縦目と順目
この複雑な世界を複雑なまま生きることは果たして可能か
日本酒
アルコールが苦手だ。すぐに赤くなり動悸が激しくなり、気持ちが悪くなったりする。学生の頃は飲み方もわからずよく吐いていた。たぶん、2型アルデヒド脱水素酵素がうまく働かないのだと思う。(アルコールは肝臓で1型アルコール脱水素酵素によってアセトアルデヒドに分解されたあと、ALDH2によって酢酸に分解される。顔が赤くなったり気持ち悪くなったりするのはアセトアルデヒドのため)
とはいえ飲み会は好きなので、よく行く。最初からウーロン茶を頼むか、最初にビールや酎ハイを頼むと、最後までかけて半分くらい飲む程度。赤くなったら嫌だなあとか気持ち悪くなったりしたらたくさん話せなくて嫌だなあと思うと飲めない。だいたい飲まなくても楽しいし、なんでも話せる。
ということで日本酒のようにアルコール度数が高いものはこれまでほとんど馴染みがなかったけれど、ここ数週間で立て続けにたまたま口にした日本酒がめちゃくちゃおいしくて、びっくりした。それも、ワイングラスに少なめ1杯くらいだけど、全然気持ち悪くならなかった。
昨日少し飲ませてもらった日本酒も美味しかった。
日本酒っておいしいのか。なんか今まで損した気分。
LIVING LAB HONGO
CABINはみこしだった。みんながそこに集まった。
っていう話を、CABINが撤去される直前に開かれた「さよならCABIN」といういうイベントで先生方が仰っていたのが忘れられない。
CABINは部屋の5面がディスプレイになっている没入型ディスプレイで、1990年台後半から2012年ごろまで東大IMLにあった。そこでは、工学系の先生や学生だけでなく、心理学など文系の先生方も集まり、CABINを使った研究を行ったという。
「昔の工学部は設備産業。なかなか触れない設備が、人を集める力になった。少し前には3Dプリンターやモーションキャプチャーもその役割を果たしたかもしれない。でも今は違う。原点に戻ろう。人が集まるのは、おもしろい人が集まっているところ」
と、昨夜、稲見研LIVING LAB HONGOのオープニングパーティの冒頭で稲見先生がおっしゃった。LIVING LAB HONGOは、そのように人が集まる場にしていきたいという。
昨夜のオープニングパーティは、先生のその思いがとても伝わってきて、また実際におもしろい人たちが集まり、何かの反応が起きているような熱い場だった。
いいな、と思ったのが、異なる世代間の研究者たちの反応を垣間見られたこと。
「ばーかばーか」
と、若手セッションに乱入してきた少し上の世代のベテラン勢。その場では若手がやられっぱなしに見えたけれど、あとからついったー上で若手からの宣戦布告(?)のやりとりを目にして、にやりとしてしまった。いいなあ、って。
研究者に限らず、今の日本で起きているのは、世代間の考えの乖離だ。少子高齢化と人口減少で社会が衰退期に向かっている一方で、具体的にどうしたらいいのか大きなストーリーが誰もが描けていない。その中で、「未来」の年数の違いがそれぞれの考え方に大きく影響して、世代間での乖離が進んでいるのが現状だと思っている。
その乖離自体は仕方がない。でも、問題はそれぞれの間でお互いに対する理解が進んでいないことだと思うのだ。異なる考え方の人同士の乖離が生まれているのはなにも世代間に限らないけれど。でも、LIVING LABのような、色んな人が集まる場が、そういう乖離を少しでも埋められるといいな、と思った。
それと、こういう場が大学の中にある、ということに意味があるようにも思った。少し前にある業界の大御所研究者がこうおっしゃった。
「大学はいいよ。異なる分野、業界の人達と一緒にプロジェクトを進めるために。なんでだと思う?」
と聞かれ、中立だからですか?と答えたら、
「(企業などとくらべてセキュリティが甘く)誰でも入れるから。それと大学は社会から敬意を払われている」
と笑った。
その先生は、数年前から省庁横断で産学官のプロジェクトのトップをつとめることになった。ずっと専門性を突き詰めてきたから、異分野の研究者や業界の人たちとの協働は始めてづくしという。それでも、その先生のお人柄もきっとあり、分野が違うと常識が違う、ということをすごく楽しんでいらっしゃった。
それはともかく、LIVING LAB HONGOのこれからがとても楽しみ。
「マイクロバイオームの世界 あなたの中と表面と周りにいる何兆もの微生物たち」(ロブ・デサール&スーザン・L.パーキンズ著、斉藤隆央訳、紀伊国屋書店)
マイクロバイオームの世界――あなたの中と表面と周りにいる何兆もの微生物たち
- 作者: ロブ・デサール,スーザン・L.パーキンズ,パトリシア・J.ウィン,斉藤隆央
