人間とテクノロジー

人間とテクノロジーについて、取材とか思ったこととかの備忘録

東大制作展雑感もろもろ

東京大学制作展”Dest-logy REBUILD”の雑感です。制作展は情報学府の授業の一貫でM1を中心とした学生さんたちが企画から運営、作品の出展などを行うメディアアートの展示会で、毎年この時期と初夏?にあります。近所ということもあり、だいたい毎回週末に観に行っています。東大だけでなく、東京藝大など他大学の学生さんたちとのコラボ作品も多く、工学なのか、アートなのか、デザインなのか、そのあたりの要素がまぜこぜになった、普段見ている研究とは一味違う、とても面白い作品たちに出会うことができるので、毎回楽しみにしています。

体験していろいろと考えることがあった点では、自分の3Dスキャンから自分のアバターをその場で作ってドッペルゲンガーを体験する「二重人殻」が面白かったので以下で思ったことをつらつらと書きました。

kaetn.hatenablog.com

ところで、その場で3DスキャンしてVR空間に自分のアバター取り込んだコンテンツ体験できるって、アプリなどツールが充実してきたおかげではあると思うけれど、技術の進歩とコモディティ化のスピードの速さを感じます。

THKのロボットが案内をしてくれた

2階フォーラムでは、会場案内ロボットがいました。制作展の会場は、3ヶ所に分かれていて、フォーラムから他の展示場へ案内をしてくれます。正面にたつと話しかけられ、どちらへ行くかを対話で選びます。選択した場所へ行くためにロボットが先導してくれました。

後ろについていきます。

こちらです、のポーズ。

 ところでこのロボット、ハードはTHKのSEED Platformを利用していて、ソフトは共同研究をしているJSKが開発。ヒューマノイドと言えなくもないけれど、溢れ出る産ロボ感がありました。

ロボットに抱きしめられ、恐怖を感じた

ロボットでは、ロボットに抱きしめられる展示がありました。「Electric World」という作品で、世界観とストーリーが作り込まれていました。なんですが・・・

 

 これに対して、以下のリプを頂いたんですが、なるほどと思いました。

 

ただ一方で、信用(信頼?)ってどうやって生まれるのかな、とも思いました。人に対するそれとロボットに対するそれはまた異なるのではないかと。ロボットへの不安や恐怖は、その力の強さというよりも、故障など不測の事態のリスクが含まれるためではないかと思いました。そしてそれに対する信用や信頼は、ゼロリスクはありえないので、どのように構築していくのか、と、また答えないんですが。

さわる顕微鏡は普通に売れそう

指先にレンズ、センサー、振動子を付けてプレパラートの上を触ると、拡大して画面に表示する触る顕微鏡は、普通に売れそうだなと思いました。細胞の上を触るつぶつぶ感も触覚提示します。稲見研の大伏仙泰さんによる「Feelable Microscope」という作品。

指先にデバイスをつけてプレパラートの上を滑らせると、触れた部分の拡大画像がディスプレイに表示されます。観察しているのは赤玉葱で、細胞壁に囲まれた細胞ひとつひとつがくっきり見える。

指先にレンズがついています。

病理をやっていた学生時代は一人一台オリンパスのどっしりした顕微鏡を使っていましたが、細胞診や術中迅速診断などでは、こうした簡便な顕微鏡が使えるのではないかなあと思いました。最近ではスマホ顕微鏡もあるけれど、知人の病理医によるとスマホ顕微鏡でもある程度診断できるそうです。

ほかにもいろいろ

顔認識からその瞬間の生年月日を推定するシステム。秒ごとに推定が変わるのだけれど、だいたい実年齢より若く表示されるけれど、あえて配慮されているのかしら??

センサーの上で手をぐるぐる回すと、水槽の中で渦ができる。

 

ドッペルゲンガーVR「二重人殻」で思った、自分を自分と認識することの難しさ

11月19日まで開催中の東京大学制作展で出展されている、畑田裕二さんの「二重人殻」というVRコンテンツが興味深かった。

iPhoneアプリで顔や全身をその場で3Dスキャンした、自分自身の3Dのアバターが、HMDを被って体験するVR空間の中で、ドッペルゲンガーのように現れるVRコンテンツだ。

HMDを被ると、VR空間内の部屋の中で製作者の畑田さんのアバターが現れ、鏡の前へ誘導してくれる。そこで、自身のアバターと対面する。畑田さんはリアルタイムでその場で実際に動いたり話したりしているが、その動きがVR空間内に反映される。VR空間内で、自分のアバターが自分の動きとは独立に、畑田さんのアバターに暴力を振るったり、または振るわれたりするなどして、動く様子を三人称視点で見る。後半、自分のアバターが100体に分裂したり、小型化したりする。リアルの自分の動きを、アバターに反映することもできた。最後は、畑田さんの動きを反映した自分のアバターが自分に向かってくる。つまり、自分と自分が対峙する状態になる。

