電源と酸素
某シンポジウムの会場に着くなり、Oさんは「電源、電源」と言い、各席に電源があるのを確認すると、PCを出して充電を始めた。某シンポジウム会場は大学内の施設なので、最近では各席に電源があることが多い。Oさんが電源を求めているのはいつものことで、先日の某講演会は会場が教会で各席に電源はなく、「教会の椅子に電源がない」とツイートしたのを私たちは大いにネタにしてOさんをいじったものだ。一般には教会は大学のようにPCを持ち込んで作業をする場ではないとされている。
とはいえ、そういう私たちだってOさんのことは全く笑えなくて、日々オンラインで情報のやりとりをしている私たちにとって、電源とWi-Fiは今や酸素のようなものだ。ないと生きていけない、とうそぶく。
便利さと不自由さは、セットだ。電源とWi-Fiによって私たちは日々オンラインにアクセスする便利さを手に入れたけれど、それが通常の状態になると、電源とWi-Fiなしでいることに不便さを強く感じるようになった。私たちは電源とWi-Fiに支配された、不自由な状態を受け入れざるを得ない。
最近は役所も企業もサイバーフィジカルシステムだとか第4次産業革命だとか勇ましい。だが、いずれにしても技術依存の状態を作り出すことにほかならず、個々人にとっては技術(とその支配的立場にある人々)に隷属することに等しく、ある種の自由が奪われるということは誰もが自覚しておきたい。