- 出版社/メーカー: 紀伊國屋書店
- 発売日: 2016/12/01
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電王戦の終わりと、人工知能と共に生きていく人間と
コンピュータ将棋とプロ棋士が対局をする電王戦は、今年4月の開催をもって終了するという。
記者会見でドワンゴの川上さんが
電王戦をドワンゴでやっていこうと決めたときから、将棋界のことだけではなく、人間とコンピュータの関係がどうか、人間社会に示すと決めてやってきた。その意味で、人間とコンピュータが同じルールで真剣勝負をするというスタイルが果たした歴史的役割はこれで終わったと、(電王戦を)終了することにした
と言っていた。つまり、勝負にならないほどすでにコンピュータのほうがずっとずっと人間よりも強くなったのが現状というわけだ。
この今終了という時期については、情報処理学会ではすでに1年半前にコンピュータ将棋プロジェクトの終了を宣言しているし、電王戦の発表があった日にあるAI研究者とこの話をしたら、むしろ電王戦を終わるのは遅い、まだ続けるの?という見解だった。なるほど、そうだなあ。そして羽生さんは結局コンピュータ将棋との公的な場での直接対決のタイミングを永遠に逃してしまったのだなあ、今更だけれど、2年位前に言っていた話だけど。
将棋や囲碁のようなルールベースの完全情報ゲームは、そもそもコンピュータが得意とする分野。アルゴリズムとデータ量と計算機のパワーが上ば、コンピュータが強くなるのは必然だ。
だからといって、コンピュータ(いわゆる人工知能)が人を超えたということには当然ならない。が、そうはといっても、そもそも人間の知能に近づけるとして研究開発されてきたコンピュータや人工知能なので、多くの人びとの関心は高い。
でもね、コンピュータ将棋のように、人とコンピュータ(人工知能)が競い合って注目を集めるショーはすでに時代遅れ。時代はもっと進んでいる。だって、実際に「使える」コンピュータ(人工知能)がもうそこにあるものだから。じゃあどう使うか。と、だからもっとプラクティカルに考えないといけない。
それは、普通の人たちだけではなく、コンピュータや人工知能に詳しい研究者やエンジニアも同様だ。
ということで、人工知能学会倫理委員会では、研究者が社会と対話をしていくための基盤としての倫理指針をこの2年間議論して作ってきた。それが昨日の学会の理事会で承認された。
みなさまお疲れ様でした。でも、やっと基盤ができたところだから、これから、ですね。
人の感情に働きかける
「人は泣くから悲しいのか?悲しいから泣くのか?」
心理学では、「人は泣くから悲しい」という説が支持されているのだという。身体反応が先に立ち、それから感情が生まれる。
「扇情的な鏡」という作品がある。ディスプレイを鏡に見立てて、ディスプレイ上のウェブカメラに写った人の顔をリアルタイムでディスプレイに表示し、且つその顔の表情を変化させるというものだ。
白の鏡は、そこに映った顔を笑顔にする。
黒の鏡は、そこに映った顔を悲しい表情にする。
昨日、これを作ったしげおさんの作品展示とD論お疲れ様会がありました。情報提示によって人の感情に働きかける領域を、しげおさんはCybernetic Mindsと呼ぶ。
「泣くから悲しい」なら、「泣く」状態をつくってあげたら?というのがこの涙眼鏡。
眼鏡をかけると、眼鏡から水滴が目頭にでてきてあたかも涙のように頬をつたっていく。以前デモを体験させてもらった時には、悲しくなるというよりも、笑ってしまったけれど。
ところで、泣いている人を見たら、自分の悲しくなるのではないだろうか。これが「情動伝染」だ。涙眼鏡は当初は扇情的な鏡のように本人の感情をつくることを狙っていたが、展示中、涙眼鏡のデモを体験している人を横から見ていたおばあさんが、悲しくなる、と言ったという。そこから、涙眼鏡は情動伝染を作り出すのでは、と考えるようになったとしげおさんは言う。
その情動伝染をもっと便利に使おうとしたのが、「smart face」。
Skypeのようなウェブ会議システムで相手と話すとする。その時に、自分が笑うと、ディスプレイに表示される相手の顔も笑うように、画像処理されるシステムだ。自分に共感をしてくれるように感じて、共感を生むのだという。
感情は、私たちは毎日付き合っているにも関わらず、(だからこそかもしれないけれど)その詳しいメカニズムはよくわかっていない。というかメカニズムってなんだ。わかるってなんだ。