このとき、それまで体験中に感じていた違和感がはっきりとわかった。私は自分のアバターを自分として認識しきれていなかった。

VR体験は、HMDを被ってからの演出が、その世界に没入するためにとても重要な働きを果たすと思っている。その点で、畑田さんの演出はとても上手で完璧だったと思う。

ただ、3Dスキャンして作った自分のアバターを自分として認識できるかどうかはまた別問題だった。

自分を自分として認識することは、案外ハードルが高いことなのかもしれない、と思った。ただ顔の見た目が同じだけでは自分として認識するわけではない。今回の体験では、全身スキャンではなく顔だけのスキャンだったため、身体は既存のモデルを使った。そのためか、身体の動きが不自然だったこと、また既存のモデルが来ているような白シャツとパンツと言う組み合わせの服装を私は普段しないこと、また顔も3Dスキャンしていても、後頭部あたりは欠けていることなどから、自分のアバターを自分として認識しなかったのかと思った。

もうひとつはドッペルゲンガーのように、自分の意図と独立で動く自分のアバターの場合、行為主体感がないために、それを自分と認識しないのではないかということ。体験の中では、リアルの自分の動きをアバターに反映させられるときもあったのだけれど、その時は自分として認識しやすくなったように思う。

ただ、この自分のアバターを自分として認識するか否か問題については、他に体験していた人たちはちゃんと自分として認識していたようだったし、個人差も大きそうだ。鳴海さんによると女性のほうが認識しにくいということだったがなぜなのか、そもそも個人差なのか性差なのか、よくわからない。

それで思ったのが、今回のような「分身」VRではなく、「変身」VRの場合、「変身」したアバターを自分としてどう認識しているのだろうか、ということ。HMDを被ってVR空間内で自身のアバターアインシュタインになると課題を解く正答率が上がったり、黒人のアバターを使うとサラリーマンのアバターよりもドラムをうまく叩けるといった研究がある。これは、VR空間内で鏡に自身の姿を映すことで、自分の見た目が変わっていることを認識する演出がある。私も以前、動物のアバターで体験してみたが、確かにVR空間内で鏡を介して自分の姿を見ると、そのアバターを自分だと認識しやすくなった。

今回の「分身」VRでも、最初にVR空間内の鏡を使って、自分のアバターを自分として認識するよう誘導する演出がある。ただ、では動物のアバターのときと、自分自身の見た目のアバターのときとで、どちらがそのアバターを自分と認識するかというのは、難しいところのような気がする。

そもそもリアルでも人は鏡を見ない限り、自分の顔を見ることはできない。自分の顔を自分と認識するのは、鏡を信頼しているからにすぎない。その鏡が映すものを信頼するのであれば、そこに映るものが自身の3Dスキャンしたアバターであろうと、他者や動物のアバターであろうと、同じことなのではないかなあと思った。

 

アカデミアVR、安全保障とテクノロジー、SFとテクノロジー

先週と今週、立て続けに、そして私にしてはとても珍しく有休をとった。先週は東大VRセンターの設立記念式典へ、今週は安全保障の専門家に会いに行くためだ。

会社の仕事と関係なく、会社を休んでもやらないといけないって自ずとやっていることが、私にはいくつかある。ちょっと考えてみたら、おおざっぱに分けて3カテゴリーあった。

ひとつは、アカデミアVR、と言うべきか、大学などのVR研究者たち。

もうひとつが、安全保障とテクノロジー

最後のひとつが、SFとテクノロジー

アカデミアVRは、新人記者時代に偶然から取材するようになった11年前から、安全保障とテクノロジーはSCHAFTの方たちと知り合って、仕事を休んでDARPAロボコンにフロリダへ行った5年前から、SFとテクノロジーは「ディストピア」について議論したり考えたりするようになった2年前から、なんとなくずっと自分の頭の中にあって、たまたま本業と関係していたら本業内で、本業と関係がなかったら業務外で、調べたり取材をしたり議論をしたり考えたり書いたりしてきた。

もしかして、「ライフワーク」というのは、こういうことを言うんでしょうか?特に業務としてやっているわけでも、お金になるわけでもないけれど、どういうわけか自ずと体と頭がそっちへ動いてしまうから、頭の中にずっとあるから、知りたいと思う。理解したいと思う。疑問に思う。整理したいと思う。書き記したいと思う。記録したいと思う。

どこへ向かうのか、たどり着くのか(またはたどり着かないのか)わからないし、目的や目標があるわけではないけれど、でも自分がそうしたいと思わなくても頭の中にあって、体と頭がそちらへ向かっていくので、まだしばらくは、この3つに関連することにゆっくりと、断続的に見て、聞いて、議論して、何かを書いていくんだろうなあと思います。

