アラビア料理とベリーダンス
広尾のアラビアレストランへ。ベリーダンスのショーもありました(金曜土曜の夜)。初めてのアラビア料理、初めてのベリーダンス。美味しかった、楽しかった。シリア人の方がやっているお店だそう。場所柄、外国人のお客さんも多く、日本語よりも英語で話していました。
広尾のアラビアレストラン ゼノビア Arabian restaurant Zenobia
3人で行って、コース料理(2900円)を3つ頼んでそれぞれシェア。コース料理には、サラダ、スープ、ディップ?3種類、メイン(4種類から1種類選ぶ)、ナンが付いてきます。結構ボリュームたっぷり。
香辛料がたっぷりでおいしかったです。トマトソースと乳製品のソースに、それぞれ香辛料で味付けをしている感じ。煮込みが基本のよう。ラムのトマトソース煮込みが特に好き。煮込みやソースにナンを付けて食べる。
食後のコーヒーを頼んだら、このセットで出てきました。
銃!?チャッカマンです。
デザート二種類。料理名を見てもわからず、店員さんに聞いてもわからず、食べてもよくわからなかった。
煮込みと香辛料、というだけで好き。
金曜と土曜の夜はベリーダンスのショーがあります。一緒に行った方もベリーダンスを習っていますが、私はベリーダンスを観るのは初めて。
最初は圧倒されたけれど、楽しかった。それと、女性の身体をのびのびと見せることの、生命感というか肯定感がいいなあと思いました。ベリーダンスの「ベリー」は腰。腰で踊るダンス。女性らしい腰って、ある程度肉付きがあって、厚みがある。筋肉の上を、脂肪が覆っている。それを美しく見せる踊りなんだなあと。
アラビア料理は癖になりそう。
アカデミアにも蔓延する「フェイク」
架空の研究者を作り、360のジャーナルに対して、エディターになりたいむねをメールしてみたところ、48のジャーナルでエディターに、4のジャーナルでチーフエディターに採用された、という実験が、Natureに掲載された。
科学研究は、専門的な知識の積み重ねがその基盤にある。知識の積み重ねをになってきたのは、専門家による査読を経た論文が掲載されるジャーナルだった。ところが、それが機能していないことが、明らかになったのだ。
スピードと競争が重視される今の時代、論文の投稿から査読を経てジャーナルに掲載されるまでの時間は足を引っ張る。そこで、査読を経ないでとりあえずアイデアを発表するとしてプレプリントを発表する場が増えている。
物理学や数学、情報科学分野では、プレプリント・サーバーのarXivにまず投稿するようになっている。
バイオ分野でも同様で、査読付きではあるがほとんど採択されるPLOS ONEなどは「トラッシュボックス」と呼ぶ研究者もいるという。
科学研究の専門性と信頼性を担保してきた、知識の積み重ねである論文が、信頼を失いつつあるのだ。
Post-truthの時代と言われる中、科学研究の分野でも「フェイク」が蔓延している。
研究不正は思った以上に蔓延している。
主に生物学の分野で研究不正を取材していた先輩が、ふとそう言った。研究のお作法は、学生や大学院生の頃に所属する研究室で先輩や先生から教えられるのが一般的だ。だから、それが「不正」だという認識がないままに、10年も20年も研究不正が引き継がれているという。
バイオの研究では、目に見えないものを様々な計測手法によって可視化するデータが研究結果の根拠になる。でも、そのデータは、時として恣意的に扱われる。例えば、特定の分子を検出するためには電気泳動が使われるが、その結果のデータをフォトショプでコントラストを強めて「データをきれいに見やすくする」ことは普通に行われる(私も学生時代やっていた)。
一方で、コントロールのデータの使い回しや、マテメソに書いていない別の細胞を使ってデータを出すといった、お作法として「アウト」の不正もある。
冒頭の先輩が言っていたのは、多くの研究者に話を聞くと、思った以上に後者寄りの人が多かった、ということだった。だが、当人たちには不正の意識は、おそらくない。研究不正事件としての告発も難しいだろう。