自分や他人の感情のコントロールは、すでに私たちは日常的に自然にやっている。それを情報技術でサポートする、というのはおもしろいと思う。だが、言語や表情、態度、行動といった生身の人間の言動によって自分や相手の感情をコントロールすることは日常的に行われているが、情報技術の介在がどれだけ認識されるのだろうかという不安はある。自分で気づかないうちに自分の感情がコントロールされる。日常でもよくあることだ。でも、それが誰かによって恣意的に、ツールとして情報技術を使って行われるとしたら、なんか気持ち悪いな―、種明かしを事前にしてほしいなーって、思うんだろうな。なんでだろ、自分や他人の感情コントロールそのものは日常的に行われるものなのに。
ディストピア化する社会とテクノロジー
先週号で、ディストピア小説の記事を書いた。
去年末あたりから「ディストピア」についてEちゃんとよく議論をしていて、その議論の参考にとディストピア小説をよく読んでいた。ディストピア小説とは、ユートピアを目指していたはずなのにいつの間にか個人の自由が制限された全体主義的な管理社会となる社会を描いた小説だ。
ディストピア小説というのは、ジョージ・オーウェルの「1984年」「動物農場」、オルダス・ハクスリーの「すばらしい新世界」、伊藤計劃の「ハーモニー」あたりが代表だ。最近では、昨年芥川賞を受賞した村田沙耶香さんの「消滅世界」「殺人出産」もディストピア小説と言えるだろう。2014年頃の新聞記事を見ていたら、「殺人出産」に加えて、星野智幸さんの「呪文」もディストピア小説として人気、という記事があった。
ところで、年明けに米国でトランプ政権が誕生すると、海の向こうから「1984年」がベストセラーになっているというニュースが入ってきた。国内で翻訳本の売れ行きもいいという。
それで、記事になるかも、と提案した次第。取材をするといろいろと興味深かったです。日本では第2次安倍内閣になってから急速に「1984年」の売れ行きが伸びているとか、SF作家志望にとって「ディストピア」がメインのジャンルになりつつあるとか、記事には入らなかったけれど、2000年台以降、米国の若者向けには「ディストピア小説」の新刊のヒットが相次いでいるとか。
なぜ「ディストピア」についてEちゃんと議論をしていたかというと、技術(特に情報技術)と社会を取り巻く社会像や世界観の整理にあたって、そうなってほしくないと多くの人が考える社会像を「ディストピア」呼び、これを考え整理することで、現状とそうなってほしい社会像を浮かび上がらせようとできるのではないか、という意図だった。
そもそも「今がディストピア」だよね、というのがEちゃんと私の現状認識。
情報技術は、必ずしも人を幸せにはしなかった。もちろん、効率化と便利さをもたらしてはくれたけれど、一方で、あらゆる情報がデジタル化されて管理されるということは、まさに個人の自由が制限される管理社会そのものだ。それも、ビッグブラザー的な特定の権力者によるものではなく、不特定多数の社会全体の”善意”によってその全体主義化が推し進められている。
それに苛立ってもやもやとしていた。だから議論していた。議論したからといって解が得られるわけではないけれど。
ただひとつ、現状認識をする必要はあると思うのだ。人工知能がこれほどまでにブームになっているのは、その社会的影響の大きさのためだが、人工知能とはすなわち情報技術そのものだ。情報技術はこの30年で社会実装が進み、これからもさらに進んでいくだろう。
情報技術に加えてインターネットというネットワークが整備され始めた1990年代。多くの人たちは、知の民主化と真の民主主義が実現すると口々に叫んだ。でも、実際はそうはならなかった。まとめサイトに代表されるようなフリーで断片化されたクズ情報によって、コストを掛けた知が市場原理で排除されていき、フィルターバブルによって分断されたひとびとと情報、それにPost-trueth時代と呼ばれる、事実(ファクト)がないがしろにされ、それが政治と社会を動かしているのが現状だ。
これってすでにディストピア。でも、誰も悪くない。そうしようとしたわけじゃないのだ。みんな幸せになりたい、みんなでユートピアを作ろうとして、こうなっているのだ。
人って、そんなに賢くないし、愚かだ。だから、いつも立ち止まって、振り返って、ちゃんと見ないといけない。見たくないものも、自分の嫌な部分も、あるはずがないと思っている偏見を自分が抱えているということも。
そういう振り返りというか棚卸しがあって初めて、情報技術と社会のことをかんがえるスタート地点につくんじゃないのかなあ。
ノーベル・プライズ・ダイアログ東京2017から