毛利庭園のポケモンGOのジムにもう一度登ってみたくなった

10月12日から21日まで、六本木ヒルズで開かれていたポケモンGOのイベントでは、ジムに登るVRと、毛利庭園内で音を頼りにポケモンを捕まえるAR庭園があり、どちらも初日の夜に体験してきました(VRは2〜3人待ち、AR庭園は整理券制で1時間半待ち)。

最終日、また体験したいなと夕方毛利庭園へ行くも、どちらも2時間待ちということで断念。一回行ったのになぜまた行くのかと指摘され、何でかなあと思いあたったのが、ジムから毛利庭園を見下ろすと、隠れているポケモンが見えるという情報をあとから知ったのでそれを確かめてみたくなり、もう一度体験したいと思ったということ。それを確認するためだけにVRでジムに登って、AR庭園でポケモンを捕まえたい、と思った。

それで思ったのがコンテンツと文脈の強さ。

そもそも今回のポケモンGOのイベントに行こうと思ったのは、普段からポケモンGOをやっているからというだけではなく、VRやARでポケモンGOの世界を体験したかったからです。一回行けばその目的は達成されたはずなのに、もう一度行こうと思った。それは、コンテンツや文脈の強さによるものでした。

ジムに登るVRは東大の廣瀬・谷川・鳴海研究室の研究であるInfinite Stairs(無限階段)の仕組みが使われていて、無限階段の技術そのものはこれまでに何度も体験したことがあります。放射線状に細長い棒が地面に並んでいて、その棒が階段のエッジの役割をします。HMDスタンドアロン型のLenovoMirage Solo。初めて使ったけれどまあ普通)をかぶって階段の映像をみながらそのエッジを踏みながら歩くと、平面を歩いているのにあたかも階段を上り下りしている感覚が得られるというもの。


Infinite Stairs(無限階段)

ただ、今回のジムに登るVRでは自分の足のトラッキングと表示がないことから、それがあった以前の体験と比べて没入感は損なわれていました。初日にジムの上に登った時には、見上げるとファイヤーがいるなあ、と確認しつつも、やっぱり無限階段の技術の方に気を取られ、足のトラッキングがないなあとか、降りる時には以前のような足がすくむ状態にはならないなあとか、そんなことばかり考えて体験をしていました。でも、それってちょっともったいない体験の仕方だった。どこにどんなポケモンがいると、ちゃんと覚えていれば、次にAR庭園を体験したときにまた楽しめたのかもしれない。もっとコンテンツの世界に入り込むものでした。

一方のAR庭園。こちらはまずピカチュウイーブイのサンバイザーをかぶった上で、開放型ワイヤレスイヤホンをつけ、(3Dプリンタで作ったと思しき)集音器(?)にスマホがついたガジェットを手に持って、毛利庭園内のポケモンを探します。こうした演出はコンテンツの世界に入り込む手助けになり、物理空間や物理的なものを活用するARのほうがHMDをかぶるだけのVRと比べて、演出の幅が広い。

イヤホンからの音に加えて、ポケモンに近づくとスマホの画面にそのポケモンが表示、タップして捕まえ、3体ポケモンを捕まえるとスタッフにスマホを渡して、そのうちの1体とスマホ画面内のARで遊ぶという内容。

まだまだプリミティブなものなのだと思いますが、音と空間を使った今後のゲームの可能性を感じさせてくれる、体験してよかったと思えるコンテンツでした。ポケモンがなかなか見つからない(初日だったためか、そういう仕様なのか?)、音がわかりにくく結局スマホ画面をたよりにポケモンを探すといった、ゲームとしての不完全な点はありました。ただ、それでも楽しめたし、画面に表示させずに音だけを頼りにしては?手で持つガジェットの振動など触覚を利用しては?などいろいろと妄想が広がって面白かった。

それはともかく、AR庭園ではポケモンがなかなか見つからなかったのもあり、もう一度ジムVRで見下ろして当たりをつけてからAR庭園で探したいなあと思ったという次第です。

カビゴンとナッシーとコイキングを捕まえました。ピカチュウがほしかった!