今の世の中で論文を読んで知識を増やすなんてやっていられない。それよりも信頼できる研究者と話すことで知識が得られる。
海外のあるエライ研究者がそう言っていたという。その分野のジャーナルは電子版を含めて無数にあり、論文を網羅するのは不可能に等しい。
地上を離れて人間は生きていけるか?「楽園追放」
2014年のアニメ映画「楽園追放」をAmazonPrimeで観ました。
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ナノマシン暴走で地上文明崩壊後の西暦2400年、人類の98%は肉体を捨てて意識だけが電脳世界「ディーヴァ」で生きている。コンピュータのハードウェアは月と地球の中間の宇宙空間にあるが、計算リソースやメモリが限られ、ディーヴァに貢献できる人から優先的にリソースが割り当てられるため、常に競争にさらされている。
地球上からのハッキングを付けて、捜査官のアンジェラは地球上での活動のための生身の肉体であるマテリアルボディに意識を入れて、武器装備とともに、地球に降り立つ。そこで地球上で暮らす人間のディンゴとともに、ハッキングをしているフロンティアセッターを探す。
人を人たらしめているものは、何なのか。肉体は必要ないのか。コンピュータは意識を持つのか。といった最近のAIやコンピュータもののSFテーマに加えて、地球を離れて人間は生きていけるのか?という宇宙もののSFテーマの要素も入っています。
フルCGで美少女が主人公で戦闘シーンもあり、いいエンタメ作品。さらっと楽しめました。
異質をうけいれる「亜人ちゃんは語りたい」
今季のアニメ「亜人ちゃんは語りたい」は、他の人と違う、異質を普通に受け入れる。
高校教師をしている高橋先生の高校に、新入生3人、教師1人の亜人が来る。亜人とは、ヴァンパイアやデュラハンといった妖怪や怪物と言われる特殊な声質を持つ人たちのこと。かつては迫害を受けたこともあったが、人間として受け入れられ、社会的弱者であるため、亜人のための社会保障制度まで整っている。
これまで亜人に会ったことがなかった主人公の高橋先生に対して、ヴァンパイアのひかりは、おしゃべりでくったくない。政府から月1回支給される血液パックのほか、食事に気をつけたり冷暗所を好むなどして自分のヴァンパイアとしての性質とうまく付き合って生活している。世界に3人しかいないとされる、首と身体が分離しているデュラハンの町も、それまでに家族と試行錯誤しながらも、それなりに日常生活に馴染んでいる。
人間が社会的な動物であり、集団で生きる以上、異質さはときに、差別や偏見を生む。それは誰かの意志による意図的なものではなく、むしろ無意識の言動にあらわれる。
だから、いつも自分を振り返って考えないと、差別や偏見はだめだと思っている人こそが、異質さに対する迫害者であるということは、珍しいことではない。
でも、それを乗り越えて、異質なものを異質だととらえないで、そのまま受け入れられる社会がいいな、って思う。あの人ちょっと変、ちょっと違う。人間は、そういうちょっとした差異を見つけることが得意だ。でも、それをネガティブにとらえないで、それでいいじゃないかと、受け入れられる社会がいいな、って思う。
カルテット
不思議なドラマだった。話題になっているものはとりあえず追いかけます(職業病)。オンデマンドで追いかけつつ、初回以外はたぶん全部観ているはず。
なじみについて
本郷に寄ったついでに、東大博物館にふらりと入った。本郷で時間があると、よくここに来る。牛のはく製がいた。
牛は見慣れているし、そんなに珍しいものじゃない。でも、なじめないなあと、思った。相変わらず。自分と牛との境界面を、意識してしまうから。
私が在学中の獣医学部の裏には農場があって、牛舎もあった。見ようと思えば毎日牛をみれた。実習で触れる機会もあったし、病理で解剖することも少なくなかった。
でも、なじめないなあと思っていた。教科書で構造や機能を勉強しても、病気や治療について勉強しても、触れて手術をしたり解剖をしたりしても、なんとなく、境界線がどこまでもひかれているようで、なじめなかった。
