイエンスに携わる人々、ウェブ2.0関連の人々、文脈を考慮せずにファイスを共有したりマッシュアップする人々などだ。彼らの首都はシリコンバレー。その地盤は世界ーデジタル文化がはぐくまれている場所、すべてだ。ボインボイン、テッククランチ、スラッシュドットなどのブログがお好みで、旧世界にはワイアード誌という大使館を置いている」コミュニティ。要するにウェブのメインストリームにいる人たちだ。彼らは、フリーやオープンネスを推進し、あらゆるものをビット化し、固定化し、効率化し、ネットで共有する。さらにネットワークでつながったコンピューティングクラウドがどんどん賢くなり、超人間的になると嘯く。
ラニアーはいくつかの理由でサイバネティックス全体主義者たちを批判する。ひとつは、人間よりもマシン中心であること。そもそも人間はあいまいなものだ。ところがデジタルはあらゆるものをビットで切り取り固定化する。現実全てをビット化することは不可能だから、技術的にやりやすい部分だけをビット化する。その結果、人間は、窮屈な固定化されたビットの中に押し込められ、矮小化されることとなる。
もうひとつが、フリーとオープンネスは、商業メディアを駆逐しつつあることで、結果的に知的で創造性に富む文化を破壊しつつあるということだ。知的な情報を無価値化した。フリーと言えば聞こえはいいが、情報の対価を支払わないということは、価値ある情報の生産は保てなくなる。フリーとオープンネスによってクリエイティブな文化が育まれると言われていたが、現時点では概してそれは幻想に過ぎない。
ただし、本書ではこれらに対する解決策をラニアーはいくつか提示するが、いずれも歯切れが悪い。本書の発行は2010年。だが、今をもって同じ課題を私たちは抱えており、解決策を見いだせないまま、状況はさらに悪化している
iPhone7に変えた
2年以上、5sを使い続けてきたiPhoneを7に変えた。意外と重い。スマホにカバーや保護フィルムを付けるのが嫌いなのでずっと裸で使っていたが、落として割そうなのでカバーは着けた。画面のサイズは大きくなったが違和感はない。大きすぎるかと7にしたが7plusでもよかったかもしれない。
以前は携帯電話としてもiPhoneを使っていたが、今年の4月から携帯電話はガラケーに移して、iPhoneはネット専用で使っていた。仕事柄電話を使うこともまだまだあり、ネット端末と電話端末が一緒なのが使い勝手が悪かったからだ。今やiPhoneは私にとっては電話ではない。立ち歩いたまま使えるネット端末という位置づけだ。
一方で、雑誌や書籍といった長い文章を読むのは、KindleやiPad miniを使っていた。Mac bookは読みづらいし、iPhoneで長い文章を読む気にならない。
7に変えたことで、大きく変わる気がするのが、ただでさえ中途半端で週末にDマガジンを読むための専用機と化していたiPad miniを全く使わなくなるということ。つまり雑誌を読むのは、7で十分になりそうだ。実際にDマガジンで読んでみると、文字は小さいけれど読めないほどではないし、ビジュアルが多い雑誌なら十分だ。
ついでに、これまでPCと同じくWiMAXで接続していたWi-Fiを、初めて格安SIMを使ってみることにした。WiMAXの通信状態の悪いのが不満のため、docomoの回線を使えるMVNOのほうが移動中でも常にネット接続しているスマホの用途に適している。Yさんが7に変えてmineoにしていたので、真似してmineoにしてみた。月10Gで2000円台と安いし、通信状態はストレスはない。
しばらく通信環境は、ガラケー(ソフトバンク、かけ放題)、iPhone7(mineo、docomoのMVNO、月10G)、WiMAX(月7G)で使って様子見。他にネット接続するデバイスは、Macbook(持ち歩き用)、MacbookAir(自宅用)、iPad mini、Kindle(3G+Wi-Fi)、会社PC(ノートPCだけどほぼ固定利用)。
目下の悩みは持ち歩きカメラのWi-Fi接続。カメラはきれいに撮りたい時はα7、常時持ち歩き用にRX100を使っていたが、RX100が(何度めかの)故障中なので、去年買ったGRⅡを持ち歩き用にしようかと思っている。α7とRX100はソニーの専用アプリでカメラからWi-FiでiPhoneにデータ送信→Googleフォトへバックアップの連携がものすごくスムーズで便利だが、GRⅡはWi-Fi接続できるにもかかわらずRICOHのアプリが微妙すぎて、iPhoneへのデータ送信がストレスフルだ。なんとかならないのかなー。
