人間とテクノロジー

人間とテクノロジーについて、人と話したり、議論したり、思ったりしたことの備忘録

「日本のルィセンコ論争」(中村禎里、みすず書房)

※昨年、特定の人に読んでもらうために書いたもの。

 

日本のルィセンコ論争 (みすずライブラリー)
中村 禎里
みすず書房
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 ルイセンコ事件をご存知だろうか。1930年代のソビエト連邦で、独自の遺伝学説を唱えた農学者のルイセンコをソ連政府と共産党が支持し、その学説にもとづいた農業政策を推進する一方で、ルイセンコと対立する正統派の遺伝学者らを追放した事件だ。

 ところが、実際は農業生産の拡大に繋がらず、ルイセンコは60年代に失脚。ルイセンコの学説も否定される。ルイセンコに対立する遺伝学者は追放されたため、ソ連の生物学は大きな打撃を受けることとなった。

 そのため、ルイセンコの名は、「トンデモ」学説が政治とイデオロギーと結びついた悪い事例として、科学史の中では扱われることが多い。

 ただし、科学は常に大きく進歩し続けている。人の全ゲノムを数時間で読めるようになった今となっては、ルイセンコ学説は「トンデモ」に見えても、ワトソンとクリックがDNAの二重らせん構造を明らかにする以前もそうだったわけではない。本書は、ルイセンコ学説の是非をめぐる、日本の学者らによる「ルイセンコ論争」の詳細な記録だ。科学的知見と技術の限界から実験によって明らかになっていなかった生命現象に対する理論構築による飽くなき探究の一方で、科学者としての謙虚さを失ったことによる大きな誤謬の様子がわかるのが興味深い。

 ルイセンコは、後天的に得た形質である「獲得形質」も遺伝するとした説を唱えた。モルガン・メンデルの学説に基づく正統派遺伝学では否定されている考え方だ。

 ルイセンコ派の八杉竜一は「ルイセンコ学説は2つの点で革命的である。第一に形態を機能と切り離すことなく、ともに遺伝性の概念にふくませていること。第二に、生物と環境との関係を定義の中に入れていること」と言う。飯島衛は、ルイセンコ学説は細胞説の否定であり、全体論だと指摘した。

 ルイセンコがユニークだったのは、生命現象を理解するために、生物の機能に着目したという点だ。ルイセンコは生物の本性を、物質代謝の型とした。一方で、モルガン・メンデルから続く正統派では、生物の形態に着目して遺伝の研究していた。もっともこれは、生物の形態を指標にして調べるしか当初は手法がなかったためだが。

 つまり、細胞という要素に分解して深掘りして理解しようとする、要素還元主義の一般的な科学の手法に対して、ルイセンコはより高次から全体を通して機能をも理解することで生命現象を明らかにしようとしたのだ。

 ただし、ルイセンコは代謝過程のうちで当時の技術的に追求しやすかった生化学的アプローチをとったが、実際に機能を理解して高次の生命現象を追求するには、大きな隔たりがあった。そのため、ルイセンコ学説は実験による裏付けのない「トンデモ」となってしまったというわけだ。

 実際の実験と理論の乖離を見定められなかったルイセンコおよびルイセンコ派の学者たちには、謙虚な態度で対象に望むという科学者としての態度が欠けていたのは大きな問題だろう。

 だが、生命現象および自然現象そのものを理解したいという欲求と、要素還元主義の乖離による飛躍の罠は、科学者であってもなくても、常に身の回りに潜んでいる。

 現在の科学技術の研究では、分野をまたぐ学際研究が活発に行われている。例えば、日本政府が力を入れている再生医療ひとつをとっても、分子生物学、発生生物学、遺伝学、バイオインフォマティクスなど多岐に渡る分野の知識とアプローチが必要だ。科学誌ネイチャーにも論文が掲載されているある著名な再生医療研究者は、「要素還元的アプローチにはすでに限界がある」と言い、細胞などの要素だけでなく、それらの相関関係やコミュニケーションに着目して研究をしている。

 こうした、従来は要素を分解して深く掘り下げて研究されてきた分野を横断的につないで、全体を俯瞰し、生命現象や自然現象を理解しようとする試みは、むしろ現在では主流派になりつつある。このときに、知りたい全体像と技術的な限界とできることの見極めをする謙虚な態度は同様に重要だ。一歩間違うと、「ルイセンコ」になりかねない。

 もっとも、本書を素直に読めば、ルイセンコ論争を不毛な議論に終始させた、日本の学者らへの批判とそこから教訓を得ようとする態度が主題だ。

 論争に参加した学者らは、生物学上の学説とそれを政治利用するソ連政府の科学行政に対する批判的態度を欠いていたと、著者は批判をする。その上、論争は理論とイデオロギーにこだわるあまり、追試実験をしてルイセンコ学説を確かめるという作業を怠ることで、科学者としての責任も放棄してしまった。

 なお、あとがきの後を読むと、それまで読み進めてきた本書の印象は180度変わる。本書の初版はルイセンコ論争から数年後だが、初版から30年後の再版に際して著者が寄せた文章では、「ルイセンコ」になるかもしれなかった著者の告白が綴られている。著者は、ルイセンコ論争の観察者・記録者でありながら、当事者でもあったのだ。

 科学者にとっても非科学者にとっても、多様な情報があふれる複雑な社会の今だからこそ読む価値があるだろう。
 

「倫理」ブームと、「そもそも」から考えるということ

なんだか一部界隈で、「科学技術と倫理」というお題目がブームになっている。ここで言う「倫理」は、生命倫理環境倫理、情報倫理のいわゆる応用倫理とは少し異なるように見える。倫理、といってもESLI(ethical social legal issue)全般を含む。もっと言えば、「科学技術と社会のあり方を考えよう」といったばくとしたものだ。

なお、ブームになっている、というのは、情報の流れもあるが、いろいろなところで予算がつくようになった、ということ。情報、人の動きを加速するのは、結局はカネだ、この場合は政府の予算。

行政のカネの流れをみていると、ここ最近の「倫理」ブームに火を付けたのは同じくブームになっている人工知能だ。人工知能とシンギュラリティ、労働と雇用の問題、自動走行でのトロッコ問題と、「倫理」を考えよう、と声が出てきたのがここ1−2年。

「倫理」、というとまず、人文社会学系の研究者の領域だと考える。さあ「倫理」をやろう、となり、政府(科学技術政策の場合はだいたい文科省)は情報科学系(人工知能からの)といわゆる「倫理」に関する調査研究の予算を付けた。そして「倫理」をうたう研究者やプロジェクトが雨後の筍のように出てきて、(一部界隈で)猫も杓子も倫理と言っているというのが現状だと、観察している。

でも、それ自体はいい取り組みだと思う。情報化によって産業構造が変わりつつあり、それによって働き方や社会構造の変革も求められている中、情報技術と人間、社会のあり方をそもそもから考える、というのは、今求められているのは確かだ。

「そもそも」から考える。というのは現状の否定の含む。

だが、政府が予算をつけるということは、それが政策の推進を助けることで政府の安定化に貢献する、という大きな枠組み設定がそもそもにあるわけで、暗黙の了解として考えることができる範囲は決まっているようだ。

というのを強く感じたのは、先週末行ってきたある研究会。それは、先端的なテクノロジーの研究と、「倫理」についてそれぞれの研究者が発表し、議論をするという会だった。「倫理」側の専門家として、いわゆる科学技術社会論STS)分野の研究者3人が発表をした。

3人の発表を聞いて、奇妙に感じたのは、政治や経済の話題がほとんど出てこなかったこと。社会とか、市民とか、パブリックエンゲージメントといったキーワードは散りばめられているのに。

社会は、政治と経済の枠組みの中で、私たちは日々さまざまな活動をしている。だから、マスコミのニュースの多くは、政治と経済、それに事件などの社会のトピックスで構成される。それにもかかわらず、科学技術の研究者が「科学技術と社会」といったときに、政治や経済の話をする人ってほとんどいないよね、という話。

科学技術と社会のことを考えると、(1)現状の政治と経済の枠組みの枠内で最適化、またはハックする、(2)現状の政治や経済の枠組みを変えるような価値観を作っていく、の2通りがあると考えている。