そういうなじめない感じは、別に牛に限ったことではなく、毎日会っている人間でも同じことだ。
取材で人と会って話していても同様で、なじめないなあって。
取材の内容にもよるけれど、「その人」そのものを理解する必要がある取材では、まず自分を消し去って、自分の中をその人で満たそうとする。その人を再構成するのにそれに足りない部分を質問して埋めていくという感じ。
それでも、なじめないのだ。しっくりこない。共感できないというわけではない。そうじゃなくて、自分と相手の間の境界面を引いてしまい、それを意識してしまうということなのだと思う。他人は他人、自分は自分。その通りなのだけれど、そのなじめなさは、記者として大きな欠陥のような気が、ずっとしている。
でもときどき、なじめる人がいる。なじめるような気がするまでには何年も時間がかかるし、その間にたくさん話している。でも、多分、最初の瞬間からなじめるかなじめないかは、決まっているのかもしれない。話した内容、かけた時間ではなくて。
多様性とか、複雑さをそのまま受け入れること、消極的であること、思索的であることなのかなあ。なじめるって。
AmazonPrimeで最近観た映画
AmazonPrimeで最近観た映画。AmazonPrime便利です。
●科学者と戦争の関連が興味深い
天才数学者、チューリングが対独戦争中に、ナチスドイツ軍の暗号解読に挑むストーリー。
感想文書きました。
●意思を持つAIのリアリティがない
Googleを思わせる検索システム最大手企業トップのネイサンが作るAI搭載の女性型アンドロイドのチューリングテストのためにその広大な別荘に呼ばれたケイレブとアンドロイド(たち)のお話し。
いまさらエクス・マキナ観たけど、検索システムから作られたAIがこんな意思を持つのか腑に落ちなくて微妙。同じくAIアンドロイドが意識を持って独立するSFならロボットの一人称視点で描かれたバーチャル・ガールの方がよかった。
— Katsue Nagakura (@kaetn) 2017年3月18日
映像はきれいなんだけど。AIが意思を持つメカニズムの説明が腑に落ちない。ヴァーチャル・ガールはとてもよくできていて、メカニズムよくわからなくても、なんとなく腑に落ちてしまう描かれ方がしてある。
- 作者: エイミー・トムスン,Amy Thomson,田中一江
- 出版社/メーカー: 早川書房
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●ディストピア感がもっと欲しかった
デザイナーズベイビーが当たり前の近未来。遺伝子情報で社会的地位や職など全てが決まる。劣った遺伝子情報を持って生まれた主人公が宇宙飛行士になる夢のために、最高の遺伝子情報を持つ落ちぶれた水泳選手と共謀してなりすます。
世界観はディストピアなんだけど、結局それをハックするのは人間性みたいなあいまいなものなのだなあとお茶を濁されたような気分でした。
●世界観はディストピア
EXMACHINAは続編。
●なんど見ても名作
何度見ても名作です。
スカヨハ主演の実写版「ゴースト・イン・ザ・シェル」の予習のために観ました。セリフもシーンも覚えてしまうくらい好き。
●ゲームと現実、虚構と現実の境界があいまいに
虚構対現実っていう、シン・ゴジラのコピーは2016年の空気を表していたと思う。ゲームやVRで人はどう変わるのか?という話を少し前にしていたときにVR研究者の鳴海さんに「アヴァロン観ていないのはありえない」と言われたので観ました。
アヴァロンというゲームで戦士として最強をほこるアッシュ。ゲームの世界と現実がいつの間にかリンクしているのか、していないのか、虚構(ゲームの世界)と現実があやふやになっていく。
アヴァロンと同じく、 おかっぱ女性と犬が出てきます。
アヴァロンが虚構が現実になっていくような話なら、こちらは現実が虚構になっていく話なのだろうか。戦争請負会社のパイロットが主人公。でも、この世界では戦争は合法的に人を殺したり殺されたりする、世界の維持に不可欠な要素としてえがかれる。戦争請負は一つのビジネスで、パイロットはひとつの職業にすぎない。現実のはずの戦争が、あたかもゲーム(虚構)のように見えてくる。