ネクストVRを探しにVR学会へ行ってきた
14〜16日につくばで開催された日本バーチャルリアリティ学会(VR学会)へ行ってきた。
世間はVRブームで、ヘッドマウントディスプレイ(HMD)の発売が相次いでいることもあり、今年はVR普及元年とも言われている。今言われているVRは、HMDを付けて体験するものが多い。
現在のHMDはゲームをとっかかりに普及をすると見られている。VRコンテンツの多くはゲームだ。ファミ通ゲーム白書2016によると昨年の国内ゲーム市場は1兆3591億円と過去最高を記録したということなので、少子高齢化で多くの産業が縮小傾向にある中、まだ成長が期待される産業なのだろう。もっとも伸びているのは、オンラインプラットフォームで、家庭用ゲーム(ハード・ソフト)はともに減少傾向にある。HMDが普及することで、オンラインプラットフォーム、家庭用ゲーム(ハード・ソフト)共にVRゲームに代替されることは有り得そうだ。
だが、現状のHMDをベースとしたVRは、まだまだHMDの制約が大きいため、コンシューマ向けには1人1台という普及までは至らないだろう。
とはいえ、コミュニケーションの媒体としてのVRは、紙や放送(TV、ラジオ)、ウェブ(テキスト、画像、動画)といった現状普及しているメディアと比べてリッチな体験を提供できるため、普及の可能性は大きい。
HMDをベースとした現状から、VRはどのように変わっていくのだろうか。ネクストVRを知りたくて、VR学会へ行ってきた。
ちなみに、VR学会などのアカデミアのVRの研究の歴史を振り返れば、HMDの研究が盛んだったのは20年前の一次ブームのころで、その後部屋の壁がディスプレイになり、ディスプレイに囲まれた中で没入感を高めるCAVE型の研究が盛んになり、さらに、触覚などほかのモダリティを提示する研究が進められている。
VR学会は20周年で、20周年企画として若手研究者たちが20年後のVRを展望するパネル討論の企画があった。あいにくそのセッションの場には行けなかったが、あとから録音で聞いた。そこで鳴海さんが提示していた3つの問題が興味深かった。
ひとつは、VRは非リア充を救えるのか?という問題。
PSVRのコミュニケーションゲーム「サマーレッスン」では、女子高生に家庭教師をする体験ができる。ただ、体験した人の経験によって、感じることが違うのだという。例えば、ホストがこのゲームを体験したときには、女子高生がゲームの中で近づいてきた時に、実際には感じないはずの吐息を感じたという。一方、東大生は吐息を感じなかった。これを見た東大教授は、「東大生は経験がないから感じないのではないか」と解説をした。
つまり、VRでの体験は現実での経験や記憶に大きく左右される。ということは、非リアなど現実での経験が少ない人は、リア充のような体験をVRでできないのか?ということだ。
もうひとつが、VRには身体性は必要なのか?
高校生などの中には、VRと言うと、身体活動を伴わずに様々な体験ができるものだと考えている人もいるのだという。これは、「ソードアソードオンライイ」というアニメの影響ということだが、このアニメでは、脳活動を読み取ってVR世界で活動をする。つまりブレイン・マシン・インターフェース(BMI)なのだが、これを究極のVRとしているのだという。
VR研究者は、身体性が感情や認知に関わるとして、身体性こそがVRの本質だと思っていたが、実はその考え方も世代によって異なるのかもしれないという。
最後に問題提起をしたのは技術倫理について。VR体験によって、人の行動や認知を変えることができるが、使い方に寄っては悪用もできる。社会にとって良い方向に使うためにはどうしたらいいのかという問いだった。
なお、VR学会は体験展示が多く、これらを体験するだけでも十分楽しめる。コンシューマ向けのHMDが増えてきたこともあり、HMDを使った展示も多かったが、興味深いのが、電気刺激と触覚をベースとしたVRだった。
大阪大学の研究で、塩水を飲んでいるときにストロー経由で電気刺激をすることで、味を濃く感じさせるというもの。
こちらは初日のテクニカルツアーで訪れた筑波大学エンパワーメントスタジオでのデモ体験。体育館のような大きな部屋の周囲4面と床の計5面がディスプレイになっている。両腕にマーカーがついた羽根を付けてはばたくと、リフトで持ち上げられ移動して鳥になったような体験ができるというもの。
