なぜ、人工知能と社会とか倫理とかに興味を持って、いろいろと動きまわっているのか?
人工知能学会倫理委員会の委員をやっています。もちろんノーギャラで。何をしているかというと、会議でわいわい話したり、先日の人工知能学会全国大会での公開討論の企画・準備と当日の司会したり、報告書つくったり、サイトのお世話したり。あと、同じく委員のエマちゃんとは、人工知能と社会、倫理をテーマに、これやりたいねーあれやりたいねーといつも企みごとをしていて、実際一緒にワークショップをやったりレポートを書いたりしています。もちろんノーギャラ。
先日の公開討論のことをFacebookに書いたら、「ながくらさんのこういう取り組みの価値が全くわからない」ともりやまさんにコメントをもらいました。
人工知能ブームになりつつある3−4年くらい前から人工知能とか社会とか倫理とか話題になりだして、なにそれなにそれ?っていうただの好奇心でいろんな人に話しを聞いたり議論したりとうろうろしていたら、気付いたらなんだかいろいろ自分も関わるようになっていました。なので、わからないと言われても、ただ自分の興味のままに動いているだけで特に価値とか考えていないんですが・・・と言っても納得してもらえそうにないので、なんでかなあと考えてみることにしました。
ちなみに私は人間に自由意志は存在しない派で(今のところ)、自分の現状や行動は環境とのあらゆる相互作用による身体反応の結果で、行動の理由は自分で説明できるものではないと思っています。後付けの理由ならなんとでも説明できるんですけど。でも意図を持ったポジショントークならともかく、その説明ってなんか意味あるのかなーと思ってしまうのがコミュ障といわれるとこなんですかねごめんなさい。
ですが、がんばって理由を考えます。まあ後付けですけど。ポジショントークかもしれないですけど。
お前の取り組みの価値は何だ?と聞かれていますが、価値ってなんだっけ?と価値の定義から考えて出して問いの意味がよくわからなくなったので、とりあえず問いは、「なぜ、人工知能と社会とか倫理とかに興味を持って、いろいろと動きまわっているのか?」とします。
回答1:研究者がおもしろいから
Facebookでも書いたんですが、人工知能ブーム以降、人工知能と倫理とか社会とかたびたび話題になり、研究者(工学系、情報系)の方たちに取材に行くと、「倫理や社会議論するって研究者にとってなんのメリットがあるの?」と言われることは何度もありました。ですよねーと思います。全くもって同意します。
それでも、倫理委員の皆さんを始めとして、工学系や情報系の研究者の方たちの中には、倫理とか社会とかめんどくさいことにわざわざ積極的に関わって、勉強して議論をする方たちがいます。その議論の内容も興味深いんですが、その態度や行動そのものがおもしろいなあと興味を持ちました。なんでこの人たちは、一文にもならないし、自分の研究に直接関係しない、しかも自分の専門ど真ん中でもないのにこんなに一生懸命に時間と労力を使って勉強したり議論したりするのかなあと。
一方で、そういう研究者たちの態度そのものが、社会の何かを作っていったり良い方向へ変えていったりするんじゃないかなあという期待があります。だから、彼らをちゃんと見て記録していかないと、自分にできることはサポートしないとと、見ていて自ずと思っています。それで、なんだかいろいろとやっています。
回答2:多様な人たちの多様な視点を抽出して整理することがおもしろいから
人工知能と社会や倫理を巡っては、書籍のほかいろんな組織がつくるドキュメントやメディアの記事など、ここ数年で大量のテキストで溢れかえっています。でもそれぞれ論点も視点もバラバラで、主張が先にたっていたり、根拠がよくわからなかったり、とにかく混沌としています。
私は頭が悪いので、自分の理解を助けるためにそれらの議論をちゃんと整理をしたいと思いました。そう思ってもやもやしていた2年位前に飲み会(2人ともお酒飲めないのでウーロン茶を飲む会)で話して意気投合したのがエマちゃんで、彼女は頭が良い上に、私と同じように議論の整理をしたいと思っていました。