虚構か現実か。個人的には去年のテーマだったんだけど、まだ引きずっているなあ。
本質的なもの
文化庁メディア芸術祭の受賞作品・受賞者の発表がありました。エンターテイメント部門には、鳴海さんたちのunlimited corridorとあぱぱさんのno salt restaurantも選ばれていて、審査委員の東泉さんがエンタメ部門の講評で、まずこの2つに触れて、
「テクノロジーの使い方がエンジニアリングの力技というより、それを使う人間の知覚をいじっている。心理的だったり、知覚のトリックでいじっている。これがすごくこれからの時代の流れになっていくんだろうと、本質的なものを感じた」
って仰ってたのが印象的でした。アートの人から見ても本質的って見えるんだーと。
目に見えるもの、そうだと信じていること、でもそれは実はそうじゃないかもしれない。そんなことは、深妙な面持ちをしたエライ学者さんたちがたくさん言ってきたしたくさん書いてきた。でも、鳴海さんたちがやってることは、そんな御託を並べるんじゃなくて、身を以て体験させてくれる。言語はいらない。っていうところがおもしろいなあと、ずっと見てきました。
ただ正直自分がおもしろいなーと思うことをほかの人も同様に思うのかどうか、よくわからない。でも、東泉さんの講評を聞いていて、他の人たちも同じように思うんだなーとわかって、嬉しかった。
現実だと自分が信じていることを疑う。知覚や心理をちょっといじるだけで。そして、そういう体験を提供する。そういうことを鳴海さんはずっとやってきていて、それってサイエンスと呼ぶのだと私は捉えていたんだけれど、同じものを他の人から見たらアートに見えるのだなあというのも興味深かった。
unlimited corridorは何度か記事を書かせてもらいまして、とても感慨深いです。
ともかく、おめでとうございます!
インターネットの父の憂い
料理の常識をうたがう
ちょっと前の以下のニュースがとてもよかった。
日本こんにゃく協会の発表資料はこちら。
私もしらたきがすき焼きの肉を固くするって思ってたよ。実家でそうやって親に言われてきたから。
しらたきに限らず、「料理の常識」は、まずは家庭で親から教わる。それと家庭科の授業。それから、本とかテレビ番組とかクックパッドとか。
でも、「料理の常識」とされているものの多くは、慣習とか口承によるもので、科学的根拠があるわけではないのでは?
ここ数年で、料理を科学的に調べる大学での研究が活発になってきた。
去年、食×テクノロジーという対談を企画しまして、そのときに伺った菊乃井の村田さんのお話が大変面白かった。村田さんは京都の料亭の三代目。プロ中のプロの料理人だ。
村田さんは7−8年前から、龍谷大の伏木先生らと一緒に、料理を科学する取り組みを行っている。
ラボと厨房が一緒にあって、いろいろな先生が集まってきて、僕らがそこで調理をして先生たちと意見を交わす。そうする中で、和食でずっとやってきたやり方が間違っていることもわかった(笑)
(中略)
そういうことはたくさんありました。経験や勘ほどいい加減なものはないですね(笑)。だいたい、経験や勘で10年かけて覚えても、人に教えるのに同じくらいかかります。それよりも、数値ではかることで誰でも安定して同じ味を出せるようになる。料理人が変わったら味がめちゃくちゃになるとかよくあるでしょ。個人の能力に頼らないほうが厨房は安定するんです。
と話す。詳しくは記事の中で。
料理に限らず、こういう慣習や口承でずっと言われてきて信じてきたことで、実際は間違っているとか、実際は効率が悪いとかということは多くありそう。
と、また調べてみるつもり。
TRAILER(神楽坂)
神楽坂から徒歩数分の建物の隙間の空き地におかれた木造のトレイラー・ハウスが、ステーキハウス?のTRAILERです。隈研吾さんの土地で、隈さんの息子さんの隈太一さんの企画・設計で、昨年秋から一年間限定でレストランをやっているということ。近所に住む友達に紹介されて行ってきた。