VR学会では、国際学生対抗VRコンテンスト(IVRC)の予選を開催していて、そのデモもアイデアがたくさんでおもしろい。
自動車をVRプラットフォームとした研究はいくつかった。写真NGだったが、豊田中研の一人乗り電気自動車をVRプラットフォームとした技術展示は、すでにアーケードゲームにあってもおかしくない。
VRとは、現実のエッセンスだと言われる(「バーチャルリアリティ入門」舘すすむ著)。うまく知覚や認知をだますことで、リアリティを感じるのがVRだ。つまり、VR体験のコツは、自ら積極的に騙されに行くこと。
ストーリーや文脈が明確だと騙されやすく、その分リッチなVR体験をできる。
このデモでは、右耳からジェリービーンズや牛乳、虫を入れると、頭の中を貫通して左耳から出てくるという、ありえない体験ができる。正面のディスプレイとヘッドフォンという視覚と聴覚の情報に加えて、ヘッドフォンに付けた筒を使ったストーリーだけで、錯覚を起こさせている。オペレーターの学生さんのガイダンスがストーリーをうまくつくってくれる。
学生さんたちのストーリーづくりがうまかったのがこのデモ。オリンピック閉会式の「安倍マリオ」のように、地球を貫通してブラジルに到達するというストーリーだ。なお、企画をしたのはオリンピックの前ということで偶然の一致だったそう。学生さんたちの力仕事と、みんなで声を合わせて中継をしてくれる演出が素晴らしく、本当に地球を貫通したかのような気分に、、、まあなる。
で、ネクストVRはなんなのか。想像できるのは、HMDはより簡易になり、触覚などほかのモダリティが提示されるようになり・・・というのがハード面の進化だろう。ただ、より人間の認知や行動に働きかけるような、特定のハードウェアに依存しない、当たり前の概念になっていくんじゃないのかなあ、という気がする。
VRメディアが(いつの間にか)たくさんできていた
メディアから社会の流行り廃れを感じ取れる。VRについて言えば、ウェブメディアのリクルート主催のTECH LAB PAAK主催のイベント「VRメデイアサミット」では、合計8のVR関連のメディアが紹介されていたが、すべて2014年以降、うち5つは2016年のローンチということだ。ここ数年のVRの盛り上がりが感じられる。
と は前から見ていたが、いつの間にか雨後の筍のようにVRメディアが増えていたようだ。言うまでもなく、ここ数年のVRブームは(比較的)安価になりコンシューマ向け製品のリリースが相次ぐHMDが牽引している。VRというとHMDを指すこともあるという。今で言うVRは実質HMDそのもの、それを使ったコンテンツ、サービスのことだと言っていいだろう。
HMDを使うコンシューマ向けのコンテンツ、サービスは、ゲーム、教育、医療、不動産など多様な業界で期待されている。期待「は」されているというべきか。
HMDを使うVRは、製造現場などエンタプライズ向けはともかく、コンシューマ向けはゲームとアダルトがメインの市場になるけれど、その先への移行は難しいのでは、というのが現時点での個人的な所感。HMDを使ってみたことがある人なら、そのめんどくさささ、頭にかぶる苦痛は、よっぽどのメリットやインセンティブがないと無理だということは、わかるだろう。
VRはおもしろいし、その可能性を感じている。ただし、HMDというデバイスが必須である以上、それ以上には広がらないとも思っている。一方で、Google glassやHololensのようなシースルー型はもう少しは可能性はあるのかもしれないが、現状はまだ視野が狭いとか値段が高いといった普及への壁が大きい。
VRアミューズメント施設のVRゾーンへ行ってきた
お台場はダイバーシティにある、バンダイナムコが期間限定で設置している「 」へ行ってきた。VRを体験できる場所はイベントなどであまたあれど、「お金を取って」アミューズメント施設として提供しているところはまだ少ないだろう。
VRゾーンへ行くにはまずサイトから事前予約をする。1か月後まで予約できるが、週末は埋まっていることも多い。予約の枠は1時間半で、その時間内に、VRゾーン内にある8つのコンテンツをそれぞれ好きなように楽しむという仕組みだ。