毛利庭園の芝生でカビゴンとたわむれました。

ミュウツーをやっと捕獲したこと

ミュウツーと5回くらいレイドバトルをやって、昨日、初めてミュウツーを捕獲しました。取材ででかけた渋谷のジムで、5−6人くらいのレイドバトルで。

これまでそんなに真面目にポケモンをやっているわけでもないし、そんなにミュウツーがほしかったわけでもないし、だいたい周りでポケモンをやっている人たちはミュウツーを何体も持っているし、今更なんですが、なんだか嬉しくて、会社に戻ったら速攻同僚に報告したくらいには嬉しかった。

だいたい家の近くも会社の近くも、レイドバトルをやっていても人がいない。だからミュウツーが出ていてもせいぜい2〜3人、少ないと誰もいなかったりするので勝てない。そういう経験を何回か繰り返しているうちに、「ミュウツー欲しいなー」とうっすら思うようになってきた。

もともとミュウツーが欲しかったわけではない。そもそもそんなに真面目にポケモンをやっているわけではない。ここ数ヶ月は毎日アプリを開いてはいるけれど、その前は1年近くはアプリを開きもしなかったし、気が向いたらやっているくらいだ。

それでも、何回かレイドバトルに挑戦して、勝てずにミュウツーを捕獲できないという経験があることで、ミュウツーに勝つということがひとつの重要なアジェンダのようになってきた。

得られない経験をすると欲しくなるものなのよね、人間って。

ミュウツーもとれたことだし、最近アニメが始まりまたやろうかなーとアプリを再DLしたIngressの方にそろそろ注力しようかしら。ゲームとしてはIngressが好きです。

 

 

 

「分人」を元にコミュニケーションを考える

数年前、分人コミュニケーションをテレコミュニケーションやVRで作る研究の話を聞いた。テレコミュニケーションのインターフェイスを最適化することで、分人を切り替えやすくするというそのアイデアは、なんとなくしっくりこなかった。

それ以来分人について特に考えることがなかったが、先週末、ひでまんたち北大出身研究者5人と旭岳での合宿で、「分人」の議論があったので、「私とは何か 「個人」から「分人」へ」(平野啓一郎講談社現代新書)を再読。

 

私とは何か――「個人」から「分人」へ (講談社現代新書)

私とは何か――「個人」から「分人」へ (講談社現代新書)

 

 

この本での「分人」とは、「不可分」「もうこれ以上分けられない」を意味する「個人」に対する平野さんの造語で、対人関係ごとに見せる様々な自分のことを指す。

近代は、個人の人格をこれ以上分けられない単位として捉えて社会制度が作られてきた。個人の人格が分けられないといっても、人間関係において人はいろいろな顔を持つ。それは「ペルソナ」と呼ばれ、複数のペルソナたあっても自我はひとつだ、というのが一般的な考え方だ。

一方、「分人」の考え方では、そもそも唯一無二の「本当の自分」など存在しない。一人の人間は複数の分人のネットワークであり、対人関係ごとに見せる複数の顔すべてが「本当の自分」だとする。

個人は一個体として独立して存在するのではなく、他者との関係性の中で浮かび上がる。その他者との関係性がなければ、その分人は存在しないし、その他者との関係性の比重が大きくなれば、その個人の中でのその分人の構成比率は大きくなる。

上司、同僚、家族、中学の友人、高校の友人、大学の友人・・・・。それぞれ相手の分だけ、私達は分人を持つ。さらにSNS時代ではSNSごとにまたそれらと異なる分人も存在するかもしれない。たとえ、それら同士が矛盾していたとしても、それも含めてすべてが本当の自分だ。

それは直感的には当たり前のようで、現実の社会では当たり前とはみなされない。「猫をかぶっている」とか「本当の○○さんじゃない」とか言われることもある。でも、それも含めてすべて本当の自分だ。

コミュニケーションにおいては、「分人」を基本的な考え方とすると、すっと楽になることがたくさんありそう。ただ、現在の社会制度は個人をひとつの単位としていることから、どう折り合いをつけていったらいいのかしらと考えています。

 

「VRの父」アイヴァン・サザランドとメディアとメッセージ

ツイッターを眺めていたら、現在バンクーバーで開催中のSIGGRAPHのVR50周年セッションのアイヴァン・サザランド氏の動画が流れてきて、2012年に京都賞の記念講演のために来日されたときにお会いした姿と比べてお年を召されたなあと思ったのと、記念講演でのメディアとメッセージの話を思い出しました。


VR@50: Celebrating Ivan Sutherland's 1968 Head-Mounted 3D Display System

 

まだ動画全部見ていませんが。

「VR50周年」というのは、ヘッドマウントディスプレイ(HMD)の原型をサザランド氏が1968年に開発してから50周年ということだ。サザランド氏といえば、コンピュータのインターフェイスとして直観的に操作する「スケッチパッド」を提案した博士論文の研究で知られるが、VRの系譜としてはHMDを開発している(このHMDパイロットのシミュレーターとして開発された、いわゆる「軍事研究」ともいえる)。なお、VRバーチャルリアリティー)という言葉は当時はまだなく、VRという言葉と概念が広まったのは、VPL Researchを設立してHMDを初めて商用化したジャロン・ラニアーによってだ。

サザランド氏が京都賞を受賞したのは、スケッチパッド開発の功績だが、記念講演のテーマは「メディアとメッセージを区別する」というものだった。もちろんマクルーハンの「メディアはメッセージ」に引っ掛けている。

