アカデミアにも蔓延する「フェイク」
架空の研究者を作り、360のジャーナルに対して、エディターになりたいむねをメールしてみたところ、48のジャーナルでエディターに、4のジャーナルでチーフエディターに採用された、という実験が、Natureに掲載された。
科学研究は、専門的な知識の積み重ねがその基盤にある。知識の積み重ねをになってきたのは、専門家による査読を経た論文が掲載されるジャーナルだった。ところが、それが機能していないことが、明らかになったのだ。
スピードと競争が重視される今の時代、論文の投稿から査読を経てジャーナルに掲載されるまでの時間は足を引っ張る。そこで、査読を経ないでとりあえずアイデアを発表するとしてプレプリントを発表する場が増えている。
物理学や数学、情報科学分野では、プレプリント・サーバーのarXivにまず投稿するようになっている。
バイオ分野でも同様で、査読付きではあるがほとんど採択されるPLOS ONEなどは「トラッシュボックス」と呼ぶ研究者もいるという。
科学研究の専門性と信頼性を担保してきた、知識の積み重ねである論文が、信頼を失いつつあるのだ。
Post-truthの時代と言われる中、科学研究の分野でも「フェイク」が蔓延している。
研究不正は思った以上に蔓延している。
主に生物学の分野で研究不正を取材していた先輩が、ふとそう言った。研究のお作法は、学生や大学院生の頃に所属する研究室で先輩や先生から教えられるのが一般的だ。だから、それが「不正」だという認識がないままに、10年も20年も研究不正が引き継がれているという。
バイオの研究では、目に見えないものを様々な計測手法によって可視化するデータが研究結果の根拠になる。でも、そのデータは、時として恣意的に扱われる。例えば、特定の分子を検出するためには電気泳動が使われるが、その結果のデータをフォトショプでコントラストを強めて「データをきれいに見やすくする」ことは普通に行われる(私も学生時代やっていた)。
一方で、コントロールのデータの使い回しや、マテメソに書いていない別の細胞を使ってデータを出すといった、お作法として「アウト」の不正もある。
冒頭の先輩が言っていたのは、多くの研究者に話を聞くと、思った以上に後者寄りの人が多かった、ということだった。だが、当人たちには不正の意識は、おそらくない。研究不正事件としての告発も難しいだろう。
今の世の中で論文を読んで知識を増やすなんてやっていられない。それよりも信頼できる研究者と話すことで知識が得られる。
海外のあるエライ研究者がそう言っていたという。その分野のジャーナルは電子版を含めて無数にあり、論文を網羅するのは不可能に等しい。