Peace Tech という考え方
テクノロジーは平和にも戦争にも使われる。歴史を振り返ってみれば、テクノロジーは戦争によって進展してきた。インターネット、コンピュータ、GPSなど今普通に使われている多くのテクノロジーの多くは、戦争のための軍事予算によって開発が進展した。そのテクノロジーを積極的な平和を進めるために進めていこうとするのが、Peace Tech という考え方だ。
Peace Techとはテクノロジーによる平和貢献、として、紛争地域で学生らにICT教育を提供しているのが、Edo Tech Global の金野さんだ。ルワンダ、ヨルダンではシリア難民向けに、10月からはボスニア・ヘルツェゴビナで、大学生にAIやVR、データサイエンス、ロボティクスなどを教えているという。現地の大学などのインフラを借り、講師は日本人でオンラインで講義をする。学生たちは、例えばシリア難民なら、ほんの数ヶ月前まではアレッポ大学でコンピュータ・サイエンスを専門としていたエリートの大学生。紛争で国を追われて勉強の機会を失われた学生たちだ。テクノロジーの専門だけではない。ソーシャルグッドマインドを養うための教育もあるという。
「戦争やジェノサイドの原体験を持つ若者たちは、平和実現へのマインドセットが強い。彼らがテクノロジーとソーシャルグッドマインドを持つような教育が、積極的平和につながる」と金野さんは言う。
こうして教育を受けた人たちがテクノロジーを積極利用していくことで、Peace Techにつなげるというのが狙いだ。
先日、広島県主催で広島市で開催された「国際平和のための世界経済人会議ミニフォーラム」の中で「テクノロジーと平和」というセッションに呼んでいただき、金野さんと一緒にパネル登壇をした。私は「デュアルユースとアカデミア」について話して欲しいという依頼だった。
デュアルユースとは、テクノロジーは軍事用にも民生用にも使えるという両義性のことを指す。だがすべてのテクノロジーはそもそもそうした両義性を持つ。むしろ今なぜデュアルユースが話題になったかに注意を払う必要がある。
2015年に新設された防衛省(防衛装備庁)の大学や研究機関、企業に対する基礎研究の研究費助成事業「安全保障技術開発推進制度」が発端だった。国による研究費助成は文科省や経産省などさまざまあるが、防衛省による研究費助成事業は、戦後初めてのことだった。ということで注目を浴び、また防衛省が予算を出すということで、これは「軍事研究」に当たるのではないか、ということで、日本学術会議で昨年から議論が始まり、今年3月には「軍事研究禁止」としたこれまでの声明を継承するとの声明を出した。
そんなこんなでデュアルユースが話題になっているわけだが、とはいえ現実問題として、研究費助成の対象でもあり、テクノロジーの研究開発に携わるアカデミアの工学系研究者の間では、炎上や批判を恐れてこの話題はタブーに近くなり、思考停止状態になっているのが現状だ。
「デュアルユースとアカデミア」から考え始めると、こうしてスタックしてしまい、現実問題としてニッチもサッチもいかない。なので、この話をしたあとに、でもこのアジェンダ設定が違うんじゃないかなと思っていて、平和のためにどうしていくか、というこのイベントの趣旨からも、平和のためにテクノロジーをどう使っていくか、という問いから始めるほうが建設的なんじゃないでしょうか。というような発言をしたのは、このあとに話す金野さんへのつなぎのつもりだったんだけど、事前打ち合わせをひっくり返してすみませんでした。
ただ、そう発言したのは打ち合わせのあとにも登壇しながらもいろいろ考えた末の結論で、自分自身デュアルユースとアカデミアとアジェンダ設定をしてここ数年取材をしてきたけれど、なかなかどうにも建設的な方向にならない。切り口を変えたほうがいいんじゃないかと思っているところなのでした。
変わるロボットの概念
金出先生の講演
先日行ってきた経産省とNEDOのイベントでの、カーネギーメロン大学教授の金出武雄先生の講演がおもしろかった。内容もさることながら、先生ご自身が本当に楽しんで研究をされているということが伝わってくる、わくわくとさせられる講演だった。
講演の中に出てきたマグネットと磁界で動かす方はこの方かー。
http://www.msrl.ethz.ch/the-lab/team/Brad_Nelson.html
ということで以下は金出先生の講演のメモ。
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ロボットの概念の進展には3つの軸がある。ロボットと呼ばれる前にも、歴史的にはからくりや機械でも、プログラムやメカニズム(機構)は昔からあった。