記念講演のメモをevernoteに記録していたのを見つけたので、以下は自分メモから引用。

 

マクルーハンは「メディアはメッセージである」と言ったが、今日私は「メディアとメッセージを区別する」という話をする。メッセージを作る人は、アーティスト、エンジニア、すべての人たちだ。私はメディアを作ってきた。

 

1960年にカリフォルニア工科大学からマサチューセッツ工科大学へ移った(博士課程)。スケッチパッドのためにTX-2(MITリンカーン研究所にあった大型コンピュータ)を使いたいとウェズリー・クラーク(TX-2の開発者)のところへ行って使わせてもらった。TX-2は20センチメートル四方のスクリーンがある。スクリーンの下にあるノブを回すと、スケールなどを変えられる。図面を描くためのインプットにはライトペンを使う。最初に線を描いてみた。シャノンが「円を描け。円の方が難しい」と言った。

 

スケッチパッドはメディアだが、メッセージはない。当時は私しかスケッチパッドを使いこなせなかったし、一般のユーザには使えるものではなかった。

 

VRHMD)の研究を始めたのは、ヘリコプターからヒントを得た。カメラを付けて、カメラとパイロットの動き合わせるようにした。

 

偉大な仕事をするには取り組むべき課題がある。以下の3つだ。

この中で最も重要で代えがたいものが、リーダーシップだ。

 

今日の私の話はすべてメディアの話だ。だが、メディアを本当に役立つものにするには時間がかかる。

 

一方、映画のすばらしさはそのメッセージ、コンテクスト、ストーリーにある。私はメディアに取り組んできたが、メッセージは難しい。

 

とても偉大な「VRの父」の一方で、自分のやってきた過去の仕事をとても謙虚に話されるのが印象的でした(現役研究者なので今の研究の話をする方が楽しそうに見えた)。

記念講演の翌日、京都賞関連で行われた小学生向けワークショップも取材させていただいた。そのみちの専門家がずらりと並んだ記念講演とは打って変わって、自らヘルメットをかぶってシーソーのような板の上に乗っててこの原理を実演するなど、体を張った実験を行った。「子供の頃からモノづくりが好き、科学はただおもしろいからずっとやってきたしこれからもやっていく」と仰った。

とても楽しそうで手慣れた様子でのワークショップだったので、子供向けのワークショップはよくあるのかと聞いたら、「初めてだ。今日のために入念に準備をしてきた。科学は楽しいと子供たちに伝えたかった。自分の目で見て触って確かめられるものを伝えようとした。だから今日はあえてコンピュータの話はしなかった」。

実際ワークショップではスケッチパッドの話もHMDの話もなかった。ワークショップでのサザランド氏は「VRの父」のイメージと良い意味であまりにも違って意外で、「サザランド氏の伝える力」みたいな記事を書いたっけ。

サザランド氏はスケッチパッドやHMDなどのHCI(ヒューマン・コンピュータ・インタラクション)を開発してきた先駆者だ。HCIの研究者はいわば人とコンピュータの意思疎通を円滑にする専門家で、そういったコミュニケーションについてずっと考えてこられた方は、人と人とのコミュニケーションにもとても深い考えとそれが染み出てくる人との付き合い方があるのではと感じた。

 

 

 

 

「VRは脳をどう変えるか?仮想現実の心理学」(ジェレミー・ベレイソン)

心理学者でバーチャルリアリティVR)を使った研究に20年取り組んでいるスタンフォード大学教授のジェレミー・ベレイソン氏による著書。自身の研究に基づいて、VRの人への影響を調べる研究から、その影響を利用した医療や環境保護、教育などの社会実装の取り組みの紹介まで今のVRの現状と課題についてまとまっている。ここ数年のVRブームではテクノロジー楽観主義の視点で語られることが多いが、この本の中ではVRの限界と課題にもそれぞれ丁寧に触れてあり、そのためVRの意義付けについても説得力が感じられて特に良かった。

なお、稲見先生もツイートされていたがタイトルはミスリードで、原題は「Experience on Demand: What Virtual Reality is, How It Works, and What It Can Do」。原題の方が本の内容をよく表している。

  

VRは脳をどう変えるか? 仮想現実の心理学

VRは脳をどう変えるか? 仮想現実の心理学

 

 

90年代コンテンツが増えている気持ちの悪さ

シン・エヴァンゲリオンが2020年公開、その特報が東宝系の映画の予告編で流れるということで、「未来のミライ」を観にTOHO上野へ行ってきた。シン・エヴァの特報は最初の方にほんの一瞬だったが、いよいよおれたちの90年代も終わるのか、もう中二病とか言っていられないのかという感慨深いものがあった。同時に予告編があった「SUNNY強い気持ち強い愛」は、90年代に女子高生時代を過ごした仲間たちが30代になった今また集まるというストーリーに小室ファミリーからタイトルに入っているオザケンまで90年代J-POP満載の映画で、予告編眺めているだけでも正直痛すぎて穴があったら入りたくなった。懐かしいという感情を惹起するだけのためにこれ観たい30代ほんとにいるのか。

