人間とテクノロジー

人間とテクノロジーについて、取材とか思ったこととかの備忘録

岩井俊雄さんとメディアアートとテクノロジーと

岩井俊雄さんがICCで9年ぶりに講演をするというので、ICCへ。ICC20周年記念シンポジウム「メディア・アートの源流とその変遷 メディア・アートとICCの20年」を聞きに行きました。

www.ntticc.or.jp

 

岩井さんは絵本作家として人気だけれど、私以上の世代の人にとってはメディアアーティストとして影響を受けた人は少なくない。小学生の頃クラスの誰もが見ていたウゴウゴルーガも岩井さんが手がけた。当時はまだ珍しかったCG合成によるテレビ番組のさきがけだ。坂本龍一さんとのピアノ演奏と映像のコラボ作品は、誰しも一度はどこかで見たことがあるはずだ。

私が岩井さんを意識して知ったのは10年前で、上京して記者になってテクノロジー取材するようになってメディアアートに興味を持ったころに、ヤマハから発売されたのが電子楽器のTENORI-ON。でも結果的には、2007年のこの作品が、(現時点では)岩井さんのメディアアーティストとして最後の仕事になった。

その岩井さんが、子供時代から振り返り、メディアアーティストとしての仕事を解説、さらに実演まであったのが昨日のシンポジウムでした。講演は1時間の予定が2時間近くは話されていたんじゃないかしら。

今、岩井さんの話を聞きたかったのは、岩井さんの「転向」に対して、どこか腑に落ちないままもやもやとしていたからなのかもしれない。TENORI-ONを最後に岩井さんはメディアアーティストとしてではなく、絵本作家として子供たちに向けて絵本を書いている。

最後の対談でのICCの畠中さんの指摘のように、メディアアートはテクノロジーを使いながら、テクノロジーに対する批判や批評をもともと含んでいる。岩井さんは、映画やテレビといった映像メディアが発展し普及する中でこぼれ落としてきたものを、その時々の表現やテクノロジーをもって拾い上げてきたのだと思う。そこには、テクノロジーを使いながら、テクノロジーへの批判・批評が含まれている。

テクノロジーを礼賛し、その利便性を享受しながらも、私はどこかテクノロジーへの警戒を持っているし、健全な批判がないテクノロジーは健全な発展はないと思っている。単なるテクノロジー礼賛と活用にとどまらない、批判精神を含むメディアアートは、テクノロジーの健全な発達にも寄与すると思っている。

ところが、岩井さんは「今のコンピュータは不完全。子供の創造性を高めるには、今のコンピュータは役不足」として、コンピュータを捨て、紙と鉛筆に戻り、絵本作りやワークショップの活動をしている。

テクノロジーと人間の間に足りないものを拾い上げて、豊かな人間のために表現をしてきた岩井さんだからこそ、コンピュータから紙と鉛筆に戻ったことが興味深くもあるし、わからなくもないのだけれど、まだ30代の私たちは、それをあっさりと受け入れるには、まだまだ経験も人生も足りていないのだと思う。

イベントのあと、このもやもやした感じを友人に話そうとしてもうまく言葉が出てこなかった。「絵本作家です」と、子供のためのWSの話をされる岩井さんは、正直に素敵だと思った。でも、メディアアーティストとしてのお仕事の話はすごくどきどきした。どっちもほんと。ただ、岩井さんから大きく影響を受けているという友人の「岩井さんは絶望したんだと思う」という推測は、それを肯定することで、自分やその友人の10年後20年後に訪れるかもしれない絶望を予言してしまうような気がして、どう捉えていいのかわからない。たとえ岩井さんが人類に絶望したシャアのように、テクノロジーとそれを作り出し使う人間に絶望したのだとしても、この先何があるかわからないにしても、その友人には、絶望してほしくないなあと思った。

 

ともかく。岩井さんの講演は、岩井さんの子供時代からこれまでのメディアアート作品の解説と実演。愛知県で育った子供時代。おもちゃを買うかわりに、自分で作りなさいという親。中部電力の技術者だった父親。ものづくりの道具はなんでも買ってくれて、それで作りたいものを作った子供時代。制作ノートをつくり、完成図とメカニズムの説明図を絵に書いた。すでにある機械から、手を使わなくても傘をさせるマシンなど。

筑波大学で芸術を学ぶ。フィルム映画の制作をしたかったが、コストなどから難しいと、子供の頃に作っていたパラパラ漫画にヒントを得て、CGをツールをして使いながら、パラパラ漫画でアニメーションを作った。