近代のロボティクスでは、コンピュータでプログラム制御をするのが、本当の意味でのロボットの進展だった。現代、ロボットが重要になったのは、メカニズムという概念から離れて、情報によって駆動されるようになったためだと思う。
ロボットは単なるメカニズムではなく、information driven mechanismであるということが重要だ。そこが現代のロボットの概念だ。
最初のロボットは力をamplifyするものだった。AIが知能をamplifyするものならば、ロボットは単なるメカニズムを超えて、情報に駆動される知的システムということになる。
その最初のものが自律機械だ。最近では自動運転もそうだ。
「ロボットは情報によって駆動される機械」という概念を得たとたんに、機械というのが必ずしもメカニカルなシステムではないということに気づく。
私たちは1980年代にカーネギーメロン大学で、音声認識で英語の本を読む子供向けプログラムを実施した。当時は精度はそんなによくない。でも、音声認識の機械は、子供たちがどのように本を読んだかわかる。当時の技術でも、「これは正しく読んでいるのか、読んでいないのか」ということがわかるので、それに応じて子供たちに対して適当な問題を出すことができる。これはロボットだ。こういった新しい概念を作り出した。
私たちは「QOLテクノロジー」と呼んでいるが、これらは人の生活をよくするものだ。人と共に働く機械へと、徐々に移ってきたのだ。
そうすると、(機械は)人が何をしているのか、人の動きを理解することが必要になる。最近ではコンピュータビジョンで完全に人の動きをトラッキングできるようになってきた。この技術がなければ、人が何をしているのかロボットはとらえられないので、助けようがない。
今は、人と何かをするテクノロジーが重要になってきた時代だと思う。
第二の軸は、人のかかわりから、人とともに、人のために、という軸だ。自律機械は人の代替だったが、今はそうではない。人とともに、人のために、という概念がだんだんと出てきた。
そのひとつの例として我々の最近の研究を紹介する。雨の夜に運転をしていると、ヘッドライトが雨粒に当たって見えづらい。雨粒は水滴だから透明だが、ヘッドライトが当たると反射して白く見えるためだ。雨粒が見えないヘッドライトを作りたいとなる。そこで、雨粒に当たらないようにヘッドライトの光をコントロールできたら、白く光らないようにできると考えた。実はこれは簡単な仕組みでできる。カメラで雨の位置を認識する。この方向に雨粒があるとわかれば、プロジェクターで光を当てる場所を制御すればいい。そう考えると、やるべきことはカメラとプロジェクターを買ってきて、それをつないでやってみることだ。
さらに、対向車線を走る運転手がまぶしくないようなハイビームを作った。相手の運転手の目に入る部分の光だけをオフにすればいい。自分からは相手が見えるが、相手はまぶしくないというライトができる。人間が運転しやすくなるようなシステムだ。
つまり、人間のことをもっと考えてつくるシステムがもっと重要になってくると思う。
3つ目に軸は何か。これまではひとつひとつのシステムが動くと、それがよくなれば全体もよくなると考えていたが、実際はそうではない。ロボットが動く環境トータルでみていかないとよくはならない。
例えば、カーネギーメロン大学では、農業用ロボットの研究をずいぶんやってきた。だが、収穫だけをやっても農業全体が効率化されるわけではない。農業には収穫以外にももっといろんなことがあるからだ。どういう虫がついているのか、どれくらい熟れているのか、それと収穫を結びつける必要がある。収穫したら、今度はそれを検査してパッキングして送り出す。これもトータルシステムとしてやっていかないといけない。今のロボティクスはそういう方向に動いている。トータルのシナリオを考えていく必要がある。
ロボットが動くというとロコモーションと考えがちだが、でもそうじゃない。これから紹介する研究は、私の一番弟子の弟子、つまり孫弟子の研究だ。スイスのETHのブラッド・ネルソンがmagnetic-field activate microrobotes and nanomedicineという研究をした。彼の発想は非常に単純明快だ。小さなマグネットを磁界の中に置くと、マグネットは進んでいく。磁界を斜めにかければマグネットは回転する。磁界によってマグネットの前進や回転を制御できるのだ。こうして磁界を自由にコントロールすることで、マグネットの動きを制御できるようにした。
これを使って、手術器具を体外から体内に入れて、対外からマグネットでその手術器具を動作するということを実際にやった。カテーテルを体内で自由に曲げることもできる。こういったマグネットのシステムは、臨床試験までいった。