ほぼカウンターだけの狭い店内。平日だけれど常に満席で賑わっていました。
メニューはステーキがメインで、ほかにも珍しいお野菜たっぷりのお料理が。次の日肉肉学会なのと、一緒に行った先輩が肉苦手のため、肉は控えました。。。
また行きたいお店でした。こんどはお肉を。
ちなみに、たまたま今週号の防災特集で隈研吾さんにインタビューをしていて、シェアハウスの話題が出ているんですが、このトレイラーの土地に3軒目のシェアハウスをつくる予定とのことです。そこにもレストランができるということなので、できたら行きたい。
肉肉学会
肉は人を幸せにする。でも、知識があると、もっと。
知識って身に付けると世界の感動が増強される究極のAR
— 稲見昌彦 Masahiko Inami (@drinami) 2010年11月6日
ということで、えとさんに誘っていただいて、知識を身に付けながらおいしいお肉を味わう肉肉学会へ。
肉肉学会というのは、元農水省の原田さんや格之進さんの千葉さんらによる活動で、1年半ほど前から活動をはじめて、すでに10回目となる。私は今回初参加でした。
今回のテーマはチーズ。冒頭で原田さんからチーズの知識のプレゼンが。ナチュラルチーズの説明など、ハードとかセミハードとかウオッシュとか案外良くわかっていないので、大変勉強になりました。むかーし、獣医学部時代に習ったような遠い記憶が。。。
原田さんのプレゼンが。
肉肉学会では毎回、生産者の方にも来ていただくとのことで、今回は那須のチーズ生産者の高橋さんがいらしていました。
お品書き。チーズに合わせたお肉料理とワインのメニュー。
一品目。一緒に食べても美味しいけれど、チーズとコンビーフそれぞれだけでもおいしかった。
二品目。右側の中に練り込まれた、十勝ラクレットというチーズ、おいしかったです。
お肉とチーズのサラダ。チーズがふわふわ。意外とあっさり。
チーズ2種「りんどう」「ブルー」。これと「十勝ラクレット」と一緒にお肉を食べます。
「十勝ラクレット」と千葉さん
骨付きミスジと熟成肉すじ。ブルーは少しきつくてブルーの味になってしまうのだけど、十勝ラクレット、りんどう、それぞれと一緒に食べるとまろやかで美味しかった。
Lボーン。あぶらがわりと強いので、私はチーズと一緒よりもこのままでよかったかなあと。
チーズ全部のせのリゾット。美味しかった。
デザート。右側のチーズは「ゆきやなぎ塩なし」。ふわふわでこくがあって美味しかった。チーズのデザート最高。
今回チーズの会でしたが、肉知識も身につけたいと思いました。
イミテーション・ゲーム/エニグマと天才数学者の秘密
ナチス・ドイツのエニグマによる暗号の解読を進めた英軍でのアラン・チューリングのストーリーを描いた「イミテーション・ゲーム/エニグマと天才数学者の秘密」を観ました。AmazonPrimeで無料だったから。もう2年前の公開なのね。
アラン・チューリングは言わずと知れた数学の天才で、今のコンピュータの父であり、人工知能(という言葉は当時はなかった)の元の理論を作った天才であり、また機械と人間を判別する「チューリングテスト」の由来にもなっている。
詳しくは、以下で桂さんが解説しています。いい記事です。
時は対独戦争中。ドイツ軍の爆撃機ががんがん飛んできて、軍艦だけでなく、民間船や米国からの救援物資の輸送船までもがんがん爆撃していく。いったいいつどこからやってくるのかわからないドイツ軍に、英国は怯えている。
そのドイツ軍の動きの鍵を握るのが、暗号生成器のエニグマだ。ドイツ軍は毎朝6時に無線で暗号を送信している。英軍はこの信号の傍受をしているが、エニグマによって暗号化されているから解読できない。それも、暗号を解読するキーは毎日0時に更新される。たとえ1回解読できても、次の日にはまたゼロからやり直しになるというわけだ。
そこで、英軍は暗号のキーを生成するために、チューリングらはマシンを作ろうとする。マシンによってキーがわかれば、ドイツ軍の暗号を解読して、次の爆撃予定地がわかる。ドイツ軍の動きが手に取るようにわかるようになるというわけだ。