ここ数年、90年代コンテンツが市場に増えている。映画化にしろアニメ化にしろリバイバルにしろカバーにしろ、90年代のコンテンツ(漫画、アニメ、音楽など)の公開やリリースが増えてきた。商業的には、90年代に多感な青少年期を過ごし、それらのコンテンツを浴びて育ってきた世代が働き盛りの30-40歳代になり、コンテンツ消費者としてのターゲットになっているという理由が大きいだろう。

先週末、NHK FMでは半日小室ファミリーの曲が特集されていた。ツイッターのトレンドに入っていたのが気になってiPhoneのアプリで少し聴いて、懐かしさに悶絶した。ジャンプのアプリでは、ドラゴンボールとか幽遊白書とか、ジャンプ全盛期とも言える90年代コンテンツが読める。小学生の頃は毎週ジャンプを買っていたし単行本も買っていたし、なんならキャラのセリフも言える。今読むと、ページを繰る前に吹き出しの中のセリフが頭に流れてくる。

90年代コンテンツは、その時期を多感な10代として過ごした自分にとっては、それらに触れることが当時は血肉にはなっていたとしても、今また触れることは懐かしさに悶絶する程度の感傷の一方で、懐古趣味的な居心地の悪さの方がはるかに勝り、そこを消費者ターゲットとしてコンテンツが量産されている現状に、気持ち悪さを感じる。懐古趣味おっさんおばさんとしてマーケティング対象にされているって、おれらも舐められたものだなと。

ところで自分はエヴァはリアルタイムで見ていなくて、社会人になってから全部観た新参ものなんだが、シン・エヴァは楽しみ。

 

ブラックペアンと多体問題

「ブラックペアン観てる?あれはいいよ、観てみなさい」

ずっと借りていたガンダムのDVDとブルーレイを返しに某研究室に寄ったら、たまたま某先生が在室されていたので、ご挨拶に伺ったら、ブラックペアンを薦められた。医療関係者界隈では話題になっているが、もともとテレビを観る習慣がない私は当然観ていない。

某先生曰く、ブラックペアンでは、「科学的な知見」派の小泉孝太郎さん演じる医師と、「職人技暗黙知」派の二宮和也さん演じる医師の対比がある一方で、どちらかが正義ということではなく、それぞれがそれぞれの正義に基づいているという構図が描かれているのだという。

医療の向上のための新技術の導入と、レガシーなシステムに支配された人間。医療現場は常にこうした矛盾したシステムを抱えている。ブラックペアンでは、技術の導入に際して、そこに人間たちがどう向き合っていくか、参考になるということだった。

医療ドラマは(あんまり観ないけど)、白い巨塔の医局を支配する医師VSはぐれもの医師といった、二項対立で描かれるものが多い。二項対立はドラマとしては面白いが、人間社会の本質とは程遠い。

人間社会は複雑系であり、二項対立というよりは多体問題とどう向き合うか、というのが大きな問だ。ところでガンダムを借りたのは、「ガンダムには人生のすべてが含まれている。ファーストでは二項対立だが、ゼータでは三体問題が描かれる」と言われたからで、某先生のブラックペアンでの着目点とも近く、膝を打った。

ブラックペアン、今日なので夜観てみます。

Oculus Goを買った

 

寝転がって映画を観るためにOculus Goを買った。結論から言うと、約10分使って一晩考えて、手放すことを決めた。私がOculus Goを買ったのは、普段はMac bookで観ている動画を観るためで、つまりPCのディスプレイとオーディオの代替品としてOculus Goを位置付けて購入した。

Oculus Goで試しに観たコンテンツは、プリセットされているコンテンツでOculus room、360度動画コンテンツ、 ブラウザでYouTubeAmazonプライム(エラーで動画再生されなかったが)、FacebookTwitter

視聴について。基本的に首や自身の位置を固定して、Oculus Goをディスプレイとして使う、というのが私の想定用途だ。そのため、360度画面の必要はない。ブラウザを立ち上げると2Dの画面はVR空間上に浮かんでそれを視聴するという形だが、体感的には映画館のような没入感はある。だが、解像度が粗いため、スマホやPCの高解像度に慣れた目では見づらいという不快感が強い。音響は耳元でステレオで聞こえるので良い。

入力について。PCで言うマウスとキーボードの機能と、片手で持つコントローラーひとつでこなすわけなので、入力の操作性がとても悪い。入力インターフェースはまだまだ改善の余地がある。