で、あとからEちゃんとチャットをしていて、納得した。この日のイベントで研究者らが言う「科学技術と社会」というのは、「調整型」のことを言っているのだ、と。上記で(1)(2)に分けて考えていたことに近いことを、Eちゃんは「調整型」「再構成型」のそれぞれとして整理している。

科学技術と社会のことを考えるにあたり、「調整型」と「再構成型」の2種類があるとEちゃんは言う。いわゆるSTSなどで科学技術政策に介入し(ようとし)たり、科学技術予算を得て進めるたりするのは、「調整型」がメインだ。科学技術を推進して今の社会に実装し、うまくやりくりする(現政権だと、経済成長にいかに寄与するか、など「やりくりする」の目標設定は政府が行う)にはどうしたらいいのか?と考えて、調整していく。つまり、今の政治と経済の枠組みに最適化する、ということ(ハックする、変える、という思いで「調整型」を行っているのだとしても、現実を見ると最適化というか政策推進をスムーズにするためだなあ、、、と)。

一方で、「再構成型」とEちゃんが呼ぶのは、「そもそもから考えよう」ということ。これは必然的に、科学技術側から考えるのではなく、社会側から考えることになる。

科学技術と社会、といったときに、科学技術を主体に考える。でも、「再構成型」では、それで、本当の目的はなに?その科学技術と社会との関係をよくしていくのは、手段であって目的ではないよね?では、そもそもその科学技術必要なの?とそもそもから突っ込むということ。

「再構成型」を提案して実践しようとしているSTS研究者は、私は寡聞にして、Eちゃんくらいしか知らない。

ただ、ここ最近人工知能(というか情報技術全般)と、社会とのあり方や倫理といった議論が増えているのは(もちろん「調整型」もあるが)、社会のあり方、人間のあり方からそもそもから考えようと、という「再構成型」の流れなのだと認識している。

仲間をつくる

さて、プロジェクトの開始は決まった。とりあえずここではPJエマと呼ぶことにする。まずは仲間が必要だ。ほぼ1ヶ月間で、チームが出来上がってきた。

まず、前提としてEちゃんは仲間をつくるのがとてもうまい。これはもう彼女の才能だ。それでも、異分野の専門家や学生からなるプロジェクトを一緒に進める仲間ができていくプロセスの記録には意味があると思うので、書き留めておく。

PJエマには2つの目的(アウトプット目標)があるが、それらは互いに相互作用をするので、同時並行で進めることになる。Eちゃんは当初から目的①のためにKさんに声をかけていた。お好み焼き屋さんでの私との議論から出てきたのは目的②の方だ。①②ともに同時に進めるチームを作ることになる。チームのメンバーは、人文社会科学系の研究者、情報系の研究者、それに学生が当初から想定されていた。

さて、どうやって進めていくか。まずEちゃんが声をかけたのは、Eちゃんが主催する別のプロジェクトのメンバーたちだ。そこには人文社会科学系、情報系の研究者が数人入っている。

昨年12月、別件でとあるワークショップをEちゃんが企画した。Eちゃんが集めた参加者のひとりとして、私も招集された。社会人(私以外は研究者)から学生まで、20人近くが集められた。今思えば、そこに招集された参加者は、PJエマのメンバー候補者だった。

PJエマのコアメンバーになるK(Kさんとは別人)と出会ったのはその時だ。ワークショップで同じグループで、初めから議論を煽って飛ばしていたのがKだった。おもしろい奴がいると、思ったら、Eちゃんから、「あなた絶対好きでしょ。同じグループにしておいたから」と紹介された。つまり、KはEちゃんと似ているのだ。

ワークショップの後に参加者数人でカフェへ行き、そこでPJエマの話をした。この夜、おもしろいね、と全員が乗ってくれた。なお、夜も遅く、本来なら飲み屋さんに行くところが、Eちゃん、私、Kをはじめとして飲まない人が多かったからケーキとコーヒーを、ということになったのだ。

写真は夜カフェでのケーキ。2016年12月16日@神楽坂

当初からEちゃんが言っていたのが、ワークショップをすること。年末、Eちゃんとまた長い議論をした。私はたぶん産婆役なのだと思う。Eちゃんの中にあるものを、引き出して聞く。それをEちゃんはテキストに落とし込む。

ワークショップ日程は年明けの週末で2日間、決まった。カフェのときの参加者や、それ以外にEちゃんの知り合いなどにEちゃんがメールを送り、Googleフォームに書き込んでもらい、参加を募った。ワークショップの内容や場所は、Eちゃん、K、私でメールのやり取りで詰めていった。

1日目は3連休の最終日。2日目はその週の週末。参加者はそれぞれ15人、20人強が集まった。1日だけの参加の人も、2日とも参加の人もいる。私以外の全員が研究者。分野は人文社会科学系、情報系それぞれ。

ワークショップはそれぞれ6時間ほど。それから懇親会。ワークショップ、懇親会と続くと、それぞれパラパラと抜けていくが、その後の二次会にも残ったコアメンバーで反省会と次に向けたステップの議論を続けた。もっとも、飲まないメンバーが多いので、二次会と言っても、1日目はマック、2日目はワークショップの会場である会議室がある建物の別の部屋と、アルコールは入らず。コアメンバーは、1日目はEちゃん、K、Kさん、Tさん、私。2日目はEちゃん、K、Oさんに加え、Kが連れてきたUさん、Nさん、私。

1日目ワークショップ。毎回お菓子はたっぷりある。色んな人が持ち寄ってくれる。

2日目のコアメンバーの議論で気付いたのが、異分野でもともとのバックグラウンドや文脈が異なる中で仲間をつくっていく過程で、どのように文脈を共有するかということだった。目的①②について、表面的には言語化して、Eちゃんがテキストを作って、口頭で説明をして、共有をしてきたつもりでいた。ただ、その大前提となる文脈は語ってこなかった。Eちゃんと私の間では共有されていたが、Kをはじめ他の人たちとは全く共有してこなかったことが、この時に明らかになった。

「合う」「合わない」という人間の相性があるのだとしたら、私とEちゃんは、徹底的に合う。出会って2回目の時、「あなた、あたしだー!」とEちゃんは私を指差して言ってのけた。何かをやりたいと思った時に、それに対するスタンスや行動パターンが似ているのだと思う。それに加えて、科学技術と社会の関係については、重要だと思っていることの認識と、その上でのやりたいことが、多分、同じ。だから、空中戦の曖昧な議論でも、だいたいわかる。

でも、それが良くないこともある。Eちゃんと私の間では合意されていて、それ故それは大前提ですでに共有されているものとして、言語化していなかったことが、文脈だった。

それが、「現状認識」すなわち「世界観の共有」だった。「まず、Eさんの精神構造を掘る必要がある」とKは言った。今の社会をどのように認識しているか。そこがすべてのスタートになっている。このとき、産婆役はKだった。Eちゃんと私が交互に答えていった。1時間くらい議論が続いたのだろうか。

「あああー、やっとわかった!!」とKは言い、むしろ今まで共有されていなかったのか、と私はようやく気がついた。この時、Eちゃんと私が共感して共有していることについて、Kがインターフェイスとして外に出してくれたのかもしれない。

ただ、文脈の可視化を最初からしないでワークショップを実施したことは、実はよかった、というかそうしないと進められなかったと思っている。というのは、PJエマのような複数の領域の専門家が参加する場合は、それぞれが仲良くなってざっくばらんにガチに議論ができる状態をつくることが最初のステップだからだ。その場合、はじめからガチガチにフレーミングをすることで、議論のアジェンダから外れて抜け落ちてしまうことがあるし、参加する人を拒んでしまう。

 

 

 

「安心して炎上できる場」をつくる

「安心して炎上できる場」をつくりたい、という話を去年の夏くらいからEちゃんと話してきた。で、その議論から出てきたプロジェクトが、年明けから動き出した。

私にとってのきっかけはある研究者の研究。3年近く前、その研究の話を聞いて、2年半前に記事にした。当時、2014年はFacebookがタイムラインをいじって感情操作をするという研究がPNASに掲載されて、それなりに炎上案件として話題になっていた。研究としてはおもしろい。でも、オプトアウトなしでユーザーへの告知なしでタイムラインを操作することによる、ユーザーの感情を操作することの倫理的な是非が問われた。彼の研究は、それと近いことをしていた。ただし、目的は善意だ。情報提示を恣意的に操作することで、よい(とその研究者が考える)行動変容を促す。