予約した時間にVRゾーンへ行くと、まずシステムの説明を受ける。機械でバナパスポートというカードを300円で購入し、別の機械でチャージをする。それぞれのコンテンツは1回の体験が700~1000円で、体験するときにバナパスポートをかざして支払をする。
この日私が体験したコンテンツは2つ。8月末から新たに加わった「ガンダムVRダイバ強襲」と「高所恐怖SHOW」だ。いずれも1000円で体験時間は7~8分。ガンダムは少し並んだが、平日昼間だったこともあり、ほとんどのコンテンツは並ばずに体験できていた。
「ガンダムVRダイバ強襲」は、ダイバーシティの正面に立つ実物大ガンダム像がモチーフになっている。
これです。
VRヘッドセットとヘッドフォンをかぶり、腰に命綱をつけて、コンテンツがスタート。VR空間ではダイバーシティ前の様子が再現され、実物大ガンダム像の前に自分立っている想定になっている。そこに、ザクがこちらに向かってきて攻撃をしかけてくる。すると、ガンダムが動き出して左手を差し伸べてそこに乗るように促される。
ガンダムの手の中に座って、指をつかんでいるところ。実際にはシートに腰かけて手すりをつかんでいるわけだが。
ヘッドセットの映像、ヘッドフォンの音響のほか、床面の揺れ、ガンダムの手(座っている部分が手のひらで右側の指に捕まってる)の揺れ、ガンダム近くのヒーターと、視覚、聴覚、体性感覚、熱とフルの刺激でかなりのリアリティ。
なお、腰につけている命綱は、スタッフさんが握っていてくれるが、これが案外重要なようだ。以前、VRゾーンの担当者の方のお話を伺った時に、「高所恐怖SHOW」を体験していたお客さんが、VR空間で高い建物の上にいる場面を体験している間に、現実で前へ向かってダイブしてしまい、命綱がその名の通り命綱として機能したという。VRヘッドセットをかぶると、それだけ没入感が高く、VR空間と現実が区別がつかずに行動してしまうのだという。
その「高所恐怖SHOW」も体験してきた。VRヘッドセットとヘッドフォンをかぶると、ビルの1階からエレベーターに乗って上の階まで上がるところから始まる。エレベーターがひらくと、そこは一枚の板が空中に突き出ている高所。板の先には子猫がいて、子猫を助けて戻ってきてくださいというアナウンスが流れる。
実際には、このような板の上をヘッドセットをつけて歩く。
高所のネコは、右手に持っている黒い物体がネコで実際のモノを持ち上げて運ぶんだけど、重過ぎ硬すぎでネコっぽくないのが残念だった。
右手に持っているモノは、VR空間では子猫として見えている。
ともあれ、素晴らしいのはスタッフの方たち。平日昼間で空いていたのもあるかもしれないけれど、質問したら丁寧に答えてくれたり、ご自身のVR体験をお話ししてくださったり、VRゾーン愛に溢れていた。VRは技術だけど、VRゾーンは技術が一見目立つけど、アミューズメント施設としてお客さんを楽しませることがメインというスタンスが良かった。技術すごいでしょVRデモに飽きていたので…。
VRゾーン行かれる方は、混んでいなければスタッフの方たちとお話ししてみるとより楽しめると思います。
ファッション×テクノロジーが気になっている
ファッションをずっと取材しているOさんは、ファッションの取材を通じて社会の動きを見たいと言う。去年くらいから、「ファッションテック」というキーワードを聞くようになった。ファッションとテクノロジーを組み合わせた造語で、レガシーなファッションの業界もまた他業界と同様に、テクノロジーで変革しつつある流れを感じる。
伊勢丹新宿店本館2階では、「未来解放区万博」として、テクノロジーによるファッションの変化のコンセプトを展示している。若手デザイナーのブランドの服たちが陳列される中で、テクノロジーがちりばめられている。
例えば、このiPadでは、ブランドのコンセプトムービーが流れている。各ブランドの商品が陳列してあるハンガーラックに近付くと、そのブランドのムービーが流れる。
実際使ってみると、電波をうまく受信できないのか、動きがあまりスムーズではないのが気になったが、コンセプト展示なので仕方がないだろう。
こちらはHTC viveを使い、VR空間であたかもショップにいるかのように服を選べるシステム。体験してみました。VRヘッドセットをかぶって、両手にコントローラーを持つ。360度全天周のVR空間では遠方ではブランドのPR画像が表示されており、近くには、ブランドの服を着たトルソーがある。トルソーの周囲を歩き回って、服の全体を見ることができ、コントローラーで服を触ると服の情報が表示される。