ハードウェアとしてはまず重い。HMDとしては一般的な重さだが、これを2時間つけたまま映画を見続けるのは首と肩が凝って不可能だろう。ただ、それは想定内で、もともとHMDの重さを感じないように頭を固定して、寝転がって観るということを想定している。

私が手放すことを決めたのは、Oculus Goが悪いわけではない。現時点で、スタンドアロンHMDとしては2万3千円という価格も含めて、最善の選択肢だろう。ただ、「寝転がって映画を観る」という用途では、Mac bookに敗北したというだけのことだ。

ただ、敗北点の最も大きな要因は、HMDを被ったときの不快感にあり、現状のHMDの形状でこれを克服できるとは思えないため、HMDが将来スマホ並みに普及するという未来に関しては疑問を抱かざるを得ない。ただ、HMDが不快な私の身体が非常に特殊で世の中の大半の人がHMDの不快感を感じないのだとしたらありなのかも。

記者と主観と客観と

新卒で入った新聞社で、記者クラブで色々と教えてくれた他部署の師匠が、時々「語る会」を主催している。ただの飲み会だが、参加者は師匠が仕事のなかで出会った人たちで、「医療」をキーワードに業種も職種もさまざまだ。

私が「語る会」に最初に参加をしたのはまだ最初の新聞社にいるころで、最初は結構面食らった。業種も職種もさまざま(医師、医療関係者、行政関係者、メディア関係者、患者団体関係者、アカデミア、研究者、政治関係、企業の人、起業家・・・とにかく様々)。ただ「医療」に何らかの形で関わっているという共通点があるだけで、例えばひとつの事象についても複数の面から見て深い議論ができることに気がついた。

記者という仕事は、取材対象に対して客観的であり、仲間になってはいけない。

そうやって考えていた当時の私は、「語る会」がとても新鮮でおもしろかったし、取材先と師匠のあり方が、おもしろいなあと思った。記者は取材先と飲みに行くことはあるけれど、こうやって異なる複数のステークホルダーが一同に会して、議論をする飲み会は、それまで参加したことがなかったからだ。

初めて参加をしてからもう7-8年経つ。その間に、私は意図せず師匠と同じように、もともとは取材先として繋がった異なるステークホルダーの人たちと一緒にいろんな活動をするようになった。そういう活動をする中で、第三者として取材先に客観的に関わるべき記者が、当事者として取材先である人たちと一緒に活動をすることに、記者として間違っているのではないかと悩み、師匠に相談をしたこともあった。

先日の「語る会」でのこと。「記者(ジャーナリスト)って何だと思う?」と師匠。「社会のジャーナル(日記)を付ける人だ」と。その時話題に出ていたのが、清沢烈の「暗黒日記」。あくまでも客観的に事実を日記としてしるし、一方で主観として訴えたいことは、後世の人々はその文章から読み取る。それはジャーナリストの仕事だと師匠。

「記者は表面的には客観的なファクトを書き記すけれど、その内面は主観によるもの」と私が言うと、成長したな、と師匠。

記者は、主観と客観を行き来しながら、それを意識的に区別し、使い分ける必要がある。おもしろい仕事だと思う。

ワイヤレスイヤホン

少し前に有楽町のビックカメラでワイヤレスイヤホンを買った。先日発売になった、耳を塞がないタイプのフルワイヤレスイヤホンが気になっていたのだが、首からかけるタイプのワイヤレスイヤホンを購入した。

iPhoneユーザだが、ちぎれたうどんが耳から出ているようなあのワイヤレスイヤホンはいただけない。一方で、補聴器のようなフルワイヤレスイヤホンは紛失することが目に見えているので購入する気になれなかった。そもそも普通のイヤホンでさえしょっちゅう無くすし、ピアスに至っては耳に付けていてもよくなくす。

フルワイヤレスイヤホンが目指す先はヒアラブルの世界だ。コンピュータへの入出力のどちらも音声による、ウェアラブルコンピュータが、入出力いずれも視覚情報によるスマホの次の段階として普及するとする見方は多い。

視覚情報がメインのウェアラブルコンピュータと言えばメガネ型のウェアラブル機器で、20年以上前からあるにもかかわらず、なかなか普及しない。アップルウオッチなどの時計タイプのウェアラブル機器もなかなか普及しない。比較的安価でスタンドアロン型のOculus Goが話題になっているとはいえ、VRによるウェアラブルコンピュータ普及は現状のデバイスでは難しいだろう。

普及しないこれらのウェアラブルコンピュータは視覚のディスプレイだが、聴覚へのディスプレイであるイヤホンを使ったウエアラブルへの期待が高まっていると認識している。

プロジェクションマッピングレストラン

先日、Hさんに招集されてプロジェクションマッピングレストランへ行ってきた。招集された6人は私以外は研究者、クリエイターで、オーナーの休日に研究会としてコースを提供していただいた。