エネルギーや物質といった資源に加えて、人間の活動に不可欠な要素として「情報」の循環を提唱したのが、1950年代のノーバート・ウィーナーによるサイバネティックスだ。さらに、情報技術の発展に伴い、またインターネットの普及に伴い、情報操作は容易になり、それによる人への影響も見逃せないほどになったのが現代社会だ。

それをサイバネティックス全体主義と呼び批難する向きもある。個人的には是非の問題ではないと思っている。その状態を認識するか、しないが問題だ。

とはいえ、強調したいのは、情報技術を開発する研究者も社会実装するエンジニアも、動機は善意にあるということだ。社会をよくする、便利にする、人間の幸せに貢献する、そのために情報技術を開発し、社会実装する。だが一方で、その人間への影響は計り知れない。社会実装してみないとその効果はわからない。

情報技術は、多くの人が知らないうちにすでに社会に実装されていく。オプトアウトが可能ではといっても、事実上多くの人には、その選択ができないのが実状だ。

例えばインターネット。もともとはDARPAのアーパネット。それを研究者やエンジニアが民生利用を始め、ボトムアップ式に広く社会で使われるようになっていった。一般のユーザーは、そこで選択権はない。気がついたら広まっている。使わない権利はもちろんある。だが、先進国で仕事をし、生活を送る上で、インターネットを使わないことは今や不可能だろう。

ところで、情報技術の研究のあり方そのものも変わりつつある。ある情報技術の研究者は、今や研究は実験室の中だけで完結することはない、と言う。ユーザーに広く使ってもらい、評価をすることが研究そのものになる。「こういうものを作ったけれど、使ってみてどうですか?」。それに対するユーザーのフィードバックが技術の改良になるし、社会実装にあたっての課題抽出にもつながる。

とはいえ、Facebookの感情操作の実験のように、社会と関わることは批判を受けるリスクを避けられない。人の価値観は、環境や時代に応じて変化するものだ。タイムラインが恣意的に代わることによりユーザーの感情が変容することは、特定の価値観にとっては倫理的に認められないというかもしれないが、別の価値観にとってはそれが便利であり人間の幸福につながるとして受けいられるものなのかもしれない。だが、炎上することで研究ができなくなるとしたら、社会全体の損失でもある。

だから、「安心して炎上できる場」があればいいのにな、と思った。数人なのか、数十人なのか、クローズドな場で、情報系研究者だけではなく、人文社会科学系研究者、企業の人、メディアの人、行政の人、普通の人、いろんなステークホルダーが、自由に議論をする。relfexive であることが重要で、その場の議論が、参加者それぞれにとってのフィードバックになり、持ち帰ってそれぞれの仕事や生活、活動にプラスの影響を与えるものになって欲しい。

もしかして実現できるかもしれない、と思ったのが、昨年6月の人工知能学会のあるオーガナイズドセッションだった。先の研究者が自身の研究の発表をしたあと、全体討論の話題はほとんど彼の研究と倫理についての議論になった。とても不思議なOSだった。人工知能学会は、もともと様々な分野の研究者が集まっている。とはいえ、情報系研究者が多い。その彼らが、ひとりの研究者の研究について、倫理的な側面も含めて議論になったのだ。でも、研究を批判しているわけではない。

そんな話をEちゃんとずっとしてきた。私はそれを、Project EMAと名付けた。EMAは、EMerging technologies And socistyから。

それが具体化してきたのが昨年末。Eちゃんとのお好み焼き屋さんでの議論から、その後別れて帰宅してから「ねーねー思いついちゃった!」との長電話がかかってきてから、Eちゃんがリーダーをつとめるプロジェクトが動き出した。そのプロジェクトの目的はまた別なのだけれど、「安心して炎上できる場」をつくる、そして情報技術の研究者によい相互作用が得られる場にしたいと思い、Eちゃんのサポートをしてそのプロジェクトを一緒に進めていくことを、決めた。

その時のお好み焼き。2016年12月3日の夜@渋谷。

ITと世界の分断、拡大する格差

最先端のITを理解して活用し、その恩恵を受ける人は、世界のわずかの人々なのだ、と彼女は言った。その資格を得られる人は、経済的にも文化的にも豊かな人々で、新しいテクノロジーを受け入れ、使いこなすだけの「リテラシー」を持つ。そりゃそうだ、1000万円の買い物を簡単にできる人は、そんなにいない。

限界費用ゼロ社会 <モノのインターネット>と共有型経済の台頭」(ジェレミー・リフキン/柴田 裕之、NHK出版)で、資本主義社会の発展における矛盾が指摘されていた。資本主義では、資本家の資本の増大のために、テクノロジーによる効率化・生産性の向上が導入される。だが、新しいテクノロジーの導入には投資が必要で、資本が大きくなりすぎるほど(例えば大企業など)、そのコストは膨らむ。そのため、大企業では資本家はよりレガシーなテクノロジーに固執する。特に市場を独占している場合は、社会全体で新しいテクノロジーの導入を阻むことで、自身の利権を守る。資本主義は、根源的にそのような矛盾をはらむのだという。

高度経済成長期に大きく成長した国内の大企業は、一般大衆を対象にモノやサービスを売っている。一般大衆の職場や生活には、化石のようなレガシーなテクノロジーしか入ってこようがないのだ。

「IT時代と言われたのはすでに30年前。当時の技術で出張精算の自動化くらいはできるはずなのに、未だに私たちは手入力で毎回申請している」と、出張中の羽田空港でM先生が嘆息した。

科学技術社会論の人たちは、科学技術の社会実装においては、人々の受容を議論することは多いが、経済の視点ではあまり語らない。だが、少なくとも先進国や日本においては資本主義に基づく経済システムがベースにあり、そこに乗らないテクノロジーは、社会に入ってこないシステムになっている。技術的合理性、生産性の問題ではない。ひとえに権力者の利権による。

戦後日本は、華族が廃止され、財閥は解体され、一億総中流と呼ばれ、社会階層に大きな格差はないとされてきた。「社会格差」が話題になったのはここ数年のことだが、言うまでもなく、政治・経済・社会は一部の権力者の利権によって動かされている。しかも、それは固定化している。

少なくとも、政治・経済の利権を持つ人たちは、一般大衆がテクノロジーにより豊かな生活を送ることを、目的にはしていない。どちらでもいいことなのだ、問題の本質ではない。彼らにとって重要な事は、自分たちの利権を守ること。そのために、忘れっぽい人々が覚えている限りの数年内に目立って褒められることを成し遂げること。50年後、100年後、1000年後の自分を含む社会全体のことを本気で考え取り組む権力者がどれだけいるのだろうか。

とはいえ、一部の「選ばれた人々」(利権を持つ人)自身は、最先端のテクノロジーの恩恵を享受する。だが、それと一般社会の人々がどうするかというは別のことなのだ。

今の日本は、自分が「選ばれた人々」に入るしかない。そういう社会を、格差社会と呼ぶのではないか。

紅白歌合戦2016ーPerfumeのダイナミックVRは次のVRの流れを作るか?

紅白歌合戦の楽しみは、演出のテクノロジー。テクノロジーの流行が反映されています。毎年楽しみなのがRhizomaticksが演出を手がけるPerfume。今回は「ダイナミックVR」と言うキーワードが。

床面と背面の2方面がディスプレイになっていて、そこでパフォーマンスをするという演出。背面のディスプレイは3分割されて、途中で移動します。床面と背面の映像がシームレスにつながって表現されているので、テレビ越しには、ディスプレイによってつくられた映像世界にPerfumeの3人が入り込んでいるように見えます。

このダイナミックVRの紹介動画は以下で公開されています。

これってCAVE!