19C末、リュミエールが映画を発明する以前の映像メディアにヒントを得て、制作をする。ひとつは「驚き版」。スリットが入った絵が描かれた円形の板をクルクル回して鏡にうつし、それをスリットからのぞくと、描かれた絵がアニメーションのように動いて見える。さらにその進化系のゾートロープでは、壁面にスリットが入った円柱の筒の内側に絵を描いた紙を巻きつけ、筒を回す。これはハードウェアをソフトウェアが分離したということ。

驚き版や、ゾートロープにヒントを得て作品を制作。「映画以前の映像メディアを、今のアイデアや技術でその可能性を開かせる」と岩井さんは言う。映画の登場で、驚き版やゾートロープのような他の映像メディアの進化は閉ざされてしまったけれど、それ自体が独自の進化を遂げることもあったかもしれない。それを、コンピュータやアイデアを使って、進化を進めてきたという。

例えば、円盤の上に立体物を敷き詰めた「時間層」では、回転させてスリットから覗き込むのではなくて、ストロボの光を点滅させることで、あたかもスリットから覗き込むのと同じような効果を出した。また、円盤上の立体物は、コンピュータで位置を計算して配置した。ストロボとコンピュータがない19C末にはできなかったことが、こうして20Cのテクノロジーで進化を遂げた。

なお、この「時間層」の実演はNHKの番組で放送され、その放送を見ていたスタジオジブリの宮﨑駿監督からオファーがあり、当時三鷹で制作中だったジブリ森美術館に展示するために、トトロの立体ゾートロープのインスタレーションを作ったという。今でもこれは現役で見られるとのこと。

パンチ穴の開いた長細い紙を使った手回しオルゴールがある。この紙を逆にすると、まったく新しい曲になる。そこからヒントを得て、作ったのが、楽譜ではなく、オルゴールのパンチ穴を、夜空の星のように描いて、そこを縦線が通り過ぎる時に音が出るCG作品。では、パンチ穴をコンピュータで入力してプロジェクターで映像を投影、それがピアノの鍵盤を通り過ぎると音が出るーー。そんなインスタレーションにつながった。さらにこれが、1996年の坂本龍一さんとの共演へと発展する。先のインスタレーションと逆に、坂本さんがピアノを演奏すると、その音がパンチ穴のように映像となって空間に投影される。ここで、楽器が変わると、音楽家はどう変わっていくのか見たかったと岩井さんは言う。

このあたりから、物質性やインターフェイスへと関心がうつっていたと話す。「作品それだけで完結するのではなく、関わった人によって変わっていく。いわば道具のような作品」と岩井さん。メディアアートの特徴のひとつはインタラクティブ性で人が関わることで作品となるものが多い。こうしたもののさきがけを作ってきたのも岩井さんなのだと今更ながら気付かされた。つまり、メディアアートとして方法としてできることは、岩井さんが10年前までにだいたいやりつくしている。

テクノロジーと人間が向き合う中で、そこからこぼれ落ちたもの、見逃されているもの、そういったものを私たちは考えて、それらをどうにかして補いたいって考えながら生きている。それは結構しんどいことでもあって、戦いでもある。でもまだ、絶望しないで戦っていたいんです、私はね。

「わたしを離さないで」はディストピアSFだ

カズオ・イシグロさんが、ノーベル文学賞を受賞した。これまでに「日の名残り」も読んだが、7年前に初めて読んだ「わたしを離さないで」は強烈だった。

 

わたしを離さないで (ハヤカワepi文庫)

わたしを離さないで (ハヤカワepi文庫)

 

 

今思うと、「わたしを離さないで」は、ディストピアSFだ。テクノロジーは、人の便利さの追求だけでなく、人そのものの健康にも大きく貢献している。ただ、ある人の生の追求が、他の人の生を犠牲にして上で成り立っているものなのだとしたら。

「わたしを離さないで」は、そんな話。人間を始めとする生物は、すべてが何かの犠牲の上で生きている。それは生物であれば自明。なぜなら、生物は自己保存と増殖のために、ほかの生物を捕食して、エネルギーを得なければならないからだ。人間も同様。

でも、人間が自らの生の追求のために、ほかの生物の生を奪うだけでなく、人間の生を奪うとしたら。それが、人間が作り出した人間だとしたら。

そういう世界を、幸せな世界と呼ぶのかしら、ユートピアと呼ぶのかしら、それともディストピアと呼ぶのかしら。

過去のブログを見ていたら、初めて読んだのは2010年10月。2010年は改正臓器移植法が施行された年だ。当時、科技部で厚労省担当だったから、直接担当していなかったとはいえ、臓器移植のニュースは関心を持って追っていた。