これはロコモーションという概念を変えることができる。環境がロコモーションを起こすというふうにとらえられるというわけだ。
さらに大腸菌の動きをまねる60マイクロメートルの微小の構造物を作った。これは血管の中を自由に動かすことができた。体内を移動させ、必要な場所で解放する。まるで映画「ミクロの決死圏」のようなことができつつあるのだと彼は言う。これは素晴らしい考えだ。
今はなしたのは、何もロボットはこういうものでなければならない、という概念から抜けるという話だ。
ロボットの未来はDoer、Helper、Enhancerとしてのロボットだと考えている。
理想のロボットのすべきこと=人のしたいことーその人のできること±Δ
と私は言っていて、これをkanade's magic equationと言っている。この±Δというのがみそ。
botはいかにして集団の全体最適をもたらすか
少し前にNatureに載ったこの論文が好きです。
アダム・スミスは国富論の中で、投資家が自らの利益を追求して振る舞うことで、市場全体が最適化される、「見えざる手」を説きました。ただし、人間社会全体においては、個人が(自らの利益に向かって)自由に振る舞うことは、必ずしも全体最適につながりません。にも関わらず、社会の多くの場面は細分化され、それらは個別最適化され、全体を見渡して舵取りする機能が喪失されているということが、ままあります。こうした状況では、個人は良かれと思い善意で努力をしても、全体としてネガティブに働くことが往々にして起こります。
これってディストピアだよね、ということを去年あたりからエマちゃんと議論しているわけですが、今の社会の問題の多くがこれに当てはまると考えています。つまり、どこにも明確な悪人はいない。みんな、自分の役割と居場所で努力をして、良かれと思って振る舞っている。それでも、社会全体が沈み込んでいっている。
なんてディストピア。
それで、この論文の話。複数人で協力するゲームで、個人がゴールに向かって振る舞うよりも、ランダムに振る舞うbotを一定割合介入させると、好成績のゲーム結果を得られるというものです。
こうした、ランダムに振る舞うbotによる最適化は、コンピュータサイエンスなどの領域ではよく知られていたそうです。ところが、人の振る舞いによって構成される社会学においてはあまり知られていませんでした。この論文では、そうした他の領域での知見を、個人と集団という人の実際の振る舞いに当てはめて実験したところ、同様の現象が見られたということです
この論文でのゲームでは、botはどこでもいいわけではなく、多くのネットワークの中心(人間社会で言えば、集団のリーダーのようなもの)にあるときに、全体の1割ランダムに振る舞うことで効果を発揮しました。
実際の社会環境やほかの状況ではこの条件は適用されませんが、部分最適が全体最適につながらない(「見えざる手」は機能しない)状況において、個別の一定のランダムさ(脱最適化)が全体最適につながることは、汎用的だと思いますし、実感にも合うでしょう。
論文著者で今は米エール大学博士課程の白土さんは、どこかで名前を拝見したことがあると思いググったら、以前テクタイルの活動をされていた方でした。テクタイルは10年前に同僚に勧められて展示を観に行って以来、おもしろい!と惚れ込んで、取材に伺ったこともあります。世間狭い。
科学技術に「夢」はあるか
量子コンピュータの記事について、友人(科学部の記者)とツイッターでやりとりをしていて、実用化がまだ遠いという点での量子コンピュータに、未来物語として夢があると彼は言う。
一方で私は、D-waveのようにすでに商用化されている流れでの量子コンピュータ(正確には量子アニーリング)に関心がある。単語としてはどちらも量子コンピュータというが、仕組みもその性能も全く異なる。
科学技術に未来の夢を見る。そういう考え方はとてもまっとうだと思う。
一方で、私は記者として記事を書くにあたって、科学技術に夢を見るという視点があまりない。経済紙出身というせいもあるかもしれないが、人間や社会にとって何らか「役に立つ」かどうかという視点が、記事を書く上での前提になる。「おもしろい」という視点もあるが、それも何らかの「役に立つ」につながる可能性があるから「おもしろい」と感じるわけなので。
なお、「役に立つ」というのは短期的に経済的なメリットがあるといった意味に限らない。中長期的にも人間が社会を生きる上での知恵やビジョンを提供するという意味での「役に立つ」も含む。