と思ったら稲見先生がつぶやかれていた。

CAVEは1992年に米イリノイ大学の研究者らが開発したVRシステムで、没入型ディスプレイ(IPT)と呼ばれる。

VRはディスプレイの技術だと言われるが、VR普及元年と言われた2016年はPSVRやOculusのようなヘッドマウントディスプレイ(HMD)の発売が相次いだ。一方で、周囲の環境を再現することで没入感を増すIPTもVRのディスプレイのひとつだ。

HMDをかぶって装着するのは、身体的な苦痛を伴う。一方で、CAVE型のディスプレイでは、自分がいる空間を囲う壁に映像映し出されるため、HMDをかぶる必要がなくより自然に近い状態で体験ができる。もっとも、3D映像を体験するには、やはり3Dメガネを掛ける必要があり、それは難点だと思う。

1990年代には日本国内にもCAVE型のディスプレイが作られた。それが東大にかつてあったCABINと、岐阜県に今もあるCOSMOSだ。

どちらもCAVEを参考にして作られたことから、CAVEに敬意を払って”C”から始まる名前をつけたという。しかも、アルファベットの数がスクリーンの数に対応している。つまり、イリノイ大学のCAVEは前、左、右、床の4面がスクリーンだが、CABINは前左、右、床、天井の5面がスクリーン、COSMOSはそれらに加えて後の6面がスクリーンだ。

CABINは数年前に体験させていただいた。3Dをメガネをかけるとはいえ、高い没入感があった。なくなってしまったのが残念。

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東大のCABINは2012年末を最後に撤去されてしまったが、COSMOSはまだ現役と聞いた。

ところで、筑波大に一昨年つくられたエンパワーメントスタジオもIPTだ。体育館ほどの広さがあり、天井以外の5面に映像が投影されている。ただし、広さのために解像度が低いためか、没入感はCABINほどではなかった。

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研究としての VR研究が盛り上がったのが1990年代。当初HMDから、IPTの開発へという研究の流れができた。

一方で、VR普及元年と言われた2016年は、一般向けのHMDが数多く登場した。今後、VR普及の流れはIPTに行くのだろうか。HMDは個人のみのVR体験だが、IPTは同じ空間にいる他の人達とVR体験を共有できる。

ところで、HMDが流行る数年前からパブリックスペースで増えたプロジェクションマッピングも(紅白でも椎名林檎TOKIO東京都庁での演出などに使われていた)、IPTのようなものでは。

いずれにしてもIPTの実現には空間とコストがかかるので、それを超えるだけのインセンティブが必要。HMDは今のところゲームくらいで、まだキラーアプリがないのが現状だろう。多くの人が同時に体験できるIPTは2020年五輪がキラーコンテンツになるのか、ならないのか。

個人的にはHMDが嫌いで、普及するなら2段くらい飛ばして侵襲型BMIでいいんじゃないのか、と思っていますが、、侵襲型BMIの実用化は自分が生きている間に実現しそうもなさそうなので、その前にIPTがもう少し普及してもいいのかなあと思います。

 

 

 

2016年に書いた記事振り返り

2016年は記者(週刊朝日編集部)から編集者(医療健康編集部)になり、また記者(AERA編集部)に戻るという慌ただしい1年でした。分野も、週朝では政治から経済からなんでもやっていたのが、医療健康編集部では医療や医学部、医師が対象、AERAでは医療や科学技術系(とはいえなんでもやるけど)と部署ごとに変化がありました。あと他媒体でのお仕事も少しずつさせて頂いてありがとうございます。科学技術や医療は10年近くずっと取材してきているので、書ける場があると、たくさん書きたいこと書くべきことが出てきます。

起こっているファクトを取材して記録して伝わるように記事にするのが、新聞時代からやってきた記者の仕事。それに加えて、何を取材して書くべきかというアジェンダ設定に対してより自覚的になってきたのがここ数年で、その点では去年よりは今年のほうができるようになってきたように思います。

一方で、取材して書く、というだけでなくそれをもう少し推し進めて、形がないところから取材先も含めてみんなで一緒につくっていくという仕事は、新聞社を辞めた時からずっとやりたいと思っていながらなかなかできていません。つくっていく、というのは記事やメディアそのものというよりもっと大きな、メタな考え方とかあり方とか概念とかシステムとかなのかなあ。ぼやっとしていますが、その具体化も含めて、来年の課題です。来年のテーマは「定点観測ブイかつ船になる」。

印象に残っている記事のうちネットで読めるものをいくつか。週刊朝日AERAは紙媒体とウェブでは見出しが違うし、ウェブでは記事全体が読めないものもある。ややこしい。

直撃アンケート一挙公開 “サボリ”衆参議員65人全リスト (週刊朝日)
NPO法人「万年野党」が毎回集計している、国会議員の質問回数、議員立法発議数、質問主意書提出件数の調査をもとに、それらがすべてゼロの議員全員にアンケートを送った上で、何人かに取材に行ってつくった記事。

内閣官房参与・浜田宏一が安倍政権へ警告「損のリスクも国民に説明を」(週刊朝日)
→お話を伺いたかった浜田先生のインタビュー記事。クルーグマンとの共著の本も参考になったし、マクロ経済への勉強熱が高まったインタビューでした。

世界に遅れる日本の「人工知能研究」のお粗末(Forsight)
→Forsightに初めて書かせてもらった記事。読者層や他の記事とトーンが違うので科学技術系は読まれないかなあと思っていたら、結構読まれていたということで、人工知能ブームということはあるけれど少し自信になりました。

ロボットが介護する日がやってくる 歩行を支援してリハビリ 腰痛予防の装着型ロボット (週刊朝日)
→60歳以上という読者層を意識したロボット記事。ロボットやAIといったテクノロジーは新聞時代から取材してきたけれど、媒体によって読者対象や媒体の特性が違うので、同じことを同じように取材しても全く違う記事になることを意識してつくりました。

空間知覚をハックして、狭い室内を無限にまっすぐ歩き続ける「無限回廊」VR(WIRED)
→昔からお世話になっている研究室の成果で、ツイッターで稲見先生がつぶやいているのをきっかけに取材に行って書いた記事。

数学者と医師が語る、医療ビッグデータの活用法(Meet Recruit)
→記者レクで聞いた河原林先生の林と、勉強会で聞いた木村先生の話が、違う分野にいながら同じ問題意識を抱えていて、この2人が話しているところを字にしたいなあと思って実現した企画。

ところで、記事になるならないは別にして、この人とこの人をくっつけたらおもしろそう、と思ってくっつけてみるということがとても多いこの1年でした。来年はそれを何らかの形(記事以外でも)にできるといいなあ。そこに自分がどう貢献できるか。

菊乃井店主とVR研究者が語る、和食の未来を作るテクノロジー(Meet Recruit)
→上記と同じ理由で記憶に残った記事。

ケヴィン・ケリー氏が語る、VRとAIがもたらす「必ず来る未来」(Huffinton Post)
→師匠・桂さんが翻訳したKKの新刊「〈インターネット〉の次に来るもの 未来を決める12の法則」イベントのレポート。KKのお話聞くのは、「テクニウム」で来日された時から2回目。尊敬する好きな人たちから日々刺激を受けて生きています。

お手上げ医師助ける人工知能 遺伝子を調べてがんを特定する(AERA)
→「医師・医学部特集」の中で書いた1本。それを人工知能と呼ぶかどうかは別として、医療現場でのIT導入はすでに確実に来ている流れで、それが医療制度や医師のあり方の変化に大きく関わるのでこの所よく取材しています。

10年遅れの男社会だ 女医の3割が結婚・出産などで離職 (AERA)
→これも「医師・医学部特集」の中の1本。ジェンダー関連の記事を書いたのは初めてかもしれない。科学技術や研究者の世界においてもこれも避けて通れない流れ。女性に限らず働き方やダイバーシティは、アカデミアにしろそれ以外にしろちゃんと見ていきたい。

「役に立つ」より「面白い」 ノーベル賞の大隅良典さんが問題提起(AERA)
ノーベル賞受賞が決まった時の記事。記者会見での私の質問に対して答えてくださった大隅さんの言葉からふくらませていって、この形の記事になりました。ちなみに直後の個別インタビューの日程を一旦確定させたあと潰した東工大の広報に対しては信頼ゼロになりました。

抗不安薬 処方箋でも薬物依存 あくまでも”補助”(AERA)
→「薬特集」の中で書いた1本。精神科医療は8年くらい前から取材している分野で、また最近集中的に取材しようと思っています。

「軍事研究」解禁 民生を追う防衛 防衛予算での大学研究、戦後70年目で転機(AERA)
→「自衛隊特集」の中で書いた1本。安全保障研究もしくは防衛研究と大学に関しては、SCHAFTの人たちを取材していた2013年頃から興味を持っていました。しばらくまだ見ていきます。