ノーベル・プライズ・ダイアログ東京2017と題した、5人のノーベル賞受賞研究者ら国内外の著名研究者らによる講演会が今日、東京国際フォーラムで開催された。テーマは「知の未来〜人類の知が切り拓く人工知能と未来社会〜」。正直なところ、人工知能をテーマとしていながら情報科学が専門外の方のセッションはどこかで聞いたことがあるような表面的な議論にとどまり、それほど議論が深まっていなかったというのが印象。
以下は「講演 “人工知能の未来と挑戦 (1)” -コンピューターサイエンスと機械学習-」と題したカーネギーメロン大学教授のトム・M・ミッチェル(Tom M. Mitchell)さんの講演のメモ。ほかにもメモをとった中から、アップします、気が向いたら。
AIは、私たちに2つの基本的な影響を与えているということが今日の私のメッセージだ。ひとつは、生活水準が大きく向上するということ。例えば交通渋滞の解消、洪水の対策、生産性の向上、行政サービスの向上などがある。もうひとつの影響は、その結果、倫理観や法律、冨の配分、我々の自己認識などについて、見直しの必要があるということだ。
AIの動向をもとに、今後10年間に何が起こるのか、我々にどのような影響があるのかを見直したい。
ひとつ、AIの大きな影響が、コンピュータビジョンといった知覚の技術だ。コンピュータビジョンの精度がここ5年で飛躍的によくなり、誤差レベルは人の視覚レベルにまで下がっている。短期間のうちに、大きな前進があった。
音声認識も同様に進展があった。マイクロソフトが昨秋公開した音声認識セットは、ほぼ人間と同じ精度で認識ができるようになった。
それからロボットは、自動走行車だけでなく、無人の飛行機、掃除機、農場や鉱山でも無人機が作業をしている。
もうひとつ大きいのがゲームといった合理的な認識の分野だ。昨年、Googleのアルファ碁は、人間のプロ棋士に勝った。ほかにもフェスやポーカーでも人間はAIにかなわない。
これらの背景には何があるのか?その答えはおもに機械学習が大きく進展したことだ。AI研究者の戦略が変わった。
かつての研究者の戦略は、アルゴリズムを書くというものだった。でも今は、トレーニングをさせる。大量のデータから学習をさせるのだ。
例を見せて機械が学習をさせる。例えば、母親の写真を判別したい。これが母親の写真、こっちは母親ではないと、正解と不正解の例を上げて学習をさせる。機械は画像のレベルで区別ができるようになる。それが機械学習だ。
従来のように一行ずつルールを書くのではない。この機械学習は様々な問題に汎用的に活用できる。すでに何千もの商業的な問題が機械学習によって解決されている。
例えば、電子カルテで肺炎の診断をするとする。分類して特定の治療が効果を挙げるか。クレジットカードの不正利用を判定できるか。機械学習やデータをつかって機械をトレーニングさせることが、今、AIが大きく伸びている根底にある。
すでに社会にはこれらのインパクトが始まりつつある。ここ10年以上続いているデータ集約型のエビデンスベースの意思決定がますます強まっている。これが生活のあらゆるところで見られる。それにビッグデータを機械学習で活用することで加速している。新たな経験主義の時代が始まっていると言えるだろう。
では、次のAIはどうなるのか?
自身を持って言えるのは、これからも機械学習の活用は進むということだ。より多くの組織がより多くのデータを集めている。内部プロセスの最適化や顧客ニーズへの対応がなさている。
もうひとつのトレンドは、人間を超える(superhuman)ような視覚や聴覚を実現するツールだ。すでに検証は始まっている。例えば私はコンタクトレンズをしているが、これによって視力を挙げている。コンタクトレンズや補聴器のように、人間の能力を超えるようなプロダクトは、ビジネスになるだろう。
もうひとつは、機械として本当に理解ができるものだ。検索エンジンはすでにありキーワード検索はできるが、検索エンジンは意味理解はしていない。今後AIの進展でテキストの理解を機械ができるようになれば、画期的なことになる。
なぜなら、コンピュータは人間の何百万倍もの書籍の情報を読み込める。検索エンジンが今のような形ではなく意味理解ができるようになれば、読書アシスタントができて、何を読み込めるのかをベースに一段落にまとめ、こういう引用がある、という情報として提供してくれることになる。
これが実現するなら大きな影響があるし、私は実現すると思っている。
もうひとつのトレンドとして、対話型アシスタントがより普及するだろう。今でもスマホに天気を聞けば答えてくれるが、より進んだものだ。