創作フレンチというのかしら。一皿ごと出てくるたびに、プロジェクションマッピングからテーブルの引き出しのしかけ、液体窒素や化学反応を多様したしかけ、といったエンタメ色あふれる演出があった。

食をITで拡張しようとする試みは多数あり、これまでも研究として見てきた。ただ、それが食側(レストラン)として提供しようとすると、そのハードルは格段に上がる。レストランの客が求めているのは、純粋に美味しいと感じる食体験だ。

だがこの美味しいと感じる食体験というやつがくせもので、単純に料理に依存しない。食器、店内の雰囲気、一緒に食べている人、その会話、お店の方の雰囲気、対応、会話、その日の体調・・・それらすべてが美味しいと感じることに影響をする。

プロジェクションマッピングのようなITによる食体験の拡張は、これらのパラメーターのどこかをいじってあげて、食体験の満足度を上げるというものだろう。ただし、それは、非常に繊細で難しく、体系化もされていない。

食体験をITで拡張することが目的化してしまったら、満足の行く食体験の提供は難しいのではないかなと、結局のところそう思う。

TOHO上野でレディ・プレイヤー1を観てきた

少し前に、上野に映画館ができた。上野、というより正確には御徒町だ。空いている、という理由で時々、ここにひとりで映画を観に来る。

近未来のVRがテーマだという「レディ・プレイヤー1」は、私のTwitterのTLではずいぶん前から、試写を観た方たちが推していたので、とても期待を膨らませて「これは必修科目だ!」として、公開初日のレイトで観に行った。もちろんひとりで。

一言で言うと「ゲーマーの、ゲーマ-による、ゲーマーのための映画」でした。80年代サブカル(”サブカル”っていう表現もまた80年代らしい)てんこ盛りで、配給会社などいろんな権利をまたいでここまで盛り込めるのはスピルバーグならではだし、スピルバーグにしかできない。その点、観ておいて損はない。

ただ、VRという技術が浸透した社会の物語を楽しみにしていた私は、正直がっかりした。現実の世界を楽しむことが、VRの世界を楽しむことになる。この物語は、そう説く。でも、そんなことは想定の範囲内で、言い尽くされていて、消費つくされた物語だ。原作小説は2011年ということだが、陳腐化している、すでに。

一方で、思ったのはこんなこと。VRの世界(デジタル)を成立させるには、現実の世界(物理)が必要で、デジタル化によって収益を上げるビジネスモデルは、フリーライダーとしてその大きな収益率を達成する。それは今の社会経済で当たり前のように起きていて、もううんざりしたモデルだということだ。

デジタル化、IT化は効率化(コネクティビティも含めて)をもたらすが、現実世界での物理的な創造をするものではないため、どれだけIT産業が巨大化しても、その下支えをする物理世界は、製造業などが担うことになる。物理世界がなければ、デジタル世界は成立しえない。私たち生物は、物理的な食べ物を食べ、物理的な居住空間に住み、物理的な生殖活動を行わなければ自身の存続または次世代の存続ができない。

でも時々、楽観的でイケイケなデジタル世界の人間は、それを忘れがちになる。

レディ・プレイヤー1の舞台は2045年。荒廃した世界で、スラム街で暮らす人口の大半はゲームの世界「オアシス」に入り浸っている。オアシスでは、創設者の遺言によってオアシスの所有権で5000億ドル相当の遺産が与えられるゲームが繰り広げられている。スラム街に暮らす若者がそのゲームの勝利をかけて奮闘するというストーリーだ。オアシス管理のために巨大資本を投じて主人公と戦う悪役として企業社長が登場。主人公はゲームの中で知り合った仲間と現実世界でも出会い、悪役社長との対決に勝利。やっぱ現実いいよね。というオチ。

VRが好きな人や、デジタルイケイケな人たちはしばしば、デジタルの中の世界の素晴らしさをとく。その中には、デジタルだけではなく現実世界を変えうる力を持つからだという主張も多い。それは否定しない。

でも、物理的な生産活動を辞めて日がな一日ゲームの世界で暮らす人々が人類の大半の世界は、成立しえない。

機械が生産活動を担い、人間は労働から解放されるととく人もいる。彼らのロジックでは衣食住といった生命維持のための物理的な生産活動を支えるのは機械であり、人間はそれらを行う必要がない。それならばデジタル世界に浸りきることもできる、と。

技術が理想の域に達すればそれは可能だけれど、それはまだ技術的にも社会的な実現可能性も、ともにメドが付いているものではない。妄想の域を出ていない。

ということを考えながら終電後にTOHO上野から自宅まで1時間近くかけて歩いていたのでした。