私が高校生だった1996年、臓器移植法が施行された。たぶん授業で先生が話題にしたのだと思う。意思表示カードを記入して、すべてを提供する、としていた。子供なりに、考えた末でそう記入した。

でも、いつくらいか、大学生くらいから、提供しない、と書き換えた。今は、意思表示をしていない。その時々に、それなりの理由があってのことだ。臓器移植についての私の考えは、いつも揺らいでいる。

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第1回肉肉学会カンファレンス雑感

農水省の原田さん、格之進の千葉さん、稲見先生、江渡さんらによる肉肉学会主催の第1回肉肉学会カンファレンスが昨日駒場で開かれました。格之進での講義の後に試食をする肉肉学会にはこれまで伺ったことがありますが、今回のカンファレンスは講演、アンカンファレンス、懇親会(BBQ)と盛りだくさんの中、研究者、生産者、料理人、消費者ら多様な分野の人たちが分け隔てなく議論できていて、そこから何か生まれていきそうで、なんかすごくドキドキしました。

午後は講演とアンカンファレンス、夕方からBBQというスケジュールでした。最初に、個人活動から起業して培養肉(純肉、クリーン・ミート)の開発・普及に取り組むインテグリカルチャー(株)の羽生さんの講演があり、その後、「肉肉学会への期待」と題して、肉肉学会を作ってきた江渡さん、人形町今半の高岡さん、格之進の千葉さん、調理シミュレータを開発する加藤さん、美味しさの研究をする河合さん、食研究と言えばの和田先生、食VRと言えばの鳴海さん、触覚からの食というじゅんじさん、生産者のための食の流通をつくるベンチャー、プラネット・テーブルの菊池さん、磯沼牧場の磯沼さんによるトーク

途中、おやつ休憩で、今半の揚げたてコロッケが届けられました。びっくりするくらい美味しかった。

続くアンカンファレンスは江渡さんによる企画で、その前の講演を聞きながら、参加者はポストイットに気になるテーマや話したいテーマをそれぞれ書いていく。それを元に次のアンカンファレンスが行われました。

アンカンファレンスとは、話すテーマから参加者で自由に決めて進める議論の仕方です。まず先程のポストイットを、なんとなく近いテーマごとに模造紙に貼り付けていきます。それを大雑把に6つのグループに分けて、それぞれのグループの模造紙1枚に先程のポストイットを貼ります。テーマは、チーム1は「純肉」、チーム2は「美味しいのメカニズム(心理・脳)、チーム3は「美味しさの化学・科学」、チーム4は「新調理法」、チーム5は「五感と美味しさ」、チーム6は「消費者と生産」に。

各チームには予め決められたファシリテーターがひとり付きます。ちなみに私はチーム1のファシリ。ファシリ以外は、自由に移動をして、自分が参加をしたいチームを決めます。だいたい1チーム5〜6人に分かれて、セッションがスタート。

1セッションは20分。チーム内で進行役、書記、タイムキーパー、発表役を決めて、議論を始めます。「何を話すか」から、予めあるポストイットを見ながら話し合います。

私が参加したチーム1は羽生さんの講演にあった「純肉」がテーマです。純肉は培養細胞によって作る肉。量産化によって肉の生産エネルギーを大幅に下げて環境負荷を軽減するというもの。背景には、3Dプリンターの普及とメイカームーブメントからパーソナルファブリケーションへと進んだ流れと同様に、細胞培養などのバイオテクノロジーを自宅で気軽にできるようになるというバイオテックのカルチャーもあります。一方で、純肉の社会受容やバイオテクノロジーを気軽に利用することへの倫理的な懸念もあります。そこで、私たちのチームでは、社会受容について話し合いました。ただそもそも、ルール作りや倫理的観点など、社会受容に向けて考慮、整備することが多い中で、環境負荷軽減以外に、消費者にとって純肉のメリットはあるのでしょうか。そこで、稲見先生から「パーソナルファブ肉」という単語が飛び出しました。自分で好みにあった肉を作れるというわけです。

これらの議論をまとめて、発表役が最後に各チームごとに発表をしました。個人的に興味深かったのがチーム6の発表です。チーム6はテーマは「消費者と生産」ですが、マーケティングや情報発信、リスコミのようなソフト面の要素がポストイットには多く含まれていました。