世代間格差で劣化する研究 研究費獲得競争と任期付き雇用で疲弊する現場(AERA)
→「大学特集」の中で書いた1本。若手研究者、大学、研究費、この問題もここ数年悪化する一方なので、憂いているばかりではなく、かといって書いていくだけでなく、どうしたらいいのかなあともやもやとしています。

最初の国会議員アンケートの記事について捕捉。与党議員が質問しないのはあたりまえ、というのは国会提出前に政調とか与党内ですでに調整がついているからなのだけれど、派閥が弱くなると与党内の多様性がなくなりしっかりした議論ができないまま国会に出されているという話です。政治部記者にとっては当たり前すぎて(でも国民にとっては当たり前じゃない)取材もしない話だけど、表に出ている数字からみていくと一連の流れが可視化されて、伝えられることがあるんじゃないかと。

データをよく見て、それを元に色んな人に取材していくと「そういうもの」と思われているが、「本当にそれでいいの?」と見えてくることがたくさんある。政治じゃなくても政策にしろ医療にしろ、こういう仕事をしっかりやっていきたいというのも来年の課題。新聞時代の師匠が医療記事で年末にすごく良いお仕事をされていたのを見て改めてそう思いました。

ところで去年から委員をやっている人工知能学会倫理委員会も、今年は6月の人工知能学会全国大会でのセッションと倫理綱領案の作成と、大したことはしていないけれど、少しは貢献できたような気がします。年明け1月には倫理綱領を確定させて公開まで持っていければ一段落。

個人的には倫理委員会の取り組み自体が、科学技術社会論STS)界隈で最近よく言われている「責任ある研究イノベーション(Responsible Research and Innovation, RRI)」の具体例になるのだろうなあという点に関心があります。このあたり、倫理委員会に限らずもう少し考えて何かまとめられるといいなあ。

それと、記者とメディアそのものについても、考える点は多く、情報流通がネットが中心になりつつある中、紙中心のこれまでの報道メディアの記者や記事のあり方も変わりつつあります。welq的な内容が不正確という点で質は低いが読みやすく消費されやすい記事のあり方、ウェブライターのバズらせるあり方は、あまり好きではありません。でも、ウェブで読まれるのはそういう記事。

特に医療や科学技術、研究者の分野ではそのような記事やメディアのあり方がよいとは思えない。ただし、読まれなければ、ないのと同じ。とにかく手を動かしながら考えるしかないのかなあと。。来年はウェブで読まれることをもう少しは意識しつつ、でもあんまり迎合しても良くないし、バランスを見ていければと。

今年を振り返ると、来年の課題がたくさん見えてくるけれど、来年の目標はまた年明けに書こう。

インターネットディストピア

昨日、エマちゃんに会いに駒場へ行ったら、博物館でマザリナードの展示をしていたのでふらりと入った。

マザリナードは、フランス革命直前の17世紀のフランスで宰相マザランに関連して出回った大量の文書だ。もともと、フロンドの乱と同時期に反マザランの書き手たちがマザランの批判の文書を書いたことを発端に、マザラン側の王太子妃らに対する誹謗中傷の文書が氾濫し、一方で親マザラン側はマザラン擁護の文書を書くなどして、フロンドの乱の6年間の間に5000〜6000の文書が溢れた。

文書の内容は、事実に基づいて論理的にマザラン批判するものから、虚偽の内容までさまざまで、書き手の間の党派間で対立が起こると、党派のプロパガンダのための事実の捻じ曲げも行われた。

マザリナードは8ページくらいで今の物価だと3-40円ほどで売買された。一般大衆が購読した。印刷技術の普及で、一般大衆にも知識が広がっていったのだ。だが、内容は事実かどうかといった妥当性よりも、誹謗中傷が過激な文書ほど高価で取り引きされ、王太子妃を侮辱する内容の文書は4倍もの値段がついたという。マザリナードはのちにコレクターたちの蒐集対象となったが、その際にも、過激な内容のものに高価な値がついた。

人は、見たい情報しか見ない、しかも、感情的で過激で下品で刺激的な情報を人は求める。淡々とした事実の描写よりも、感情的で刺激的な内容をあたかも事実とした情報の方がより強く拡散するのは、いつの世も同じことだ。

「インターネットディストピアだよ」

出版社で社長兼編集部長をしている元上司が、疲れた顔をしてため息混じりにそう言った。ネットが普及し、ろくな取材もせずに書かれた無料の記事がPVを集め、新聞も雑誌も売れず読まれなくなってきた。

20年前にインターネットが普及し始めた時、ネット界隈の人たちは、誰でも無料で情報を手に入れられ、自由に言論を発表することができ、知識は民主化され、民主主義がアップデートされると期待の声を上げた。

だが、実際に私達が経験してきたのは、濫造される質の悪い(剽窃だったり、デマだったり)コンテンツがPVを集めることでさらに量産され、取材や事実確認にコストをかけたコンテンツが駆逐され、「事実」が軽視される情報の流通だった。それによって、出版社や新聞社といった、コストのかかる質の高い情報を流通する企業のビジネスモデルは崩壊しつつあるのが現状だ。

welqの件は氷山の一角だし、インターネットディストピアは悪化する一方だ。

イギリスとのオックスフォード英語辞典は、今年の言葉として「post-truth」を選んだ。「客観的な事実や真実を重視しない」社会を指すと言う。Brexit、米国大統領選では、ネットやSNSに氾濫するデマ情報が結果に影響を与えたとされる。「事実かどうかは言論の構成には関係のない時代」になりつつある、いやすでにそうなってきている。

だが、そんな時代は嫌だ。事実を元に、論理的に議論ができる世の中がいい。なるべく多様な人の話を聞き、取材をし、事実に基づいて記事を書く。その後デスクと校閲さんの手が入った記事が印刷され、流通に乗る。そのようにして情報の質を保つ仕事をしてきた。私は私の仕事のやり方で全力で抵抗をする。

 

駒場はもう黄葉終わりかけ。きれいでした。

トランプの大統領の誕生と科学者の反応

ドナルド・トランプが米国の次期大統領となることが決まった。一般に、科学技術政策は、国の重要アジェンダとなることはあまりない(票田にならない)が大統領によって、科学研究に影響がでることもある。例えば米国では2001年にジョージ・ブッシュ大統領がES細胞への研究支援の打ち切りを決めたことがあった。

大統領がオバマからトランプに変わることでどう変わるのか。Natureに掲載された、Jeff Tollefson、Lauren Morello、Sara Reardonによるコラム「Donald Trump's US election win stuns scientists」では、移民政策に対する科学者の懸念と、気候変動への対応の変化の2点が主に挙げられている。

以下、全訳してみた。

ドナルド・トランプの大統領選勝利に科学者たちは衝撃を受ける
共和党は、研究へのはっきりしない影響で、ホワイトハウスとUS議会を一掃する

Jeff Tollefson, Lauren Morello& Sara Reardon
2016年11月9日

米国大統領に選出されたドナルド・トランプの支持者たちは、ニューヨークで祝賀を上げるだろう。共和党のビジネスマンでありTVスターのドナルド・トランプが次のアメリカ大統領になる。科学の話題は今年の劇的で激戦となった選挙戦のわずかな一部にすぎないとは言え、多くの研究者は11月8日の選挙でヒラリー・クリントン国務長官を破ったとして、恐怖と不信を示している。

「トランプは、我々が知る中で最初の反・科学の大統領になるだろう」と、ワシントンDCにある米国物理学会の広報ディレクターであるMichael Lubell氏は言う。「結果は、非常に非常に厳しい状況だ」

トランプは、気候変動の根拠としての科学を疑問視している。例えば、それは中国のデマだと示唆した。また、2020年以降の温暖化対策の国際枠組み「パリ協定」から米国を離脱させるとしている。

バイオ医学研究政策に関していくつか言及してきた一方で、昨年、トランプは米国国立衛生研究所(NIH)について「恐ろしい話」を聞いたと話した。彼はまた、NASAを「低軌道飛行のための物流代理店」として、米国の宇宙計画を商業ベースの宇宙産業の役割まで拡大すると述べている。

トランプの移民に対する強行な主張(イスラム教徒の米国入国の禁止、メキシコに壁を設けるといった)のために、研究支援者たちは、才能ある外国人研究者が米国内の研究機関で仕事をしたり学んだりすることを思いとどまらせてしまうのではないかと心配している。