ネット通販に便利だろうな。個人的には、最近はショップで服を見ても、だいたい買うのはゾゾタウン。(本屋さんで本を見ても、買うのはアマゾンと同じく・・・)
説明してくれた方が、「ファッションとテクノロジーというコンセプトに、これが最も近い」とおっしゃっていたのがこちら。
ファッションロボットクリエイターのきゅんくんが作る、ファッションロボット。スマホのアプリで操作して動かすこともできて、アンバランスな動きがかわいらしい。
一般にロボットを言えば役に立つことを求められるが、きゅんくんのロボットは、役に立つとはほどとおい。純粋にファッションとしてのロボットだ。
「ビッグデータと人工知能 可能性と罠を見極める」(西垣通、中公新書)
メディア報道では少し前は「ビッグデータ」、最近は「人工知能(AI)」という単語がさかんに使われ、バズワードとなっている。バズワードとなったテクノロジーは、多くの場合その明るいメリットが強調されるかもしくは将来人類に不利益を与えるとする「脅威論」によって、ブームを煽り、注目を集める。
は、それらのブームの狂騒、特に脅威論に対して釘を差し、今考えるべきことを提示する内容となっている。
著者の西垣通氏は、1980年代は東大工学部から日立製作所のエンジニアとして、当時第二次ブームと言われた人工知能の研究開発に関わっている。その後、人文社会科学のアカデミアの世界に転じ、東大情報学環教授などを務めて退官後、東京経済大学で教鞭をとる。著書「基礎情報学」「続・基礎情報学」では、いわゆる「理系」「文系」両方にまたがる情報学を定義している。
新書らしく、テクノロジーに詳しくない人でもわかりやすく、理解が進むようになっている。まず、ビッグデータおよびAIの技術の現状とその意義について、わかりやすく簡潔に紹介される。
その上で、「2045年にAIが人類を超えるシンギュラリティが到来する」「AIが雇用を奪う」といった技術決定論的な脅威論に対して、「生物と機械のあいだの境界線とはいったい何か?」という問いに答えていくことで、反論をする。理論的考察として、1950年代にウィーナーが提唱した古典的サイバネティクスをのちに進化させた、「ネオ・サイバネティクス」にもとづいて、自律システムである生物と他律システムである機械を区別する。
ところで、今のAIブームが始まって少ししてから、ここ1—2年の間に、今またサイバネティクスについて聞くことが増えたように思う。サイバネティクスでは、生物と機械を一気通貫または比較して考えるが、「理系」的な視点と「文系」的な視点の両方を持ち合わせている。それらの融合が、今のAIブームの重要な論点のように感じている。
シンギュラリティをもたらすとされる汎用人工知能(AGI)に対しては、脅威を振りかざして注目を集めて研究を進めようとするに過ぎないと、ばっさりと斬った上で、むしろ、「脅威」は人工知能に対してではなく、開発する人間側の問題であると指摘をする。
表向きは大魔神である汎用人工知能の権威を振りかざしながら、支配層はその部下であるプログラム開発者たちが、裏でこっそりと自分たちに都合のよい目標を、汎用人工知能の内部パラメータとして組み込むかもしれない。(中略)こうして、コンピュータを人間に近づけるという名目のもとに、実はコンピュータを介して人間を奴隷に近づける計画が巧みに進められていく。
ビッグデータやAIといったテクノロジー分野は、いわゆる「理系」(理系・文系という区別は、もともとは大学受験科目で数ⅢCの選択の有無の違いに過ぎず社会人になっても使われるのはナンセンスだと思っているので個人的にはあまり好きではないけれど、どういうわけか社会人がやたらと好んで使う表現なので仕方ない)と思われがちだが、これらのテクノロジーの研究開発や活用には、人文社会科学的な思考や視点が欠かせない。本書ではところどころで、その点が強調される。
たとえは、AIの第二次ブームと言われた1980年代に始まった、通産省(当時)が10年間で500億円以上かけて取り組んだ「第5世代コンピュータ」プロジェクト。ここで開発された成果はその後使われることなく、一般的には失敗だったと言われている。その根本的な原因は、人文社会科学的な視野を欠いていたことにあると、本書は指摘をする。
