観察者で当事者

 メディアは観察者でも傍観者でも第三者でもない。そうした面があるかもしれないけれど、時には当事者にもなりうる。メディアと言う集団でさえそう。記者と言う個人はなおさらだ。

 この10年、ずっとそれを考えてきた。それを相談したら、師匠は、2.5人称と言う言葉を使った。記者は、一人称でも三人称でもなく、2.5人称だと。

 今回の五輪は新聞社やテレビ局はスポンサー企業。メディアを運営する企業が当事者であり、観察者であるという状況だ。コロナ感染拡大の中で、テレビも新聞も、五輪報道が急増した。枠が決まっているテレビや新聞は、相対的にコロナ報道が減る。五輪について当事者でもあるメディアが、いま報道すべきコロナについて十分に報道できていたかというと否だ。メディアとしての責務を果たせているかは甚だあやしい。

 五輪に限らない。コロナでも同様だ。ニュースでコロナ対策を呼び掛ける一方で、ノーマスクのバラエティー番組の出演者たちというダブルスタンダード。後者を見る人達は、前者で呼びかけるコロナ対策を素直に実行に移すだろうか。

 一時期はやった?マスゴミ批判という言葉。ものごとはそんなに単純な話ではなく、社会の価値観の変化に報道がついていくこと(現場はそれを感じ取っていても、全体としての価値観が従前と変わっていない)、それに加えて観察者でありながら当事者であるという(従来から実はそうだったが)事実を受け入れながらもそれに向き合って対応していくこと、これはメディアの中の人それぞれが向き合って考えていくこと。