とはいえ、いずれにしても実用的であり現実の課題解決につながり、人間が社会の中で善く生きていくという視点だ。「夢」というのもしかしたら人によっては同じような解釈なのかもしれないけれど、ただ私はもっと実用的で具体的なピースであって欲しいと思っている。
一方で、仕事を離れたら、純粋に科学技術に「夢」を見る、というのももちろんある。
件のツイートの関連で、知り合いの研究者からリプライをもらったのは、彼女はAI研究に夢を見ていると。彼女とは同じではないかもしれないけれど、私は人間に関心があって、人間をもっとよく知りたい、そのヒントになるのではないかという点で、AI研究に夢を見ている。
「人工知能はどのようにして「名人」を超えたのか?」(山本一成、ダイヤモンド社)
今年4月、5月に開催されたコンピュータ将棋とプロ棋士による対局「電王戦」で、佐藤天彦名人を破ったのがコンピュータ将棋「ポナンザ」だ。そのポナンザを10年にわたり開発してきた山本一成さんが、将棋とAI、囲碁とAI、人間とAI、また倫理観まで語ったのがこの本。AIやコンピュータのことがよくわからない一般の人向けに書かれていて、語り口調でやさしい。また文字が大きく、(これいらなくね?というのも含めて)図版が多いので、本のサイズと比べて文章量は少ないので、さらっとすぐに読めます。
人工知能はどのようにして 「名人」を超えたのか?―――最強の将棋AIポナンザの開発者が教える機械学習・深層学習・強化学習の本質
- 作者: 山本一成
- 出版社/メーカー: ダイヤモンド社
- 発売日: 2017/05/11
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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どうでもいいけれど将棋ソフトは、AIブームの前は将棋AIではなく、コンピュータ将棋と呼ばれていたっけ(今でも言うのか)。コンピュータ将棋協会主催の世界コンピュータ将棋競技会というのが毎年あって、かつて取材に行きました。
教師データなしでビデオ映像から学習するAIをディープマインドが開発
ディープマインドは、教師データなしでビデオ映像をもとに自動的に学習をするAIを開発した。というニュースがニュー・サイエンティストに載っています。
DeepMind AI teaches itself about the world by watching videos | New Scientist
一般に、機械学習で映像や画像から特徴量を抽出するには、あらかじラベル付けされた大量の教師データが必要だ。だが、こうした大量の教師データを都度得るのは難しい。ディープマインドの新しいアルゴリズムでは画像と音から、あたかも人のように観ているもの、聞いているものを認識できるという。
まず、このアルゴリズムには2つのネットワークが含まれる。画像認識と音声認識のそれぞれに特化したネットワークで、これらのネットワークは、同じ動画から画像と音声のそれぞれを取り出して認識をする。さらに3つ目のネットワークは画像と音声を比較して、動画の中でどのシーンの音声かを学習する。このシステムを使い、40万本の動画から6000万の画像と音声のセットをトレーニングした。
このアルゴリズムは、特定のラベルなしで音声と画像の概念(例えば、人混み、タップダンス、水といったものだ)を認識するようになった。例えば手を叩いている写真を見せると、その画像に合った音を出すことができる。
この研究は今年10月にベニスで開催されるInternational Conference on Computer Visionで発表される。
なお、論文はarXivでDLできる。
[1705.08168] Look, Listen and Learn
ラベル付けされた教師学習データなしで、大量の動画のデータだけから意味抽出ができるということでいいのかしら。おもしろいなあと。
イーロン・マスクらのOpenAIがeスポーツで世界トッププレイヤーに勝つ
イーロン・マスクらが出資する人工知能(AI)開発チームのOpen AIが開発したbotが、ゲームの大会で世界トッププロの人のプレイヤーに勝利した。Dota2というPCゲームで勝敗を競う世界大会「The International」で対戦した。この大会はの賞金は2400万ドルとのこと。
マスクもツイートしている。
OpenAI first ever to defeat world's best players in competitive eSports. Vastly more complex than traditional board games like chess & Go.