初めのうち、私はまず人工知能と社会や倫理に関わる、いろんな人の話を聞いて、テキストに起こそうとやってみました。でも、これだと一方的で主観的な意見になりがちで、大量のドキュメントを読むのと変わりません。そうではなくて、色んな人たちの意見がぶつかって変容していく、それによって議論が整理されていく様を見たいな、と思いました。
人工知能と社会や倫理に関わる人たちは、もちろん工学系や情報系の研究者だけではありません。エマちゃんのような人文社会科学系の研究者、企業の方、行政の方、メディア(自分も)もそうです。そうした、社会の中で何らかの専門性を持つ、さまざまな領域の人たちが、「人工知能と社会、倫理」に何らかの興味を持っていて、同じく興味を持っている自分もそのうちの一人なんですが、気づくとそういう人たちが自ずと集まって議論をするようになっていました。
余談ですが、人工知能と社会、倫理(に限らないが)の議論はファクトとオピニオンを分けて議論することがとても重要だと思うんですが、専門家の人でもこの件に関してはなぜかファクトとオピニオンをごっちゃにして議論をしがちです。それだけもやっとして何がファクトか、と切り取るのが難しい領域なんでしょうけれど。
そういういろんな人たちの議論の場をつくることで、上述のようないろんな人たちの議論の整理ができるのではと思いました。そこで最近では、エマちゃんと一緒にワークショップをして、いろんな分野の専門家の人たちの話を聞いたり、議論をしたりして、それを報告書にまとめて可視化、記録することで、整理ができないかなあと模索しています。
回答3:第三者視点で書く(これまでの)記者のあり方の限界を感じることがあり、書き手のあり方を模索する上で解につながるような気がするから(?)
報道記者は、第三者の視点で取材をして書きます。そのため、記事を書く際には、第一人称視点を(読み手に感じさせないよう)消し去るように訓練を受けてきました。そういう記者のあり方では、基本的に取材対象は固定であり、記者は取材対象の変容に関与しません、少なくとも建前上は。
でも、これまでの価値観がゆらぎ、これまでの専門性ではカバーしきれない新たな価値やものの見方が必要になっている現在において、固定的な専門家の視点だけでは、社会の変化に対応できなくなっているようにも感じます。一方で、専門家が専門家ならではの見識を持って、非専門分野であっても関与していき、新たな価値観を見方を作っていくという、おもしろいことが生まれつつあるようにも思います。
で、それは多分記者のあり方についても同じで、記者が自分の職業の(これまでの)あり方に固執する必要もなく、他の職域の専門家と関わることで、あり方の模索にもつながるし、また一緒に何かを作っていけるのかもしれないのかなあとか。って、この辺あやふやで整理がついていないんですが、上でも書いたように「人工知能と社会、倫理」っていうのは価値観やあり方が定まっていないにも関わらず、これからの社会や未来に大きく関わるものなので、多様な分野の専門家が集まってきます。なので、そこでの議論や関与を通じて、自分自身の書き手としてのあり方も模索していけるんじゃないかなーっていうのは完全に後付けです、ごめんなさい。
問いへの回答は以上なんですが、Facebookでももりやまさんに回答して書いたんですが、「人工知能と社会、倫理」というテーマについて考えたり議論したり情報を得たりするというのは、誰もがアクセス可能であり、でも誰もが強制されるものではない、というものだと思っています。別に誰もが興味持つ必要はないし、興味あってもなくてもどっちでもいいし、誰かに強制されるようなものではない。上でも書いたみたいに、「それ自分に何のメリットあるの?」と興味を持たなくても別にいいと思うんです。
でも、ふと、あれ?と気になった時に、参考にできる情報とか、議論できる人や場があるといいなあと思います。これは自分の経験上。最初のうち、何だか雲をつかむみたいでよくわからなくてもやもやひとりで考えていましたが、議論できる人が欲しかったから。だから議論できる人や場づくりを今やっているのかなあとも思う。