例えば、私はピッツバーグに住んでいるが夜雪が降ったら翌朝はいつもより30分早く目覚ましをかけてくれるアプリがあるといい。「夜に雪が降ったら30分早く目覚ましをかけてね」とアプリに言うと、でもアプリはそのやり方がわからないから教えてくださいと言う。では、天気予報アプリでsnowと書いてあれば雪が降るということだ、といったように会話で、自然言語で教える。これは、会話でプログラミングをしているということだ。雪が降る状態を検知さえすれば30分早く起こしてくれるようになる。これがAIの目指す方向だ。
これは10年で実現すると考えている。我々全てがプログラマーになるということだ。今でもソフトウェアの書き方を知っている人はいるが、何10億人という人が会話でプログラムができるようになる。カスタム化をしたりアイデアがある人達が桁外れに増えていくだろう。
これが今後起こりうるものの例だ。それが社会、我々の自己認識をどのように変えていくのだろうか。
まず、都市部における生活をかんがえるとする。自動走行車が出てきたらどうなるか。プラス面としては交通渋滞や事故がなくなるだろう。交差点でも人間をうまくかわしながら車同士が融通し合う。駐車スペースも増える。都市部で混雑していれば、郊外に駐車することもあるかもしれない。
車のセンサーが、都市の行政当局に情報を上げていき、都市の全体像が見えるようになる。センサーネットワークに支えられた都市が実現する。そこからのデータに対して機械学習を適用すると、予測ができるようになる。ある場所で人が混雑し始めたら、30分後にはどうなるのか、増えるのか減るのか予測ができるようになる。バスを増員するとか警察を出動させて群衆管理をするという計画をたてることができる。都市としてはより知的になる。
例えば救急車が自動走行車に停止するように指示するとか、オートバイが救急車の妨害をすることがないように操作をするといった、アクチュエータ管理も可能になる。
そうすると政府の役割が変わる。情報を使って何かを制御するかわりに、情報を提供することも必要になる。
もうひとつが雇用の影響。自動走行車が増えればタクシーは減る。しかし自動化が進まないものもある。逆に機械によって、人間の能力を超えるメガネや補聴器をつけて警備員はもっといい仕事ができるようになる。それからワークフロー支援もある。
AIはプラス面とマイナス面両方の影響が雇用の面で出て来る。仕事をやりやすくする面もあれば、なくなる仕事もあれば、新しい仕事も出てくる。再訓練も重要になる。
オンラインの学習システムはAIによってより柔軟に学習ができる。例えばUBERをやっている人はやりたいときに仕事ができる。AIによって乗客とドライバーをマッチングさせる、ほかにもマッチングはありうる。
一方で、一番気になっているのはこれ。AIの進歩によって全体的な雇用に対して影響はどうなるのか。富の分配について格差がさらに広がるということだ。AIによって全体のパイは広がる。ところが所得配分の格差が広がるとなると、AIを指示する人はいない。雇用でなくなる職業は、もともと高所得でないものということだ。
それに対してまず教育を向上させるためにAIを使うことになる。富の格差、所得格差には対応が必要だ。
一部の職がなくなる一方で、本当に必要なものはなにか。そこで職業訓練をする必要がある。
もうひとつ、考えたいのが、我々自身の自己認識はどうなるのかということ。私自身ネットで変わった。友人とのやり取りが増えた。テキストやメッセージ、Googleでの検索で知識レベルは上がった。
人間の能力を超えるようなメガネや補聴器が出てくると、私たちの体に対しても大きな変化がでてくる。そうすると、自分の価値をどう見出すかについても影響が出てくる。
最低限の所得補償がされても、コンピュータに仕事を奪われているということで、自分は本当に社会に貢献しているのか疑問を持つ。自分よりもコンピュータのほうが役立っているとなると、自尊心にも影響が出る。
AIが加速的に変化しているのは事実だ。
「「軍事研究」の戦後史:科学者はどう向き合ってきたか」(杉山滋郎、ミネルヴァ書房)
科学史が専門で、北大教授の杉山先生による「「軍事研究」の戦後史:科学者はどう向き合ってきたか」は、戦中から今に至る、軍事(安全保障/防衛)研究とアカデミアをめぐる出来事がまとまっていて、大変便利な本でした。
国の安全保障政策の動向はもとより、2015年度から始まった防衛省(防衛装備庁)の競争的資金により、アカデミアと安全保障技術研究のあり方が話題になる昨今、ここ70年くらいの間、日本人がどう向き合ってきたか、さらっと抑えられます。
この本では「軍事研究」は以下のように定義する。
(1)軍(および軍関連機関)が行う研究
(2)軍(および軍関連機関)が資金、設備、ロジスティクス、その他の面で支援する研究
(3)戦争や紛争に関連して用いられるもの、または用いられる可能性のあるものに関する研究