— Elon Musk (@elonmusk) 2017年8月12日
ビジネス・インサイダーの記事は以下。
PCゲームであたかもスポーツのようにして勝敗を競う「eスポーツ」は欧米ではすでにスポーツとして人気のジャンルだ。この大会では、リアルタイムストラテジー(RTS)というジャンルの無料・無課金のPCゲーム「Dota2」で勝敗を競う。
Open AIは2015年12月に設立されたAI研究の非営利団体だ。マスクらが参加したことで注目を集めた。AI研究開発向けプラットフォームの提供などをしている。
ゲームでAIが人に勝利するという流れは、チェス、オセロ、将棋、チェスとここ数年加速している。特に、昨年3月、ディープマインドのアルファ碁が韓国のトップ棋士・李世ドルに勝利し、さらに今年5月には世界最強とされる中国のカ・ケツに勝利したことで、完全情報ゲームのAIの強さを決定的に印象づけた。
こうした中で、PCゲームの大会でAIが人に勝利するという流れはむしろ当然のように見える。
狸小路の映画館
先日、唐突にとても懐かしい方からフェイスブックで友達申請をいただいた。10年前の学生時代、4年ほど受け付けボランティアをした映画館の代表Yさんだった。合わせてメッセージもいただいて、先方が覚えていてくださったのが嬉しかった。
新聞社に就職が決まって上京するため、ボランティアも辞めた。理系ということで採用されたのでおそらく科学系部署に配属されるという予感がしていながらも文化部志望だった当時の私は、新聞社で映画を書きたいということを、Yさんたちに話していた。
そのYさんから、記事を読みました。とメッセージをいただいたのだ。
私が書いた映画の記事というのはアニメ映画で、映画そのものというよりも、映画制作のシステムやテクノロジーの話なのだけれど、でもふと気づくと、あの頃言っていたことが、いつの間にかかなったんだなあと、Yさんからのメッセージを読んで、思った。
同時に、映画館でのボランティアのことを思い出して、とても懐かしく思った古い映画や単館系映画をひたすら観ていた学生時代、映画がただで観られるというだけの理由で、狸小路の映画館でボランティアをしていたのでした。
週に半日間、2館で入れ替え2回の受け付け作業をすると、そこでやっている映画はすべて無料で観られる。だいたい日曜の午前に受け付けをやって、そのあとダラダラと映画を観ていくというのが毎週の流れ。
他のボランティアさんは私と同じく学生とか、社会人とか、色んな人達で、でもいずれも映画を観たり語ったりするのが好きという人たち。受け付けボランティアは、入れ替えの時は忙しいけれど、上映中は比較的暇だ。だから、上映中はほかのボランティアの方と映画の話をずっとしていた。
そこの映画館は、Yさんら夫婦が代表をつとめるNPOが運営をしていた。2館だけの小さい映画館で、代表の2人と、映写さん1〜2人、ボランティア2人が、だいたいいつも映画館にいた。4年近くもボランティアを続けていたのは、代表の2人が好きだったのも大きい。
ボランティアというのは、無料奉仕とか慈善活動といったものではない、と私は考えている。金銭を媒介しないだけで、金銭ではない価値を得て、何らかの労働力を提供するものだから。一方的に提供をするわけではないし、受ける価値が適切でないと自分が考えれば、そのボランティアは実施するに値しない。
そこでのボランティアは、その点でウィンウィンだった。私は受け付けという労働力を提供する代わりに、無料で映画を観て、映画に詳しいボランティア仲間や映写さん、代表やお客さんらとの会話から知識や考え方を身に着けていった。
でも本当にそこで得られたのは、人間だったのかもしれないなあ、とふと思いました。
2011年のWIRED
WIRED日本版の雑誌が復活したのは2011年で、コンデナスト・ジャパンに出版社がうつってからのことだ。dマガジンの創刊号特集で復刊1冊目の2011年6月に出た号が読める。WIRED日本版は当初は季刊だったが、2015年3月から隔月になった。
復刊第1号の表紙は、まるでホール・アース・カタログだ。当時編集長は別の方だが、若林さんの翻訳クレジットの記事がいくつかある。