「少なくとも、海外から米国に来ようと関心を持つ科学者を萎縮させると思います」と、メリーランド州ベセスダにある米国細胞生物協会の渉外・広報担当ディレクターのKevin Wilsonは言う。

一部の研究者は、すでに選挙をきっかけに、米国を離れることを考えている。「米国の大学で働いているカナダ人がカナダに戻るといったことを、我々はこれから目の当たりにするだろう」とジョージア州アトランタのエモリー大学で環境経済と政策を学ぶMurray Ruddはツイートした。

■数字ゲーム
トランプが選挙結果の展開を見ていたニューヨークで11月9日午前3時少し前、勝利に必要な270票を上回った。クリントンは、選挙当日までは世論調査でリードしていたが、女性、マイノリティ、大卒者の強い支持を得ていたとはいえ、トランプの予想外に好調な結果に打ち勝つことができなかった。

共和党はまた、下院と上院で議席を獲得し、議会の過半数を占めることとなった。トランプが彼の政策の優先順位と重要なポジションの候補者をプッシュするのは容易なことだ。例えば、NASAや米国海洋大気庁といった科学者組織のリーダー、また現在空席のある最高裁判所の判事もそこに含まれる。

「研究者が科学のために立ち上がることは非常に重要だ」とメリーランド州ベセスダの米国実験生物学会連合の法務部門のディレクターであるJennifer Zeitzerは言う。連邦政府資金による研究がいかにアメリカ人に利益をもたらすかをトランプ政権が理解をしていることを意味していると、Zeritzerは言う。

この選挙結果に対するソーシャルメディア上の多くの研究者の反応は、研究資金の削減が多くの懸念だ。「私は博士号取得のために、乳がんの研究をしています」とアイオワ大学の大学院生Sarah Hengelがツイートしている。「私の将来だけでなく、研究の将来が怖い」

「科学、研究、教育、そして地球の未来にとって脅威です」と、スタンフォード大学で電気化学と持続可能なエネルギーのための対話を研究しているポスドクであるMaria Escudero Escribanoはツイートしている。「私はヨーロッパに帰国すべき時だと思う」。

■気候変動に対する対応の不確実さ

最高裁判所の欠員は、オバマ大統領による気候変動に対する計画の主要なひとつの運命をトランプの手に任せることとなっている。裁判所は、既存の発電所からの二酸化炭素排出量を抑制するための規制を検討している。オバマは欠員を埋めるために、中立な候補者を指名しようとしているが、共和党はこれを防ごうとしている。だがトランプはすぐにそのポジションを埋められるだろう。彼の候補者は、まだ指名されていないが、気候変動に関する決定票を投じることができる。

彼が公約通りパリ協定から離脱するには、長い時間がかかる。法的には、彼は4年間そうすることができない。だが、トランプの選出によって、モロッコのマラケシュで現在進んでいる、パリ協定をどのように実行するか検討中の国々による交渉に影響を与えるだろう。アメリカは世界第二の二酸化炭素排出国だ。そしてオバマはパリ協定を作り上げる上で、重要な役割を果たした。

カリフォルニ大学サンディエゴ校の政治学者であるDavid Victorは、国際社会が一致して協定を維持する可能性があると指摘する。彼が言うには、一つの可能性として、中国が気候変動に関する世界的なリーダーの役割を果たすようになるかもしれないという。

Victorはまた、トランプの選出は一般に、国際関係に多大な影響を与えるだろうと言う。「アメリカのイメージをひどく悪化させるだろう」と彼は言う。「国民の約半数は、大統領として不適格な人物に投票をした」

今年もDCEXPOへ行ってきた

先週、デジタルコンテンツエキスポ(DCEXPO)へ。DCEXPOは経産省などが主催するデジタル技術の展覧会で、経産省が認定したInnovative Technologiesの展示やデモがあり、それらを誰でも無料で体験できるイベントだ。他にもシンポジウムや展示があるが、主に大学や研究機関、企業のデモを体験するのが目的で、記者1年目の時から10年連続取材に出かけている。

今年は、中国など海外の出展が増えたというのが第一印象。メイン会場入口近くの大きなブースが中国企業だったというのが印象強かっただけだけど。ただ、HTC viveとグローブ型のセンサーを使ったVRのデモだったが、精度とコンテンツが微妙だった。お花見の桜が舞うコンテンツだが、せっかくグローブ型センサーを使っているのに、花びらをつかむといったインタラクションができなかったのが不満。

VR空間で手を自由に使えるようになると、インタラクションがないと不自然で不満感が増す。

一方、NHKによる8K:VRシアターではその逆のことを感じた。視覚体験だけで満足すると、インタラクションはさほど重要ではないのかもしれない。8Kの3Dディスプレイのシアターで、3Dメガネをつけて鑑賞するが、HMDを被る必要はない。小さな映画館のスクリーンが高精細になり3Dになったというイメージだ。コンテンツはサカナクションの碧のプロモーション映像だった。

高精細の映像はきれいだ。3Dメガネをかけると、バンドのメンバーがスクリーンから前に出てきているような、距離感を感じることができた。

ただ、コンテンツの作り方には不満が残った。プロモーション映像だから仕方がないのかもしれないが、文字が浮き出るとか、3Dである必要性がないシークエンスがいくつかあった。いいコンテンツだと思ったのは、ライブ映像で、ステージ上のバンドを周囲から360度回転させた映像だった。つまり、ステージの裏からまわりこんで正面まで見られるということになる。これはリアルではまず体験できない、映像ならではの体験だ。こういったコンテンツには、適していると感じた。

もっとも、VR研究者に言わせると、これはインタラクションがないのでVRではなく8K・3Dだということだが、体験としてはインタラクションがなくても、それなりに満足できた。映画館で映画を見て、インタラクションがなくても別に不満じゃないでしょ?それと同様に。まあVRかどうかは議論が分かれるのかもしれないけれど、一般人としては、どっちでもいい。

今年のDCEXPOはHMDを被るタイプのVRが比較的多かった。HMDは現状技術としてはだいたい成熟していて企業がHMDを次々と開発する段階なので、展示はコンテンツを見せるものがほとんどだ。個人的に今のHMDは付け外しがめんどくさいし重いし使い勝手が悪すぎるので、普及するとは全く思っていない。もっと使用者の負担が軽くなるものがでてくることを期待している。

HMDを写真にとってもつまらないので、HMD以外のものを。

NICTの360度方向からの裸眼立体視ディスプレイ。つまりレイア姫。写真ではわかりづらいが、中心の円形の部分から立体像が出ていて、360度どこから見ても立体像が見られる。テーブルの下にディスプレイが多数並んだアレイがあって、そこから複数方向に一度に投影することで立体像を見せているそう。まだぼんやりしているけれど、ディスプレイの個数を増やせばもう少し画素が上がって見やすくなるのだろうか。

地味にすごいなあと思ったのが、星さんたちの指向性スピーカー。超音波で制御してあげることで、空間の一地点だけから音が聞こえるというスピーカーだ。写真ではライトと台の中間くらいに耳を傾けると、音が聞こえるが、それ以外の場所では全く聞こえない。

Unlimited Corridorは、高所恐怖症なのに体験してくださった石黒先生のリアクションが最高でした。仕組みを知っていて何度か体験させてもらっている私でも怖いし、最後は反射的に叫び声あげてしまうし。

現状のウェブ文化へのジャロン・ラニアーの痛烈な批判

フリー、オープンネス、知の民主化、クリエイティブ・・・

そのようなキーワードをもってインターネットを礼賛する声は多い。だが、インターネットは本当に私たちを知的に、賢くして、幸せにしたのか。この10年、それは幻想だったことに多くの人たちが気付き、民主主義をアップデートするといった楽観的な議論を書き散らしていた言論人たちは、何も言わなくなっていった。

ジャロン・ラニアーは2010年の著書「人間はガジェットではない IT革命の変質とヒトの尊厳に関する提言」(ジャロン・ラニアー著、井口耕二訳、ハヤカワ新書)の中で、現在のインターネット文化全体覆う、イデオロギーサイバネティックス全体主義」に対して痛烈な批判を浴びせる。