チューリングらは数学者。でも、その数学の手法によって英軍を支援して戦争に勝とうとする。映画の中でチューリングが自分たちがマシンを作るのは、「戦争に勝つのが目的だ」と言う場面がある。
チューリングは、暗号解読のためにマシンを作るのに10万ポンドの予算を要求する。重要な軍の任務のためだから、その予算は出て、チューリングらはマシンを完成させる。
戦争は、有史以降ずっとテクノロジーの進歩を後押ししてきた。原爆開発で有名なのはマンハッタン計画だが、第二次世界大戦中は日本でも「科学技術動員」として科学者・技術者が戦争のために集結された。チューリングは戦争がなくても天才だっただろうが、戦争がなければ、暗号解読のためのマシンは作られなかっただろう。
今の日本では、「軍事研究」に対するアレルギーのような拒否感が強い。でも、ずっとそうだったわけではない。先日読んだ杉山先生の「「軍事研究」の戦後史:科学者はどう向き合ってきたか」で非常に興味深かったのは、日本の科学者やメディアの中に「軍事研究」を否定するアジェンダ形成がされてきたのは、戦後20年かけてのことだったというくだりだった。
先の戦争での科学技術動員に対する反省から「軍事研究」を禁止する流れとなったと説明されることが多いが、そんな単純な話でもなく、左翼の活動や全共闘、学生運動の関連も深い、と東大全共闘を知る教員関係から聞いたことがある。
まあそれはさておき。
戦争、もしくは安全保障や防衛と、科学者、技術者、科学技術研究のあり方は、「軍事研究」とか「デュアルユース」といった単語で思考停止してしまうのではなく、もっと細かく具体的に考えないといけないんじゃないかなあと思うのです。ただ是非を声高に叫ぶだけじゃなくって。
6年前の今日
東日本大震災から今日でちょうど6年。毎年振り返っているけれど、改めて振り返り。6年前の3月11日も、今日みたいに青空が広がる、良い天気でした。
2011年3月11日は、午前中はつくばの動衛研に取材。お昼くらい、帰りのTXで、その前日にインタラクションで取材をして書いた原稿を、土曜の夕刊用に出稿しなおすようにデスクから指示があり、いったん大手町の本社に向かった。出稿用の記者端末を持ち歩いていなかったので本社で出稿しなおして、歩いて霞が関へ向かった。
当時、本社にもデスクがあったが、厚労省の記者クラブに所属していて、厚労省に常駐していた。15時から厚労省で感染症関連の審議会の取材があったので、それに間に合うようにと、向かったのだ。
雲一つない良い天気だった。だから(花粉症とはいえ)、大手町から霞が関まで皇居を望む内堀通りを歩いていくのはいい運動で気持ちが良かった。
日比谷公園を通過したのが14時半ごろ。まだ少し時間があるので、厚労省が入っている合同庁舎5号館に近い日比谷公園内のカフェテラスで、カフェラテを頼んで出てきたところで、地面が揺れた。
地震は部署の担当なので、とっさに本社に上がらなきゃって思った(入社してすぐの2007年の中越沖地震では祝日だったが本社から呼び出しがはいり、「携帯鳴らすまえに本社上がれ」とキャップから怒らたものだった)。
携帯はすでに通じず、キャップからメールで安否確認と指示が入った。とりあえず友人や弟に安否確認のメールをして、合同庁舎5号館から記者クラブの同僚や取材予定だった会議参加者らがぞろぞろと出てきて日比谷公園(避難場所だ)に集まってくるのに出会った。
すでにタクシーは捕まる気配もなく、仕方がなく大手町まで歩いた。道中同じような人たちがたくさんいたし、皇居前広場には避難している人たちが集まっていたから、写真を撮りながら本社に戻った。
2009年に新築された新社屋の編集局は高層にあり、私の所属部署も26階だった。当初から編集局を高層にするなんて正気の沙汰じゃないと言われていたが、案の定エレベーターは止まっているので、26階まで汗だくになって階段を昇った(途中でへばって倒れている?おじさんたちがいた)。
