なじみについて

本郷に寄ったついでに、東大博物館にふらりと入った。本郷で時間があると、よくここに来る。牛のはく製がいた。

牛は見慣れているし、そんなに珍しいものじゃない。でも、なじめないなあと、思った。相変わらず。自分と牛との境界面を、意識してしまうから。

私が在学中の獣医学部の裏には農場があって、牛舎もあった。見ようと思えば毎日牛をみれた。実習で触れる機会もあったし、病理で解剖することも少なくなかった。

でも、なじめないなあと思っていた。教科書で構造や機能を勉強しても、病気や治療について勉強しても、触れて手術をしたり解剖をしたりしても、なんとなく、境界線がどこまでもひかれているようで、なじめなかった。

そういうなじめない感じは、別に牛に限ったことではなく、毎日会っている人間でも同じことだ。

取材で人と会って話していても同様で、なじめないなあって。

取材の内容にもよるけれど、「その人」そのものを理解する必要がある取材では、まず自分を消し去って、自分の中をその人で満たそうとする。その人を再構成するのにそれに足りない部分を質問して埋めていくという感じ。

それでも、なじめないのだ。しっくりこない。共感できないというわけではない。そうじゃなくて、自分と相手の間の境界面を引いてしまい、それを意識してしまうということなのだと思う。他人は他人、自分は自分。その通りなのだけれど、そのなじめなさは、記者として大きな欠陥のような気が、ずっとしている。

でもときどき、なじめる人がいる。なじめるような気がするまでには何年も時間がかかるし、その間にたくさん話している。でも、多分、最初の瞬間からなじめるかなじめないかは、決まっているのかもしれない。話した内容、かけた時間ではなくて。

多様性とか、複雑さをそのまま受け入れること、消極的であること、思索的であることなのかなあ。なじめるって。