根本的な原因は、プロジェクト当時の関係者、とくにリーダーたちが、知識や論理、そしてとくに言語コミュニケーションというものに対する洞察を欠いていた点にあるのだ。(中略)そういう言語哲学的な難問から目をそむけ、ひたらすら並列推論マシンの実現というコンピュータ工学的な技術課題にとりくんだことが、失敗をもたらしたのである。いわば、あさっての方向にスタートを切ってしまったわけだ。
この指摘は非常に重い。哲学的な問いを考えず、「ひたすら技術課題にとりくむ」のは、多くの研究開発の現場で見られる光景ではないのか。
本書では課題を指摘するだけではなく、最後の章で、ではどうするべきなのか簡単に提示をしている。それが「集合知」「人間と機械の協働」といった視点だ。
これまで一部の専門家の間だけで閉じられてきた知識は、インターネット時代には、誰でも入手できるようになった。そこで知の民主化が進むと、これまでも知識層は描いてきた。本書でもその考え方を踏襲している。ただ、少し物足りなさを感じた。わがままを言うなら、その先を読みたいと思った。
モーニングの新連載「アイアンバディ」に見るロボット研究
今日発売の「モーニング」の新連載「アイアンバディ」(佐藤真通)は、ヒューマノイドロボットを作るエンジニアのマンガだ。現実のロボット研究のネタがモチーフになっている場面もあり、取材でよく知っているロボット研究者たちの顔が浮かんで、胸熱になった
マコちゃんは大学卒業後立ち上げたロボットベンチャー「西真工業」で二足歩行ロボット「ロビンソン」をひとりで開発中。ロビンソンは二足の脚の上にコンピュータとバッテリーを含む大きな体幹があるが、頭部はない。東大JSKで浦田さんが開発した浦田レッグがモチーフのようでもあるし、ホンダのASIMOの前身であるP2のようでもある。
上は、東大JSKで開発した脚が強いロボット、通称「浦田レッグ」のデモ。
ホンダのP2の紹介動画。1997年のもの。
マコちゃんは下町の工場に場所を借りていたが、家賃滞納で追い出される。出資先をもとめて、ロボティクス・エキスポに出展する。そこでは、かつて一緒にロボットベンチャーを起業した椎野は三帝ロボティクス社で油圧式のヒューマノイドロボット「アレキサンダー」を発表して喝采をあびている。
アレクサンダーが阿波踊りを披露するのは、HRP-2のデモを思い出す。油圧式ヒューマノイドロボットといえば、Googleに買収され、TRIに売却されようとしているボストン・ダイナミクスが開発したAtlasそっくりだ。Atlasが公式ロボットとしてつかわれたDarpa Robotics Challengeがモデルと思われる国際ロボット大会の描写もある。
上は民謡を踊るHRP-2。HRPは、通産省の国プロで開発された。
今年2月に公開された新型Atlas。DRCのときはもっとメカメカしくて怖かった。
油圧式のアレキサンダーに対して、ロビンソンはモーターで強い力を出せる。そのために、水冷式モーターと大量の電流を流せるドライバーモジュールを使うが、これは浦田レッグと同じで、その後SCHAFTのロボットに採用されている。なお、SCHAFTの1号機はボディが赤色で、水冷式モーターの水も赤色に着色していた。
ロビンソンの脚の強さを示すために、マコちゃんがロビンソンの脚をバットで打っても倒れないという場面は、ボストン・ダイナミクスが動画でAtlasをホッケーの棒?で打つ場面を彷彿させる(Atlasは倒れるが、自力で起き上がる)。ちなみに、浦田さんは浦田レッグのロボットの動画で、ロボットの脚を蹴飛ばしても倒れないというデモをしている。
「二本足ロボットのベンチャーは日本ではやっていけねーんだ。技術だけで金が集まるなら誰も苦労しねーんだよ」と椎野はマコに言う。
そんなことないし、重要な事はもっとほかにある。SCHAFTの中西さんたちを見ていて、そう思った。
DRCtrailの時のSCHAFTの紹介動画。
ポケモンGOと、東京という特殊空間
「うちの職場やまわりでは、全然ポケモンGOって聞かないよ。でもFacebookを見たらみんな書き込んでいるでしょう」
昨夜、地元で医師をしている中高の同級生がそう言った。学会などの出張で東京にはしばしば来ているが、「東京に行くときは、外国に行くような気分。ぜんぜん違う街」と言う。例えば電車や地下鉄の改札。地元ではまだまだ切符を買う人が多いという。東京ではほぼ見かけない。地元は人口200万人以上のそれなりの大きな都市だが、都市の規模の問題ではないらしい。