防衛省および防衛装備庁はここでいう軍(および軍関連機関)に含まれる。防衛省(防衛装備庁)は2015年度にアカデミアなどでの「基礎研究」に研究助成をする「安全保障技術研究推進制度」を始めた。この制度についてはAERAでも書きました。
それまでは、建前上、国内の大学などのアカデミアはいわゆる「軍事研究」には関与しないことになっていた。一般に、大学などのアカデミアの研究費は文科省からの運営費交付金の他、文科省、経産省など各省庁の研究助成制度による競争的資金によって賄われる。公には戦後初めて、防衛省がスポンサーといういわゆる「軍事研究」と言われる競争的資金ができた。
そこで各大学やアカデミアで議論が起こり、昨年4月から日本学術会議が議論を始めた。学術会議は戦後2度にわたって「軍事研究」の禁止をうたっている。今回の検討では、その禁止の宣言が変わるのかどうかが焦点となっている。先日の検討会で出された声明案は、これまでの「軍事研究」禁止の方針を継承するものとなっている。
ということで、ここ数年アカデミアや科技系の記者の間では「安全保障技術研究とアカデミア」というのは大きなアジェンダになっています。
それでこの杉山先生の本。意外だったのは、日本学術会議を始めとしたアカデミアで「軍事研究」反対の機運が強まったのは、戦後20年かけてというくだり。第二次世界大戦での「科学技術動員」への反省、憲法9条を根拠に「軍事研究」を否定する声が大きいから、戦後すぐなのかとおもったらそうでもない。
そして戦後20年かけてというと、学生運動、左翼の活動、全共闘と重なる。この本は出ていないけれど、大学紛争時に東大全共闘が当局に突きつけた要求の中には学問の自由を守るために、産学連携とともに軍事研究を放棄することが含まれていたと聞いた。学問が独立して自由であるためには、産業と結びつかないこと、それを並列で軍事が扱われたということだった。(このあたり人から聞いただけでちゃんと調べていないのであやふやですが、ちゃんと調べます)
もうひとつ興味深かったのが、防衛省(当時は防衛庁)が90年代に文科省の科学技術振興調整費による競争的資金に応募していたという話。
いわゆる「軍事研究」といっても分野は多岐に渡る。工学だけではなく、理学、医学ももちろん含まれる。最近では日本学術会議で民生にも軍事にも使える「デュアルユース技術」について報告書が作られたのは、Natureに掲載された河岡さんたちによるインフルエンザウイルスの合成技術からの、バイオテロの懸念の議論がもとになっている。
その点から興味深いのが、旧日本軍に731部隊と、その跡地に戦後設立された予研(現在の国立感染症研究所)の体質、感染症研究にいつもついてまわる黒い影だ。だいたい731部隊の関係者は全員免責されたうえで米軍からの事情聴取を受けていて、いまだその内容は明らかになっていないし、責任の所在も不明なままにあやふやになっている。今の「軍事研究」とはまた別の話だが、このあたりと戦後の予防接種行政含む感染症対策とか、血液対策課あたりとかの関連性をちゃんと調べると結構面白いのだと思う。
また個人的に興味を持ったのは、生物兵器とアカデミアという文脈で80年代後半に新聞を賑わせたのが、我が母校の北大獣医だった。公衆衛生学教室でハンタウイルスの研究をしていた助手の先生が、米軍の施設で研究をしていたことを毎日新聞が一面で扱った。
恩師に電話をしたついでに当時の話を聞いてみたら、「新聞社とかマスコミが毎日来ていて仕事にならなかった。●先生は相当悩んでいたし、大変だった」ということでした。仕事の邪魔をするのは良くないよね、自戒。
ということで読んで大変勉強になる本でした。
ちなみに私、北大の学部1年生だったころに杉山先生の科学史の授業をとっていましたが、ほとんど記憶にありません。ごめんなさい。今になって教科書をひっぱり出してきて読んでいます。
めんどくさい、は実はおもしろい、だったりする
この前の◯◯さん(上司)、なんだったの、めんどくさい。
と同僚が言い、私は何のことか、思い当たらなかった。
私にとっては記憶に残るほどめんどくさいことでもなく、重要なことでもなく、サラッとその場で聞き流して忘れてしまう程度のことだったんだろう。
めんどくさい、って後々まで記憶に残っていることって、実は自分が関心を持っている、自分にとって重要なことなのかもしれない。
テクノロジーも同じようなところがある。もっと正確には、意識しないほうがいいテクノロジーと、意識するテクノロジーの2種類があって、後者は、たぶん、めんどくさい。何かが引っかかって、それが大事。そこを区別しないと。