その中のひとつが、特集「テクノロジーはぼくらを幸せにしているか?」の冒頭の、スティヴン・レヴィのテキストだ。6年前なのでまだ今のAIブーム以前だが、AIの影響による人間、社会の変化に言及している。
われわれは機械とペアになって永遠にダンスを踊り続けているのであり、きつく抱擁したまま、ますます依存度をたかめていくのだ
今読んでも違和感のないテキストだ。逆に言えば、AIブームと言われるようになって5年ほど経つ今になってもまだ、テクノロジーと人間に対する私たちの認識は相変わらず変わらないままなのかもしれない。
WIREDは1993年にアメリカで創刊され、日本版は1994年に創刊されたが4年で休刊に。日本版のウェブサイトHotwired japanがあり、学生時代の私はこれをよく読んでいたが、これも2006年には休刊した。私がWIRED文化に触れたのはHotwired japanが最初だったが、2011年にコンデナスト・ジャパンから復刊して以降の若林さんが編集長になってからのWIREDの印象がとても強い。
イノベーションとアイデア、とWIREDは言う。テクノロジーや科学をベースにしながらも、根底にあるのは哲学といった人文社会科学的な素養だ。仏文出身で音楽に造詣が深く、別冊太陽の編集者をつとめた若林さんカラーが好きだ。
本来のWIRED文化そのものではないかもしれないが、そういった若林さんのWIRED的な思想やあり方に共感している。で、そういうことが今いる場所でできないかなあと、今の編集部に来てからなんとなく思っていて、この前の上司面談で、そう言ってみた。
「AIご神託」はありかなしか
昨日放送のNHKスペシャル「AIに聞いてみた どうすんのよ!?ニッポン」が、周囲のAIに詳しい専門家の方々に不評だ。非常に不評だ。
何が不評か、というと、人が解釈してアジェンダ設定している内容を、「これはAIが提言しているんです。私たちの意見じゃありません。AIがこう言っているんです」という責任放棄をしつつ、提言を押し付けてくる点なんじゃないでしょうか。
ちょっと話が飛ぶと、エセ科学って、「エビデンス」がないわけじゃない。論文を書いたり、学会発表をしたりして、それを「エビデンス」とする。でも本来科学の世界は、論文ひとつはブリックひとつであって、それらをどんどん積み重ねていき、ひとつの家というコンセンサスの得られたエビデンスが形成されていく。だから、論文ひとつではコンセンサスが得られたエビデンスとは言えない。
ところで、エセ科学の人たちや、マーケティングで「サイエンス」を権威付け重み付けとして使う人たちは、そうしたコンセンサスの得られていないエビデンスをもっても、「こうしたエビデンスがある」として商品やサービスのマーケティングをする。
AIご神託って、そういうマーケティングのためのエビデンス至上主義と近い気がするのよね。
それを言っている、提言しているのは特定の人間で、その責任をAIという人間以外に負わせる形で、権威付け重み付けをする上に責任回避までしている。
もちろん、データに基づいた意志決定・政策決定は必要で、むしろこの国ではそれが行われてこなかったことが異常な自体だった。だが、アジェンダをどう設定するか、データを選別すること、何をどう解析するか、その結果をどう解釈するか、そこにはすべて人の手が入る。それを、「AIがこう言っている」というAIご神託になってしまうと、それはデータに基づいた意志決定ではなく、特定の人間の意志や見解を重み付けするためのデータ分析の活用という本末転倒になってしまう。
AIご神託が悪いと言っているわけじゃない。そもそも宗教と政治はまさにそうして政策決定をしてきたわけだから。
ただ今回のNスペは、「AI」という権威をたてにして特定の人(びと)が提言をすることの懸念や危機感を考えるにはよい機会だったんじゃないでしょーか。
ところで、NHKが独自開発したAIという触れ込みなので、AIって何?と思ったら番組サイトにはこうある。
東京大学・坂田一郎教授、京都大学・柴田悠准教授など、様々な研究者のアドバイスを受けながらNHKが独自に開発した「社会問題解決型AI」です。学習させたのは、経済産業省や総務省などの公的な統計データから、ハンバーガー店やラーメン店の数といった民間のデータ、さらには20代から80代までの個人を10年以上追跡している大学や研究機関の調査など700万を超えるデータです。