このチームが導き出した結論は「FOOD5.1」。プラネット・テーブルの菊池さんのトークでは、現在の大量生産・大量消費型の食品生産・流通を「FOOD4.0」として、その次の生産者から消費者へ必要な分だけ無駄なコストなく時間のロスなく流通をする流通改革を含め「FOOD5.0」という概念を打ち出していました。それをさらにアップデートしたものがFOOD5.1という、ウェルビーイング的観点が含まれていたものでした。

ポストイットを使ったワークショップはここ数年参加したり企画運営側だったりしてきましたが、江渡さんのアンカンファレンスはとても刺激的です。たぶん今まで2−3回参加させてもらったことがありますが、参加者みんなが関わって、次へ進めていこうと、参加者それぞれが気付きを得えらます。今回も、とても充実したアンカンファレンスでした。

アンカンファレンスのあとは懇親会BBQ。格之進のハンバーグ、ステーキ、今半のすき焼き肉での焼きしゃぶを、千葉さんと高岡さんが焼いてくださるという贅沢なBBQでした。率直に、最高だった。

農政長く担当して外交今見ている某社の記者の方と、今や担当分野だけ取材していると実体がつかめなくなっているっていう話を懇親会でしていて、本当にそう思いました。

また帰り道では、peripheralっていう単語が研究者から何度か出てきたけど、研究者だけじゃなくて記者にとってもperipheralが大事だと思っています。(でも中心を持っていないと周辺もなにもないけれど)

週刊誌に来てからは政治も経済も事件も土地勘のない分野や人のところに突っ込んできたけれど、でもそれって結構しんどい。前提や文脈、目的、見ている方向、それらの共有は難しく、何か共通項を見つけないとコミュニケーションはしんどい(コミュ障の自分にとっては。コミュニケーション強者の同僚はコミュニケーションについて考えたことがないと言っていて目からうろこだった)。

肉肉学会は「肉」という共通項で研究者、生産者、料理人、消費者ら多様な分野の人たちが集まってきて、同じ愛する対象があると、コミュニケーションしんどくないんだなあというのと、そこから何か生まれそう、というのでドキドキしました。

ちなみに炭の火消し(新品)はワインクーラーに使っていました。後片付けのときに知ったw運営スタッフのみなさま、素晴らしい会をありがとうございました!この後の展開が、とても楽しみ。

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展示物すべてが”フェイク”?「クローン文化財」のシルクロード企画展がとてもよかった

昨日から藝大で開催されているシルクロード特別企画展「素心伝心」は、展示物のすべてが失われた文化財を複製した「クローン文化財」で構成される展覧会だ。

バーミヤン石窟を始めとして、シルクロード仏教文化財の中には、近年の紛争など失われたものが少なくない。そこで藝大では、資料や三次元計測などを元にしてあたかも本物と同じような見た目や質感の「クローン文化財」を制作した。

複製技術推しなのかと、あまり期待せずに行ったら、展覧会としてとても良くてびっくりした。素人の私にとっては、仏像も壁画も、本物でも複製でも、多分区別がつかない。「クローン文化財」とはフェイク。本物ではない。だが、展示物が本物である必要性はいったいどのくらいあるのだろうか。「本物」がすでに存在していないという事実もまた、フェイクであるクローン文化財の価値を意味づけする。

10月26日まで開催している。入館料は1000円。

sosin-densin.com

まず入ると、すぐに気づくのが香りだ。まるでお寺の中に入ったかのような、お線香の香りがする。ここには、法隆寺金堂壁画と釈迦三尊像が再現された展示がある。

「触れる展示」も。複製ならではだが、複製とはいえクローン。質感なども本物の再現をしているという。

アフガニスタンのゾーン。

展示物が「本物」ではないということから、むしろ展示としての幅が広がっているのが興味深かった。たとえば、展示物に自由に触れることができる。部屋中にお線香の香りが充満する。指向性スピーカーにより、ラクダの足音がどこからともなく聞こえてくる。

 

デジタル技術によって、展示を豊かにしようという試みはこれまでもある。今回の藝大の「クローン文化財」も文科省COIという研究費助成事業の一貫として行われているが、10年位前にも、文科省ではデジタルミュージアムの基盤技術開発という研究費助成事業があった(事業仕分けとかいろいろあり途中で終了したが)。デジタルミュージアムのプロジェクトでは、「本物」にデジタル(映像投影など)によって情報を付加して拡張するという方向性がメインだったと記憶している。