東京に住んで仕事をしてると、金曜にポケモンGOがリリースされてから、街の様子が変わった、と言う人が多い。スマホを持って街にいる人たちが増えたことだ。筑波大の方たちの調査では、1年前と比較して秋葉原でスマホを持って歩いている人は3倍に増えたという。(もっとも、知り合い曰く、ポケモンGOをやるには立ち止まらざるをえないので、実際は歩きスマホよりも立ち止まりスマホが増えたのかもしれない)
実際、自分の体感も同じだ。職場でポケモンGOが話題になる。街を歩けば、スマホをのぞき込む人が多い。夜でも2人連れくらいでスマホを片手に散歩をしている人が増えた。SNSを見れば、TwitterもFacebookも、ポケモンGOの投稿がTLを占めている。株式市場の動向、報道も含めて、「ポケモンGO狂騒曲」といった状況がここ1週間くらいの間に起こったこと。
でも、東京以外で同じ現象起こっているのかどうか、わからないし、おそらくそうではないだろう。ポケモンGOは、Ingressがそうであったように、人口やプレイする人が多い場所のほうが楽しめるという地域性を持つ。東京と地方は事情が全く異なる。
ポケモンGOは、Windows95がインターネットを普及させたように、新しいパラダイムをもたらすものだと言う人もいる。ゲーム、AR、コンテンツ、複数の要素が複合的にあいまったとはいえ、テクノロジーが普通の人間の行動を変えた。また、それによって、ARというテクノロジーが一気に一般化した。
昨夜の会話ではっとしたのは、東京にいる自分たちは、東京のトレンドは全国のトレンドだと思いがちだが、それは実際は全然違うんじゃないかということだ。
もともと、マスコミや出版などメディアの企業が集中する東京は、地方への情報発信の発信源だ。だから、東京で起こっていることは、いずれ地方にも広がり一般的な現象になる、というのは正しい部分もある。だが、東京で自分たちが見聞きしたこと、ニュースの報道、それらが全てじゃない、と思うことは案外忘れがち。
ポケモンGOを3日間やってみた
Tech crunchのリーク報道で水曜に日本リリースといわれたポケモンGO。公式が何も言っていないのに勝手に「延期」されたことになっていたが、金曜にようやくリリースされた。Twitterが騒がしくてリリースを知り(当初はAndroidのみ)、その後iPhoneでもリリースされて速攻DLした@会社。ITやゲームに興味がある人が皆無の編集部だが、ポケモンGOはさすがに話題になっていた。
自分はポケモン世代のはずだが、ポケモンをほとんど知らない。それどころか普段ゲームをやらないし子供の頃から今までゲームをちゃんとやった経験がない。でも、これはゲームではない、歴史が変わる社会現象の立ち会いだと思い込み、あわよくば、なにか仕事の企画にできれば、ととりあえずやってみることにした。
お昼、会社付近を歩いて近所のうどん屋さんにお昼を食べに行って会社に戻るまでにはレベル4になった。バトルをするジムへ行けるのはレベル5以上。5を超えたら除いてみたが、夜は、学会でこちらにきているTwitter友達(取材先?)と食事で、新宿に移動するまでに、ひと駅分歩くなどで、早くもレベル7に。
久しぶりに会った友人に開口ひとことめが「ポケモンいた!」。新宿は、ポケモンの出現率が高かった。飲み会中も、あちこちにポケモンが出てくる。5人中自分含む2人がすでにポケモンGOをやっていた。
飲み会中にポケモンGO。
ということで、飲み会中にレベル8に。iPhoneの電池がなくなり、友人のPCで給電してもらう。
二次会を経て帰路へ向かうは12頃。近所を2駅ほど歩いたら、この時間に、2人連れ、スマホいじる人たち何組かとすれ違った。同年代の人たちかしら。
2日目の土曜。午前会社へ行く途中、また余分に歩いてレベル10に。午後、打ち合わせで秋葉原に向かうと、ポケモンだらけ!!!ヨドバシ前でたむろするポケモンGOをやるひとたち。
夜は、友人と食事。すでにiPhoneの電池なくなりかけでポケモンGO出来なかったが、布教活動は実施。この日は結局レベル12に。
3日目の日曜。原稿とか資料作りとか作業をするのに、わざわざ秋葉原へ向かう。ヨドバシや、UDX向かいのマックなど、いくつか人が集まるポイントがある。ポケモンがよく出てくるとか、ジムがあるとかで。お昼前までにレベル14になり、なんとなく飽きてきた。
CP1000超えのポケモンを持つようになったのでジムで勝てるようになってきたが、うーん、勝って何か意味があるのかしら。このバトルの意味がよくわからない。収集も飽きてきた。
