VRとクロスモーダルとサイバネティックスシミュレーション

 日本バーチャルリアリティ(VR)学会という学会がある。記者になった1年目に科学技術部の所属で、当初担当だったバイオからITに担当が変わってすぐのときに、ひょんなところから、VR学会の中心人物である廣瀬先生の取材に伺って以来、どういうわけかここ10年近く、VR研究者たちとの付き合いが続いている。長い。

 当時はVRブームではなかった。そのころのVR研究界隈でよく聞いたキーワードは、「高臨場感」だった。ちょうど4Kテレビが市場に出つつあり、8Kの開発が進んでいた時期だ。それまでリアリティを高めるというと、解像度を上げること。ところが、すでに解像度を上げることでリアリティを高めることは限界に達していた。

 そこで、マルチモーダルによって臨場感を高めるという方向性に移行しつつあった。マルチモーダルというのは、視覚だけでなく聴覚、触覚、嗅覚、味覚と、人の持つ五感にフルに訴えかけるということだ。聴覚に関しては音響技術が別途進んでいたし、研究分野でその頃おもしろかったのは、触覚ディスプレイなどの触覚技術だ。嗅覚ディスプレイと味覚ディスプレイは難しくて、工学的に実装するメドはついていなかった。

 でも、モダリティを多くしてリアリティを高めていくには、限界がある。ちょっと想像すればわかるが、HMDで視覚、ヘッドフォンで聴覚、触覚ディスプレイを指につけて・・・と身の回りにたくさんの機器をつけて、まるで自分自身がロボットのようになってしまう。現実的じゃない。

 そこで高臨場感の研究の取材には飽きてしまった。

 またVRに興味が戻ってきたのは、3年位前に誘われて、クロスモーダルの研究会を手伝うことになったのがきっかけだった。

 クロスモーダルは感覚間相互作用と言い、マルチモーダルが五感のそれぞれをバラバラに考えて足し算をしていくのに対して、いくつかの感覚によって別の感覚をつくりだすことでリアリティをつくりだす。たとえば、かき氷は見た目の色とにおいで、いちごとかメロンとかいった味を感じさせると言われている。いわば、脳を「だます」ということだ。錯覚もここに含まれる。心理学や認知科学で得られた知見を、工学的なものづくりに活かそうとする試みだった。

 高臨場感の研究で課題になっていたのは、触覚をいかに再現するかということだった。触覚ディスプレイを工学的につくりだすと、ほとんどロボットになる。一方、クロスモーダルの考え方では、メカメカしい人工物を使うことなく、触感を再現できる。たとえばシュードハプティクス(偽触覚)では、見た目を工夫することで、視覚の効果だけで指先に目的の触感を再現することができる。

 最近になって、またVRブームと言われるようになってきた。ヘッドマウントディスプレイ(HMD)やモーションキャプチャ等の、VRを実現するためのデバイスの価格が安価になり、手に入れやすくなったこと、スマートフォンや常時接続のネットワークの利用が当たり前になったことなどから、近年VRへの一般からの注目度が高まっている、と言われている。

 VRの研究では、かつての環境そのものを再現しようとするものから、クロスモーダルのように心理学や認知科学などの知見から人間の性質や特徴にもとづいて理解をして、人間の能力や機能の拡張のために工学的に活用していこうとする流れへと変化が起きている。

 このような人の性質や特徴を理解して活用しようとするVRの研究成果は、人とコンピュータ(機械)をつなぐインターフェイス技術として社会実装されつつある。また、これまで勘や経験に頼っていたプロダクトやサービスの設計にも、これらの知見が活用されつつある。

 情報技術の社会実装が高度に進む現代社会では、コンピュータ(機械)のインターフェイスによって人間の知能や活動が拡張される一方で、制限されたり操作されたりする懸念もある。

 この懸念は、人間個人だけじゃなく、集団としての社会全体にもかかってくる。

 サイバネティックシミュレーションという考え方がある。技術的にはライフログインターフェイスを組み合わせることで、本人が意識をすることなく、個人の行動変容や社会の誘導を行うというものだ。

 例えば、ここで紹介されている研究では、「ヘルシー」が良い方向とか「渋滞なくす」が良い方向というのはわかりやすいが、このような「良い方向」が多くの人に合意されるもの以外の何にでも応用できる。「良い方向」が議論がある場合、誰がどう決めるのか。

 また、社会システムに実装されたら権力者による被支配者の誘導ツールとして有効だ。すでにそうなっている部分はあると思うが、情報技術が進めば進むほどより社会実装されていくものなので、議論するべきことと思っている。

 ここまでくるとVRじゃないんじゃないかという気もするけれど、いずれにしろVR研究から派生してきた、このあたりをずっともやもやと考えています。