その日帰れたのは2時くらいだったか。一旦止まった地下鉄が一部運転再開したので地下鉄で帰った。普段なら宅送りで帰るが、道路よりも再開した地下鉄のほうが早そうだったから。翌日からは早番と遅番でローテが組まれて、震災・原発対応が、部署が変わるまで続いた。
今日の14:46には黙祷をしました。
技術なくってよし、を選べるのかどうか
研究者や技術者の取材をここ10年近く続けている。研究者も技術者も、テクノロジーによって課題解決をする。逆に言うと、その課題解決にたとえテクノロジーが必要ないとしても、あえてテクノロジーを適用する傾向があるということなのではないのかしら。
テクノロジーと社会について色んな人が色んな所でいろんな課題を挙げる。代表的なのが自動走行車だ。自動走行になると、「トロッコ問題」をどう考えるか。といった議論をみんな好むみたい。
でも、なぜ自動走行なのか、っていうところは、案外議論されていない。自動走行の技術を入れるとことは大前提となる。なんらかの課題解決のための自動走行、ではなく、そもそもの問いが自動走行の技術をいかにして社会実装するか、という議論が多い。(もちろんグローバルな流れを鑑みても、日本企業の自動車産業保護や技術的優位性という観点でも自動走行技術の開発は必須だが、そのうえでのあえての)
例えば、ある課題がある。課題解決としてのテクノロジーがある。ところがその社会実装に際して、さらなる課題が生じる。って言うケース。これをそもそもから考えた時に、では、そのテクノロジーはやめては?って言えるのかどうか。原発では言えなかったよね、誰もが。
ということを考えていた時に、じゅんじさんとドミニクさんが監訳された本が先日出まして、去年末からじゅんじさんにこの「ウェルビーイング」の話を聞いていたから、改めて聞きに行ってきました。
- 作者: ラファエル A.カルヴォ& ドリアン・ピーターズ,渡邊淳司,ドミニク・チェン,木村千里,北川智利,河邉隆寛,横坂拓巳,藤野正寛,村田藍子
- 出版社/メーカー: ビー・エヌ・エヌ新社
- 発売日: 2017/01/24
- メディア: 単行本
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前から、エマちゃんにじゅんじさんを紹介したいと思っていたので、せっかくならとエマちゃんと一緒に聞いてきて、せっかくなので対談にして記事にまとめた。まあ長いです。
ウェルビーイングの詳しい内容は記事の中でじゅんじさんも言っているしここでは書かないけれど、記事の中でエマちゃんも指摘しているんだけど、課題解決のために、ステークホルダーが一番大切にしていることを捨てることも選択肢ですよね、と。例えば、ステークホルダーが技術者であれば、技術を捨てることかもしれない。じゅんじさんは、それに対して、全然あり、と答える。じゅんじさんは情報技術の研究者だけれど、こういうことをサラッとおっしゃるからおもしろいなあと思う。
もちろん、私個人としてはテクノロジーは好き。テクノロジーに期待をしている。テクノロジーはこれまでもたくさんの課題を解決してきたし、これからも解決していくだろう。それは、単純な代替や効率化だけではなく、もっと人のウェルビーイングにかかわるところでも適用可能だろう。
それでも、テクノロジーありきで考えない、というのはとても大事なことだと思うのだ。
GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊の中で素子がこう言う場面がある。
便利なものよね。その気になれば体中に埋め込んだ化学プラントで血液中のアルコールを数十秒で分解してシラフに戻れる。だからこうして待機中でも飲んでいられる。それが可能であればどんな技術でも実現せずにはいられない。人間の本能みたいなものよ。代謝の制御、知覚の鋭敏化、運動能力や反射の飛躍的な向上、情報処理の高速化と拡大。電脳と義体によってより高度な能力の獲得を追求した挙句、最高度のメンテナンスなしには生存できなくなったとしても、文句を言う筋合いじゃないわ。
技術は便利だけど、リスクでもある。両面を常に併せ持っている。