というのが個人的にやってみた感想だが、社会現象としてはとてもおもしろい。この3日間で、人の動きが変わった。少なくとも東京では。地方では、そもそもポケスポットがなかったりポケモンが出てこなかったりというところもあるみたいなので、都市のゲームなのかもしれない。
嗜癖の研究
じょんひょんさんに誘われて行ってきた、
の がおもしろかった。何年ぶりかに通ったキャットストリートからくねくね道に入って、若いねー、おしゃれだねー、と年寄りじみた会話をしながら展示会場まで道に迷った所で、鈴木さんに遭遇。建物外の細い階段を4階までのぼってたどりついた、かわいい箱のような展示スペースに入るなり目に飛び込んできたのがこちら。
写真だとわからないけれど、つぶつぶが浮き出ているように、立体に見える。
近くで見るとこんな感じ。つぶひとつひとつが透明のレンズになっていて、その裏側が鏡になっている。その光学系の仕組みで、あたかも立体のように見える。ひとめで引きこまれて、なんだこれおもしろい、触ってみたい、と思った。
つぶつぶがたくさん。気持ち悪い。でもさわりたい。なんか気になる。そんんな、気持ち悪いけれど、中毒になる作品が並ぶ。
鈴木さんはアーティストでプログラマーでエンジニア。彼は、アーティスト活動を、「趣味」「研究」という。ご謙遜でしょう、と言いたくなる。でも、作家としての活動を「研究」というのは、素敵だ。
学生時代、廣瀬研に所属をして書いた修士論文のテーマは、嗜癖の研究。生きるのに不可欠じゃないけれどやってしまう、嗜癖。その意味を探求する。
今回の個展のテーマは「ムダなルール」だ。仮面もまた、嗜癖の研究から広がっているようだ。
個展は24日まで。注目したい作家さん。
フィルターバブルの中を生きている
中立公平だとか、メタにものごとを見ているとか言ったって、私たちは常にフィルターバブルの中を生きている。「フィルターバブル」は、ネット検索などでアルゴリズムが最適化された結果、自分に近い、潜在的に望む情報にしかリーチできなくなり、あたかもフィルターに覆われた泡の中に閉じこもってしまうかのような状態を言う。
5SNSで紹介をしていた。報道メディアの人間にとっては、参院選の実施を知らない人がいることが驚きだが、それもフィルターバブルにすぎない。誰もが新聞を読んでいるわけじゃないし、ニュースを見ているわけじゃない。
。新聞記者の友人がインターネットはフィルターバブルを加速はしたけれど、ネットがない頃でも、人はフィルターバブルから逃れられない。人間はそもそも見たいものしか見ない。聞きたいことしか聞かない。知りたいことしか知ろうとしない。という無意識の性質がある。
先週の無限回廊VRの体験会は、楽しかった。無限回廊VRは、 、要するにバーチャルリアリティ(VR)の新しい技術。体験会はクローズドで、参加者の多くはVR関係者だ。体験会に併設してLTと知見共有WSがあったり、原田さんの講義があったり、参加者が持ってきたHoloLensを体験させてもらったり、室内にもともとある光学迷彩や超音波のデモを体験させてもらったり、下手なイベントよりもずっと楽しい。おそらく、主催者や参加者らともともと共有しているものごとが多いからこそ、楽しめた。
でもその楽しさは、フィルターバブルの繭の中の、ある種の心地よさもあるのかもしれない。
私は研究者でも開発者でもない。ただのライターだ。取材は、いつもアウトサイダー。彼らの人生のある一点を覗き見して、サラッと一部をかっさらって、字にするのが仕事。でも、一部の取材先とはある一点じゃなくて、線だったりたくさんの点だったり、付き合いが長くなることも、増えた。もちろん、それによって見えてくることもあって、そうやって長期的な俯瞰した視点をもって字にすることもまた、仕事。
一方で、そうやってインサイダーとアウトサイダーの中間のような位置に立った時、彼らの中にいるのが心地よいのは、フィルターバブルなんじゃないかと、どこかで引け目がある。
そうじゃなくても、自分は常にどこかで居心地のいいフィルターバブルの中にいるのだということを自覚している。でも私は自分の足で出かけて行って、自分の目で見て耳で聞いて手で触れて全身で感じて、いろいろな人たちと話し、本を読み、少しでもフィルターバブルの外へと手を伸ばそうとする。たぶん、それが記者としての矜持で、それがなくなったら、記者じゃなくなるんだろうな。