便利や効率化につながる情報技術は、基本的には前者だ。効率化をはかる情報技術は、目に見えないものの方がいい。私たちが意識しなくても、気付いたら効率化されて、便利になっている。そういう空気みたいな、テクノロジーがいい。
一方で、後者としての情報技術もある。問いをつくる、ようなもの。人に考えることを強いるもの。だから、めんどくさい。
でも、めんどくさいものが、記憶に残る。印象に残る。ずっと考え続ける。それで、あ、これはおもしろい、なのだと気づく。
WIREDの科学特集についてもやもやしている友達に話すことの整理
WIRED最新号の特集は「サイエンスのゆくえ」。
村上陽一郎さんの寄稿を始めとして、科学哲学の色が濃い特集だ。これを読んだKさんがもやもやと感じていることをインスタでメンションをくれたので、今度会うときに彼女に話したいことを整理しようと思う。
編集長の若林さんの、科学とテクノロジーの現状認識は、とても悲観的だ。巻頭のEDITORS LETTER(私は若林さんが書く文章が好きなので、真っ先にここを読む)で、民主主義と自由経済にのっとった社会と、その上での研究者の認識の課題、科学とテクノロジーの現状についてこう述べる。
科学者や工学者が「ロマン」ということばをしきりに使ったり、子ども時代に見たマンガやアニメの影響を喜々として語りたがることに違和感を覚えるのはそれがまるで、動機の純粋さを語ることで自分たちの「価値中立性」が担保され、価値判断から免除してもらえることを望んでいるのように聞こえるからだ。
けれども、科学とテクノロジーと資本主義が巨大機構をなして、社会も人も置き去りにし(とくにはなぎ倒しながら)、もはや誰が望んだのかすらわからない「未来」を切り開いてしまう時代にあって、「純粋さ」は何をも担保も正当化もしないだろう。それに気づきはじめたのか、科学者たちは最近もっぱら「社会課題の解決」を語る。なんにせよ、いまどき科学をやるにはなんらかの免罪符が必要、ということになるらしい。
この息苦しさの理由として、若林さんは「自由がない」ことを挙げる。その上で、
「科学はどこからきて、どこへいくのか」という問いは、「科学はいかに『自由』を取り戻すのか」を意味しているのだと思う。
と締めくくる。
また、ウェブで公開されている「ポスト真実」と科学の終わりー特集「サイエンスのゆくえ」に寄せてとしたテキストも同じトーンだが、最後はより過激なトーンになっている。
科学が、その上に築きあげられた壮麗にして複雑な社会機構の奴隷になってしまっているのだとしたら、科学は自らをその軛から解放し、いまの「当たり前」に傲然と中指を立てることのできる場所を探すしかなさそうだ。
Kさんの違和感はきっと、なぜこんなに科学が大仰なものとして扱われているのか、という点のようだ。
それに対する私の答え、というか教科書的な答えはこうだ。20世紀に入ってから、科学は「制度化された科学」の時代に入った。政府や企業による制度のひとつのピースとして科学の研究は推進された。それを推し進めた原動力は、ひとつは戦争。もうひとつは、経済だ。その中で、本来異なるものであったはずの科学とテクノロジーは、両輪として扱われるようになった。日本の戦時中の「科学技術動員」はそのいい例だ(なお、戦後の「科学技術庁」をはじめとしていまだ行政用語として脈々として使われている「科学技術」という単語は、このときの科学技術動員に端を発している)
戦後日本は憲法9条によって戦争を放棄したことになったので、科学技術の推進の原動力は経済となった。
それでも、科学技術への期待がそれほど大きくなかったーというのは、産業とアカデミアが良くも悪くも分離していた時代のことだ。経済に貢献する研究は企業の中でやっていればよかった。予算規模が断然小さいアカデミアは、教育を盾にして、ある程度自由に研究ができたーころは、それほど注目されなかった。
ところが、先進国の経済成長が低迷するとー拡大と成長を前提とする資本主義では、常にフロンティアへと拡大をしていかないと、その状態を維持することはできない。植民地支配や戦争による領地拡大というフロンティア開拓の手段を失うと、自ずと成長は低迷する。成長をしないことはすなわち衰退なのだーフロンティアを、テクノロジーによるイノベーションへと求める風潮が高まった。それが幻想なのか現実的な解なのかは、わからない。ただ、社会経済、そして政治はそれを求めている。
だから、科学技術への期待が高まった。そして、より経済との結びつきが強くなった。これが私の科学技術の現状認識だ。この現状のフレームの中で、ものごとを考えざるを得ないのが今なのだと思う。
だから窮屈だ。自由がない。その点で、私の現状認識は若林さんとほとんど同じ。