他人とわかりあうことなんてできないけれど、だからどうしたというのか

帰宅途中の山手線で、「なるほど」とか「そうですね」とか「わかります」とか相槌を打ちながら、コミュニケーションについて議論をしていた。

「でも、他人とわかり合うことなんてできないんですよ」と相手は言い、「はい、今私は『なるほど』と相槌を打っていたけれど、言われたことの半分も理解していないかもしれません」と私は言った。

他人のことを理解することは不可能だ、という前提にたっている。議論をしているとき、対話をしているとき、一見スムーズに会話が進んでいるように見えるときでも、相手が言っていることを100%理解していることはあり得ない。逆に、お互いに相手の言うことを何割か理解していなくても、議論も対話もスムーズに進みうる。

議論も対話も、言語という記号を媒介するコミュニケーションのひとつだ。でもコミュニケーションは言語を介するものだけではない。ひとりの人間に情報をインプットするツールは五感しかないから、五感のいずれかに働きかけることで相手に情報を伝達する。言語情報以外にも、表情、身振り手振り、声のトーン、身体の動き、におい・・・それらが五感に働きかけて、ひとりの人間の情報を、もう一方の人間に伝達する。

議論や対話は、言語によって意思や思考を相手に伝え、また相手からフィードバックがあり、それを元にまた思考し、記憶し、さらにフィードバックをするというキャッチボールだ。そこでは、一見、言語がそのキャッチボールの媒介の役割をはたしているように見える。でも、それだけだろうか。一番重要なのは、本当に言語だけなのだろうか。

言語コミュニケーションと非言語コミュニケーションのあり方についてよく考えています。議論や対話は、リアルの場で対面だけによって行われるのではない。言語情報のみのテキストコミュニケーション(メール、メッセンジャーツイッター、slackなど)、音声情報での通話(電話など)、映像と音声情報での通話(スカイプなど)と、オンラインが加わることで多様化している。

これらのオンラインコミュニケーションは、対面よりもコミュニケーションの情報量が減る。そのため、対面のほうがオンラインよりもコミュニケーションの質は良い、とするのが一般的だろう。記者のような仕事をしていると、対面のほうが情報をとってくるという点で優れていると感じることは多い。ただし、コミュニケーションの目的によっては、必ずしも対面のほうが優れているというわけではない。

たとえば、精神科の遠隔診療では、強迫性障害の行動療法は、対面よりも遠隔のほうが治療成績がいいという。強迫性障害では、手が汚いという強迫観念から1日中手を洗い続けるといった行動が見られる。この治療のために、あえて手にドロを付けて手を洗うという行動療法がある。これは、クリニックなど非日常の場よりも、自宅のような日常の場で行うほうが効果が高いという。そのため、対面よりも遠隔のほうが効果があったとも言える。

こうした、必ずしも対面のほうがいいわけではない、ということは、一般化できることではなく、ケースバイケースになるだろう。「会わないコミュニケーション」を具体的に見ていくと、その友好的な活用方法があるわけで、そういう話を書きたい。

消費ではなく生産を

「『人をダメにするソファ』ってありますよね。僕らはそうじゃなくて、消費ではなくて、生産する道具をつくりたくて」

と、先日あるイベントでメーカーの方が仰った。消費者が消費をするのではなく、消費者が生産するプロダクト、って矛盾しているようだけれど、今の世の中の空気感は間違いなくそちらへ向かっている。

「もう癒やしとか求めているんじゃないんだよね」

って、ブレストだったか雑談だったかで同僚が少し前に言った。そうなのだ。現代人は疲れているという。疲弊しているという。それでも、求めているのは癒やしではない。

では何が必要か。

個人個人が希望を持つようになることだと、ひでまんさんは言う。無意識を含めた個人の能力を引き出すことだと、なるみさんは言う。2人の考え方に共感をしているから2人と話すのは楽しいが、言語化するまでもなく自分が感じていることなので、これらをきちんと言語化するのは難しい。ただ、「消費ではなく生産を」というのも少し近いと思っている。

プログラミングがブーム?のように言われるようになって以来、「作った人が勝ち」と言われる。作るというのは、仕組みであろうとプロダクトであろうとソフトウェアであろうと。それらを作るハードルが下がったことで、作った人が権力者となり、それを使う人は奴隷になる、極論したらそういう言い方もできる。

でも、ここで言う「消費ではなく生産を」はそういった強い意味ではない。自分の精神を消費するのではなく、活性化された、活発な状態にすることくらいの調子だ。

 

