クイーンと大きな物語

ボヘミアン・ラプソディ」を観た。同じ映画館で年末と年明けに2回。どの曲も知っているし、なんなら口ずさめる。周囲の人を気にしながらも、音楽が流れると体が自然に動き出す。


映画『ボヘミアン・ラプソディ』最新予告編が世界同時解禁!

20年前の高校生の頃、クイーンのアルバムを数枚、輸入盤CDで購入した。購入したお店はたまに寄り道するHMVか、ほぼ毎日帰りに寄っていた近所のブックオフで中古だか、とにかく輸入盤CDだった。

バイト禁止の高校生のお小遣いでは1枚3000円以上する国内盤を月に何枚も買うわけにいかず、中高生の頃は自ずと海外の、それも昔の音楽を聴くようになっていた。輸入盤が安かったし、近所のブックオフでは中古CDがたくさんあった。

クイーンを知ったのは何でだったか覚えていないけれど、70年代はこの音楽を抑えないといけない、という、教科書的使命感から、T-REXとかボウイとかを聞いていたのと同じように、片っ端から視聴していた中に当然入っていた。

「70年代はこの音楽を抑えないといけない」という教科書的使命感は、中高大くらいまでの自分のあらゆる消費行動を規定していたし、90年代くらいまでの音楽ではそういった誰もが共有できる評価指標がなんらか、あった。オリコンチャートとか、MTVとか。

大量にある情報の中から選択をするのは、非常にコストがかかる。社会全体が共有している評価指標がある中では、ヒットチャートとかアルバム販売とかライブ動員数といったわかりやすい指標が選択を助けてくれて、自分が好きなものも良いものもわからない中高生の自分には、それらはおおいに助けになった。

クイーンが好きなのか良いのかは未だわからない。ただ、10代の頃に繰り返し繰り返し聴き(多くは勉強中や移動中のながら聴きだけれど)、なんなら意味がわからないままに歌詞もうたえるようになっている耳馴染みのいい曲がたくさんある、ということ。そしてそれを繰り返し聴きたくなる、ということ。

CDアルバムはあれどもプレイヤーがない自宅でも、YoutubeでもAmazon musicでもクイーンの音楽は聴けるし聴いている。でも、「ボヘミアン・ラプソディ」を2回観たのは、ひとえにクイーンの音楽を映画館で聴きたかったからだ。


Queen - Live AID 1985 Full Concert (Best Version) (HD)

もうひとつ、ライブ・エイドの映像に感動するのは、何億人もが同時に共感する共通の音楽への憧れなのかもしれない。誰もが知っている、誰もが口ずさめる、そういった音楽が世の中から消えて久しい。社会は大きな物語を失って、それに変わるものがないままに、私達は自分で自分の物語を作っていくこと、選択していくことを強いられている。それは個人が尊重されている、選択肢が多い(のはいいことだ)とも言える一方で、大変めんどくさい現実だから。