では研究者はどうするのか。私が新聞社をやめてからこの5年、右往左往しながら手当たり次第にいろいろとやって考え続けてきたのは、そこだった。
社会と科学技術の距離が近くなった。社会が向かう方向性は不確実性にあふれている。誰もが解をもたない。
それならば、研究者は研究者以外の人たちと一緒に社会をつくっていったらいいんじゃないのか。というのが今なんとなく思っていること。政治、経済、社会の決められたシステムの中で決められたゴールに向かって駒のように研究を続けるのが現状ならば、そのシステムをつくるところから研究者が関与していってはどうなのか。システムの向かう先について、政治も経済も社会も解をもたないのだから。
っていうはやすし。。。すみません。
消極的に生きる
依存とコミュニケーション
*先月、依存の特集のために取材をしていたときに書いた備忘録
「ネット依存症」という疾患がある(もっとも精神疾患の国際的な診断基準には含まれていない)。ネット依存、というとSNS依存のように1日中ネットを見ている状態を指すのかと思ったが、そうではないらしい。
ネット依存症として精神科医の診療を受けているほとんどがオンラインゲーム依存の中高生だ。オンラインゲームが普及する以前の、据え置き型ゲームでは、臨床上精神科医にかかるようなゲーム依存に陥ることはなかったという。
ひとつは、ハードウェアの制限。据え置き型ゲーム機では、家でテレビの前でしかプレイができない。一方で、オンラインゲームではスマホであればいつでもどこでもプレイができる。
もうひとつはソフトの問題。据え置き型ゲーム機では、買い切りが基本なので、ゲームには終わりがある。一方でオンラインゲームでは、永遠に終わりがない作りになっている。終わりがない、だけではなく、飽きずに続けてもらう必要がある。ゲームでは、何かをクリアすることによる達成感という「報酬」を得ることができる。その報酬を得られ続ける設計がされている。
ということで、そもそもオンラインゲームは、ゲームを死続けやすい構造にはなっている。だが、それだけでは依存にはならない。
なお、依存そのものは必ずしも悪いわけではない。だが、臨床上問題になるような状態は、(1)社会生活を送る上で支障が出る(ゲームばかりやっていて朝が起きれない、学校や仕事にいけない、課金が支払い能力を超える)、(2)本人の健康状態に支障が出る(スマホの触りすぎで腱鞘炎になる)、(3)周囲に迷惑をかける(ゲームのやりすぎを家族に指摘されて暴力を振るう等)、の3点と複数の専門家が指摘している(他の精神疾患でもだいたいこの3点)。この3点に陥る依存の状態は問題があり、何らかの対応が必要と考えていいだろう。前述の「ネット依存症」として外来や入院する人たちは、概ねこの3点の状態になっている。
問題のある「依存」の状態に陥るには、ひとつはゲームそのものの特徴でもある「報酬」を得られ続ける体験に加えて、コミュニティの形成が重要になっているようだ。
ナビゲーションに地図はいらない
仕事がら、初めて訪れる場所へ行くことが多い。iPhoneのグーグルマップで目的地を検索して、iPhoneを見ながら目的地まで向かう。
正直、めんどうだ。いや、一昔前は地図をプリントアウトしてそれを持ち歩いて見ていたから、当時と比べたらプリントアウトを事前に用意して持ち歩かなくていいし、GPSのおかげで自分の位置がグーグルマップ上に表示されるし、便利になったといえば、なった。でも、スマホを手に持って見ながら歩くのは、正直めんどう。
「グーグルマップのナビゲーションって不完全で、本来なら目的地を入力したら、そこまで連れて行ってくれるといいじゃないですか」
って言っていたのはVRの研究室にいるNさんで、それを聞いて、おお、それだ、と私は膝を打った。
でもそれ、つい最近見たわ。と思い当たったのが、少し前に取材で乗らせてもらったテスラのモデルS。モデルSにはオートパイロットモードがあり、音声認識で目的地を指示すると、運転席横の大きなディスプレイのグーグルマップで行き方が表示されるだけでなく、自動走行でそこまで連れて行ってくれるのだ。
車に乗っていなくても、歩きでも、オートパイロットでナビゲーションをして欲しい。
ということで、明日発売号の地図特集にあたって、私が提案したのは「消える地図」。目的地まで行くナビゲーション用途の地図は消えていい、地図がなくてもナビゲーションはできる、という話。
NTTの研究所が10年ほど前から開発をしている「ぶるなび」はまさにそんなナビゲーションを実現してくれるデバイス。スマホを手に持つと震えて一定方向に引っ張ってくれるのだ。
手に持つだけで、スマホの画面を見なくても目的地まで引っ張っていってくれるナビゲーションが実現したら、いいなあ。。。