ラニアーは1980年代に「バーチャルリアリティ」という言葉を最初につくったコンピュータ科学者で、ミュージシャンで、変人。そして、徹底した人間中心主義者だ。「技術の一番大事なポイントは、それが人々をどう変えるか」だという。彼が最初につくったVRのシステム「VR for 2」は、彼のお母さんとコミュニケーションを取るためにつくったのだという。

ラニアーがサイバネティックス全体主義と呼ぶのは、「オープンな文化やクリエイティブ・コモンズの世界の住民、リナックスコミュニティ、人工知能的アプローチのコンピュータサイエンスに携わる人々、ウェブ2.0関連の人々、文脈を考慮せずにファイスを共有したりマッシュアップする人々などだ。彼らの首都はシリコンバレー。その地盤は世界ーデジタル文化がはぐくまれている場所、すべてだ。ボインボイン、テッククランチ、スラッシュドットなどのブログがお好みで、旧世界にはワイアード誌という大使館を置いている」コミュニティ。要するにウェブのメインストリームにいる人たちだ。彼らは、フリーやオープンネスを推進し、あらゆるものをビット化し、固定化し、効率化し、ネットで共有する。さらにネットワークでつながったコンピューティングクラウドがどんどん賢くなり、超人間的になると嘯く。

ラニアーはいくつかの理由でサイバネティックス全体主義者たちを批判する。ひとつは、人間よりもマシン中心であること。そもそも人間はあいまいなものだ。ところがデジタルはあらゆるものをビットで切り取り固定化する。現実全てをビット化することは不可能だから、技術的にやりやすい部分だけをビット化する。その結果、人間は、窮屈な固定化されたビットの中に押し込められ、矮小化されることとなる。

もうひとつが、フリーとオープンネスは、商業メディアを駆逐しつつあることで、結果的に知的で創造性に富む文化を破壊しつつあるということだ。知的な情報を無価値化した。フリーと言えば聞こえはいいが、情報の対価を支払わないということは、価値ある情報の生産は保てなくなる。フリーとオープンネスによってクリエイティブな文化が育まれると言われていたが、現時点では概してそれは幻想に過ぎない。

ただし、本書ではこれらに対する解決策をラニアーはいくつか提示するが、いずれも歯切れが悪い。本書の発行は2010年。だが、今をもって同じ課題を私たちは抱えており、解決策を見いだせないまま、状況はさらに悪化している

iPhone7に変えた

2年以上、5sを使い続けてきたiPhoneを7に変えた。意外と重い。スマホにカバーや保護フィルムを付けるのが嫌いなのでずっと裸で使っていたが、落として割そうなのでカバーは着けた。画面のサイズは大きくなったが違和感はない。大きすぎるかと7にしたが7plusでもよかったかもしれない。

以前は携帯電話としてもiPhoneを使っていたが、今年の4月から携帯電話はガラケーに移して、iPhoneはネット専用で使っていた。仕事柄電話を使うこともまだまだあり、ネット端末と電話端末が一緒なのが使い勝手が悪かったからだ。今やiPhoneは私にとっては電話ではない。立ち歩いたまま使えるネット端末という位置づけだ。

一方で、雑誌や書籍といった長い文章を読むのは、KindleiPad miniを使っていた。Mac bookは読みづらいし、iPhoneで長い文章を読む気にならない。

7に変えたことで、大きく変わる気がするのが、ただでさえ中途半端で週末にDマガジンを読むための専用機と化していたiPad miniを全く使わなくなるということ。つまり雑誌を読むのは、7で十分になりそうだ。実際にDマガジンで読んでみると、文字は小さいけれど読めないほどではないし、ビジュアルが多い雑誌なら十分だ。

ついでに、これまでPCと同じくWiMAXで接続していたWi-Fiを、初めて格安SIMを使ってみることにした。WiMAXの通信状態の悪いのが不満のため、docomoの回線を使えるMVNOのほうが移動中でも常にネット接続しているスマホの用途に適している。Yさんが7に変えてmineoにしていたので、真似してmineoにしてみた。月10Gで2000円台と安いし、通信状態はストレスはない。

しばらく通信環境は、ガラケーソフトバンク、かけ放題)、iPhone7(mineo、docomoMVNO、月10G)、WiMAX(月7G)で使って様子見。他にネット接続するデバイスは、Macbook(持ち歩き用)、MacbookAir(自宅用)、iPad miniKindle(3G+Wi-Fi)、会社PC(ノートPCだけどほぼ固定利用)。

目下の悩みは持ち歩きカメラのWi-Fi接続。カメラはきれいに撮りたい時はα7、常時持ち歩き用にRX100を使っていたが、RX100が(何度めかの)故障中なので、去年買ったGRⅡを持ち歩き用にしようかと思っている。α7とRX100はソニーの専用アプリでカメラからWi-FiiPhoneにデータ送信→Googleフォトへバックアップの連携がものすごくスムーズで便利だが、GRⅡはWi-Fi接続できるにもかかわらずRICOHのアプリが微妙すぎて、iPhoneへのデータ送信がストレスフルだ。なんとかならないのかなー。

ネクストVRを探しにVR学会へ行ってきた

14〜16日につくばで開催された日本バーチャルリアリティ学会(VR学会)へ行ってきた。

世間はVRブームで、ヘッドマウントディスプレイ(HMD)の発売が相次いでいることもあり、今年はVR普及元年とも言われている。今言われているVRは、HMDを付けて体験するものが多い。

現在のHMDはゲームをとっかかりに普及をすると見られている。VRコンテンツの多くはゲームだ。ファミ通ゲーム白書2016によると昨年の国内ゲーム市場は1兆3591億円と過去最高を記録したということなので、少子高齢化で多くの産業が縮小傾向にある中、まだ成長が期待される産業なのだろう。もっとも伸びているのは、オンラインプラットフォームで、家庭用ゲーム(ハード・ソフト)はともに減少傾向にある。HMDが普及することで、オンラインプラットフォーム、家庭用ゲーム(ハード・ソフト)共にVRゲームに代替されることは有り得そうだ。

だが、現状のHMDをベースとしたVRは、まだまだHMDの制約が大きいため、コンシューマ向けには1人1台という普及までは至らないだろう。

とはいえ、コミュニケーションの媒体としてのVRは、紙や放送(TV、ラジオ)、ウェブ(テキスト、画像、動画)といった現状普及しているメディアと比べてリッチな体験を提供できるため、普及の可能性は大きい。

HMDをベースとした現状から、VRはどのように変わっていくのだろうか。ネクストVRを知りたくて、VR学会へ行ってきた。

ちなみに、VR学会などのアカデミアのVRの研究の歴史を振り返れば、HMDの研究が盛んだったのは20年前の一次ブームのころで、その後部屋の壁がディスプレイになり、ディスプレイに囲まれた中で没入感を高めるCAVE型の研究が盛んになり、さらに、触覚などほかのモダリティを提示する研究が進められている。

VR学会は20周年で、20周年企画として若手研究者たちが20年後のVRを展望するパネル討論の企画があった。あいにくそのセッションの場には行けなかったが、あとから録音で聞いた。そこで鳴海さんが提示していた3つの問題が興味深かった。

ひとつは、VRは非リア充を救えるのか?という問題。

PSVRのコミュニケーションゲーム「サマーレッスン」では、女子高生に家庭教師をする体験ができる。ただ、体験した人の経験によって、感じることが違うのだという。例えば、ホストがこのゲームを体験したときには、女子高生がゲームの中で近づいてきた時に、実際には感じないはずの吐息を感じたという。一方、東大生は吐息を感じなかった。これを見た東大教授は、「東大生は経験がないから感じないのではないか」と解説をした。

つまり、VRでの体験は現実での経験や記憶に大きく左右される。ということは、非リアなど現実での経験が少ない人は、リア充のような体験をVRでできないのか?ということだ。

もうひとつが、VRには身体性は必要なのか?