番組で紹介する"社会構造のネットワーク"は、膨大なデータの中から特徴を見つけ出すことができる「パターン認識」や「機械学習」という手法を用い、さらに、WikipediaやNHKのニュース原稿など、100万本を超える記事を「ディープラーニング」によって学習させることで、社会に関する5000もの情報の「近さ」や「つながり」を描き出した図です。数値的な振る舞いがただ「似ている」だけなく、現実世界で私たちが共に語る"近しい関係"といった概念もネットワークには色濃く反映されています。そのため、明らかに相関のないものがつながることもあります。
AIは、残念ながら因果関係は提示してくれません。このネットワーク構造を人間が読み解き議論することで、社会問題の背景を考え、解決の糸口を探ろうというのが番組の趣旨です。番組で紹介した"AIの提言"は、このような形で、AIが出してきた分析結果を人間が読み解き平易な言葉で表したものです。
これって数年前ならビッグデータ解析と呼ばれていたやつですね。そういえばビッグデータという単語をここ数年は全く聞かなくなりました。何でもかんでもAIって言うようになったから。
データ分析から相関関係をネットワーク化させるのはよく見かける手法です。ただし、擬似相関があるので、一見相関関係があったからといってそれだけで考察はできない。また、相関関係と因果関係はことなり、相関関係だけから因果関係については何も言えない。
この番組では相関関係があっても因果関係を提示しないということを言いながらも、人の解釈を入れた提言を「AIの提言」としているところに、うーん、となったわけです。。。
第二フェーズ
「倫理委員会」という委員会名は適切ではないのかもしれないという議論は常にある。実際、数年前にこの委員会が設置されたときには、別の名称も検討されていたという。それでも、「倫理」という単語を入れたことで、誤解をされながらも様々な人から関心を持たれやすくはなった。それは、色んな人達と対話をするために、という委員会の趣旨からしたら、願ったり叶ったりの方向だった。
医療系などで倫理委員会というと、倫理規定に即しているかどうかを判断する場という位置づけが強い。ところが、私たちの倫理委員会はそうした判断をするものではない。倫理規定に相当するものも当初は持たなかったし、全員でざっくばらんな議論をして構成的に作り上げていく場だった。
「倫理委員会」なのに委員に倫理の専門家がいないというご批判を受けることがある。倫理の専門家のご意見を伺うことはある。だが委員にはいなくてもかまわないと私は個人的に思っている。いてもいいけれど。
倫理の専門家はいなくても、多様な分野を専門とする多様な顔ぶれが集まっている。それぞれの専門家が、人工知能と倫理について議論をするという場になっている。
委員会ができて2年半ほど、私が参加して2年弱。数ヶ月前に、ひとつの目標としていた倫理指針の公開にこぎつけた。そもそも、倫理指針の作成をアジェンダ設定とするところから議論を始めた。なので実質倫理指針の作成にかかっていたのは1年ほどだった。
いずれにしても、第一フェーズが終わり、第二フェーズをどうするかという段階に来ていた。とはいっても、活動をしていると自ずとアジェンダが形成されてくるもので、倫理指針を公開したころには、すでに次のアジェンダとなるものの原型が見えてきていた。それをもっとくっきりさせて積極的に進めていく、というのがひとつのあり方で、今のところそちらへ進もうとしている。
今後の進め方として、私はここが、誰もが人工知能と倫理について議論するためのコミュニティを形成する場になればいいと思っている。もちろん意志決定をするためのコアは持つべきなので固定の委員は必要だけれど、コア以外はゆるくオープンにつながる仕組みがあるといいと思っている。メインには情報共有を、そして議論ができる場を、そこから人のネットワークが形成されていけばいいと思っている。