高校生などの中には、VRと言うと、身体活動を伴わずに様々な体験ができるものだと考えている人もいるのだという。これは、「ソードアソードオンライイ」というアニメの影響ということだが、このアニメでは、脳活動を読み取ってVR世界で活動をする。つまりブレイン・マシン・インターフェースBMI)なのだが、これを究極のVRとしているのだという。

VR研究者は、身体性が感情や認知に関わるとして、身体性こそがVRの本質だと思っていたが、実はその考え方も世代によって異なるのかもしれないという。

最後に問題提起をしたのは技術倫理について。VR体験によって、人の行動や認知を変えることができるが、使い方に寄っては悪用もできる。社会にとって良い方向に使うためにはどうしたらいいのかという問いだった。

なお、VR学会は体験展示が多く、これらを体験するだけでも十分楽しめる。コンシューマ向けのHMDが増えてきたこともあり、HMDを使った展示も多かったが、興味深いのが、電気刺激と触覚をベースとしたVRだった。

大阪大学の研究で、塩水を飲んでいるときにストロー経由で電気刺激をすることで、味を濃く感じさせるというもの。

こちらは初日のテクニカルツアーで訪れた筑波大学エンパワーメントスタジオでのデモ体験。体育館のような大きな部屋の周囲4面と床の計5面がディスプレイになっている。両腕にマーカーがついた羽根を付けてはばたくと、リフトで持ち上げられ移動して鳥になったような体験ができるというもの。

VR学会では、国際学生対抗VRコンテンスト(IVRC)の予選を開催していて、そのデモもアイデアがたくさんでおもしろい。

自動車をVRプラットフォームとした研究はいくつかった。写真NGだったが、豊田中研の一人乗り電気自動車をVRプラットフォームとした技術展示は、すでにアーケードゲームにあってもおかしくない。

VRとは、現実のエッセンスだと言われる(「バーチャルリアリティ入門」舘すすむ著)。うまく知覚や認知をだますことで、リアリティを感じるのがVRだ。つまり、VR体験のコツは、自ら積極的に騙されに行くこと。

トーリーや文脈が明確だと騙されやすく、その分リッチなVR体験をできる。

このデモでは、右耳からジェリービーンズや牛乳、虫を入れると、頭の中を貫通して左耳から出てくるという、ありえない体験ができる。正面のディスプレイとヘッドフォンという視覚と聴覚の情報に加えて、ヘッドフォンに付けた筒を使ったストーリーだけで、錯覚を起こさせている。オペレーターの学生さんのガイダンスがストーリーをうまくつくってくれる。

学生さんたちのストーリーづくりがうまかったのがこのデモ。オリンピック閉会式の「安倍マリオ」のように、地球を貫通してブラジルに到達するというストーリーだ。なお、企画をしたのはオリンピックの前ということで偶然の一致だったそう。学生さんたちの力仕事と、みんなで声を合わせて中継をしてくれる演出が素晴らしく、本当に地球を貫通したかのような気分に、、、まあなる。

で、ネクストVRはなんなのか。想像できるのは、HMDはより簡易になり、触覚などほかのモダリティが提示されるようになり・・・というのがハード面の進化だろう。ただ、より人間の認知や行動に働きかけるような、特定のハードウェアに依存しない、当たり前の概念になっていくんじゃないのかなあ、という気がする。

VRメディアが(いつの間にか)たくさんできていた

メディアから社会の流行り廃れを感じ取れる。VRについて言えば、ウェブメディアのMoguraVRPANORAは前から見ていたが、いつの間にか雨後の筍のようにVRメディアが増えていたようだ。リクルート主催のTECH LAB PAAK主催のイベント「VRメデイアサミット」では、合計8のVR関連のメディアが紹介されていたが、すべて2014年以降、うち5つは2016年のローンチということだ。ここ数年のVRの盛り上がりが感じられる。

言うまでもなく、ここ数年のVRブームは(比較的)安価になりコンシューマ向け製品のリリースが相次ぐHMDが牽引している。VRというとHMDを指すこともあるという。今で言うVRは実質HMDそのもの、それを使ったコンテンツ、サービスのことだと言っていいだろう。

HMDを使うコンシューマ向けのコンテンツ、サービスは、ゲーム、教育、医療、不動産など多様な業界で期待されている。期待「は」されているというべきか。

HMDを使うVRは、製造現場などエンタプライズ向けはともかく、コンシューマ向けはゲームとアダルトがメインの市場になるけれど、その先への移行は難しいのでは、というのが現時点での個人的な所感。HMDを使ってみたことがある人なら、そのめんどくさささ、頭にかぶる苦痛は、よっぽどのメリットやインセンティブがないと無理だということは、わかるだろう。

VRはおもしろいし、その可能性を感じている。ただし、HMDというデバイスが必須である以上、それ以上には広がらないとも思っている。一方で、Google glassやHololensのようなシースルー型はもう少しは可能性はあるのかもしれないが、現状はまだ視野が狭いとか値段が高いといった普及への壁が大きい。

VRアミューズメント施設のVRゾーンへ行ってきた

お台場はダイバーシティにある、バンダイナムコが期間限定で設置している「VRゾーン」へ行ってきた。VRを体験できる場所はイベントなどであまたあれど、「お金を取って」アミューズメント施設として提供しているところはまだ少ないだろう。

VRゾーンへ行くにはまずサイトから事前予約をする。1か月後まで予約できるが、週末は埋まっていることも多い。予約の枠は1時間半で、その時間内に、VRゾーン内にある8つのコンテンツをそれぞれ好きなように楽しむという仕組みだ。

予約した時間にVRゾーンへ行くと、まずシステムの説明を受ける。機械でバナパスポートというカードを300円で購入し、別の機械でチャージをする。それぞれのコンテンツは1回の体験が700~1000円で、体験するときにバナパスポートをかざして支払をする。

この日私が体験したコンテンツは2つ。8月末から新たに加わった「ガンダムVRダイバ強襲」と「高所恐怖SHOW」だ。いずれも1000円で体験時間は7~8分。ガンダムは少し並んだが、平日昼間だったこともあり、ほとんどのコンテンツは並ばずに体験できていた。

ガンダムVRダイバ強襲」は、ダイバーシティの正面に立つ実物大ガンダム像がモチーフになっている。

これです。

VRヘッドセットとヘッドフォンをかぶり、腰に命綱をつけて、コンテンツがスタート。VR空間ではダイバーシティ前の様子が再現され、実物大ガンダム像の前に自分立っている想定になっている。そこに、ザクがこちらに向かってきて攻撃をしかけてくる。すると、ガンダムが動き出して左手を差し伸べてそこに乗るように促される。

ガンダムの手の中に座って、指をつかんでいるところ。実際にはシートに腰かけて手すりをつかんでいるわけだが。

ヘッドセットの映像、ヘッドフォンの音響のほか、床面の揺れ、ガンダムの手(座っている部分が手のひらで右側の指に捕まってる)の揺れ、ガンダム近くのヒーターと、視覚、聴覚、体性感覚、熱とフルの刺激でかなりのリアリティ。

なお、腰につけている命綱は、スタッフさんが握っていてくれるが、これが案外重要なようだ。以前、VRゾーンの担当者の方のお話を伺った時に、「高所恐怖SHOW」を体験していたお客さんが、VR空間で高い建物の上にいる場面を体験している間に、現実で前へ向かってダイブしてしまい、命綱がその名の通り命綱として機能したという。VRヘッドセットをかぶると、それだけ没入感が高く、VR空間と現実が区別がつかずに行動してしまうのだという。

その「高所恐怖SHOW」も体験してきた。VRヘッドセットとヘッドフォンをかぶると、ビルの1階からエレベーターに乗って上の階まで上がるところから始まる。エレベーターがひらくと、そこは一枚の板が空中に突き出ている高所。板の先には子猫がいて、子猫を助けて戻ってきてくださいというアナウンスが流れる。

実際には、このような板の上をヘッドセットをつけて歩く。

高所のネコは、右手に持っている黒い物体がネコで実際のモノを持ち上げて運ぶんだけど、重過ぎ硬すぎでネコっぽくないのが残念だった。

右手に持っているモノは、VR空間では子猫として見えている。

ともあれ、素晴らしいのはスタッフの方たち。平日昼間で空いていたのもあるかもしれないけれど、質問したら丁寧に答えてくれたり、ご自身のVR体験をお話ししてくださったり、VRゾーン愛に溢れていた。VRは技術だけど、VRゾーンは技術が一見目立つけど、アミューズメント施設としてお客さんを楽しませることがメインというスタンスが良かった。技術すごいでしょVRデモに飽きていたので…。

VRゾーン行かれる方は、混んでいなければスタッフの方たちとお話ししてみるとより楽しめると思います。