もやもやを抱えている人、課題を抱えている人、もしかしたらそれ自体が何か別の解決策になるかもしれない人、何かひとこと言いたい人、そういう人たちがどんどん入ってきて、場が合えばそこにとどまり、合わなければ通過していく、そういうゆるい場ができればいいと思っている。
というのは、実際、私がその委員会に入るきっかけは、そんなところだったからだ。飲み会で言いたいことを言った、記事を書いた。それでじゃあ委員をやって、と言われた。言いたいことがあるならやって、とばかりに。
でもそこで2年近くで、ルーチンではなくて、議論をする中から当初は想定もしていなかったアウトプットが出来、更に周辺環境が形成されていった。これはとてもおもしろい。
さて第二フェーズだ。
「挑む! 科学を拓く28人」(日経サイエンス編集部 編、日本経済新聞社)
日経サイエンスの巻頭インタビュー連載「フロントランナー 挑む」に2014年〜2017年前半の間に掲載された中から28本をまとめて編集した本が明日発売されます。
「挑む」はその分野のトップ研究者にインタビューをしてまとめる「人もの記事」で、研究成果とその背景、生い立ち、今後の取り組みについて書く中で、その分野の最新動向についてもわかるようにまとめています。私はこの中では松尾先生(AI)、萩谷先生(DNAコンピュータ)、武部先生(再生医療)、江面先生(ゲノム編集)を書いてます。
書籍化にあたって、分野ごとに編集されているので、人ものを読みながらもその分野で何が話題になっているかも追いやすいんじゃないでしょうか。1冊読むとかなりお腹いっぱいになると思います。もともと文字数制限が厳しい雑誌向けの記事なので、コンパクトにぎゅっと詰まって読みやすいと思います。
人もの記事は書くのも読むのも好きです。
メディカルジャーナリズム勉強会
先日、メディカルジャーナリズム勉強会へ行ってきました。市川さんが主催する勉強会です。今回が5回目ということでしたが、私は初参加でした。
主にメディア関係者と医療関係者からなる勉強会です。医療健康情報をめぐっては、WELQ問題のように必ずしも正しいとは言えない情報が流通しているのが現状です。医療を正しく、必要な人にちゃんととどくように。もちろんほとんどのメディア関係者も医療関係者もそう思って日々仕事をしていますが、世の中はみんなそういう人ばかりではないのですね。
医療情報は人の命に関わるものなので、こうした問題提起は何も今始まったわけではなくて、ずっと色んな人たちが議論してきました。私も先輩が関わっているメディアドクター研究会に何度か参加をしたことがあります。ここでは新聞などのマスコミ報道をテーマに研究会でみんなが議論をするという会です。
こういう枠組みづくり、場作りそのものに、特に興味があります。
歩きながらVR体験をするとVR酔いになりにくい
VR体験ではかぶらないといけないHMD(ヘッドマウントディスプレイ)。だいたい数分で耐えられないほど疲れるし、気分が悪くなります。HMDは重いし、酔うし、疲れるのです。(ついでに女性にとっては髪の毛が乱れる、化粧が落ちるという欠点もあります。私は髪も化粧もいつも適当なので別にいいけど)
VRそのものは好きなので体験したいが、身体的な負担が大きくて長時間無理、できればHMDかぶりたくない、というジレンマにいつも陥っています。
ところが、HMDを付けながら歩き回るコンテンツを先日体験して、酔わないし疲れないしで、びっくりした。5分くらいのコンテンツでしたが、終わった時に、え、もう終わりなの?まだ全然大丈夫だよ、って思いました
このコンテンツでは数メートル四方の部屋の中を、HMDとヘッドフォンをつけて、PCをリュックのように背負って、さらに左手にランタンを持ち、右手で輪っかを持ってペアの人と一緒に歩きます。その輪っかは2人手持ちます。
こうしたウォークスルー型の体験だと、HMDの身体的負荷をあまり感じないようです。多くのVR体験ではHMDとPCを接続する関係から、あまり広範囲に動き回ることがありません。一方、PCを背負って自由に動き回れると、ぜんぜん違う体験になります。
こちらは赤坂BLITZで体験できます。
赤坂サカス|デリシャカス2017 GOURMET & FUTURE TV
そういえば、以前、
でもあまり気持ち悪くなりませんでした。身体ってすごい。