銀座の日産クロッシングでカタログVR

昨年、銀座の4丁目交差点に新しくオープンしたギンザプレイス1−2Fにある日産のショールームニッサンクロッシングは、個人的にVR活用の定点観測スポットのひとつにしている。2Fのオープンなスペースでは、VRコンテンツが体験できるから。以前行った時はドライブシミュレーター的なエンタメ要素の強いVRだったが、今日行ってみたら、いわばカタログVRとでもいうような販促向け位置づけが強くなっていて、VR活用という点でいい感じでした。

 

2Fは電気自動車リーフの展示があるスペースだ。実際に展示されているリーフは赤色の一台だが、VRでは14種類のカラバリとホイール3種類を変えて360度さまざまな角度からリーフを体験できる。このスペースには何もないが、HTC Viveを付けていると、その場にリーフの車体があるかのように見え、コントローラーで操作をすると、車体のカラーを変えたり、ドアを開けて車内を覗き込んだりできる。カタログVRならば、通常のカタログでカラーやオプションを選ぶよりも情報がリッチになる。

スタッフの方が体験中の様子をiPadのカメラで撮影してくれて、アンケートに回答すると写真をメールで送ってくれるというサービスもあり。スタッフの方によると、まだまだVR体験自体が珍しいので、こうした写真をSNSで共有することでVR体験をしたいという人たちに人気という。

銀座は外国人観光客が多い。ニッサンクロッシングが入るギンザプレイスには、ソニーショールームも入る。そのため、全体的に外国人、それも西洋人比率が他の場所と比べてここは多いように感じる。実際にVR体験をしていく人も、外国人観光客が多いという。

ViveとPCがあればできるから、VRカタログはもっと広まっても良さそう。

 

人はAIの指示に従って、たとえ自身に不利であってもそれを選択する

ドライブ中、AIがこの道へ行くように指示をしたら、たとえそれが合理的には不利な選択肢だったとしても人はそれを選択するか?これをゲーム画面で実験してみると、多くの人はAIの指示通りに不利な選択肢を選ぶという実験結果が、先週のFITでの発表であった。

最初の実験は、2又に分かれた道のうち、右の道か左の道かをAIが指示をする。AIにも信頼性の高いAIと信頼性の低いAIがあって、被験者は経験的に、AIの指示がいつも正しいか、時々間違えるか、認識している。この状態で、AIが真ん中、つまり道のない選択肢を指示したときにどうするか実験したところ、AIの信頼性の高さ低さにかかわらず、多くの人はそのまま真っ直ぐ突っ込んだ(つまり衝突事故)という。ただし、信頼性の高いAIのグループでは、選択するまでの反応時間が長かった。これは、このAIの指示を信じていいのかどうか、被験者が考えている時間が反映されているという(とはいえその選択結果は、真ん中を選ぶわけだが)。

これだけだと、まあシミュレーションゲームだし、真ん中へ突っ込むことの意味(事故)を被験者が理解していないということも考えられる。そこで、次の実験では、2又の道のうち、一方の舗装された道に行くと高得点が得られ、もう一方の凸凹道へ行くと減点されるようにした上で、被験者は何度かこの走行ゲームを繰り返す。その上で、AIは凸凹道へ行くようにと指示を出す。この場合でも、多くの場合は被験者は高得点を得られない凸凹道を選んだという。

これが示しているのは、AI(つまりプログラム、機械といってもいい)の指示に慣れた人間は、自分の頭で考えて判断することを怠り、たとえAIの指示が合理的ではなかったとしてもそれに従ってしまうということだ。

これは、ニコラス・カーの「オートメーション・バカ」(2014年)の中で書かれていた、「オートメーション過信」「オートメーション・バイアス」にも通じる。カーの「オートメーション・バカ」の中では、「オートメーション・バイアス」としてこんなエピソードが紹介されている。

2008年、シアトルでハイスクールの運動部員を乗せた車高12フィートのバスが、高さ9フィートのコンクリート製の橋に突っ込んだことがある。バスの上部はもぎ取られ、21名の学生が怪我をして病院へ運ばれた。GPSの指示に従っていて、前方に低い橋のあることを警告する標識も点滅灯も「見なかった」と、運転手は警察に語った。

 

オートメーション・バカ -先端技術がわたしたちにしていること-

オートメーション・バカ -先端技術がわたしたちにしていること-

 

 

これはどちらかというと、機械(GPS)の指示に注意が向いているために、ほかのことに対して注意が向けられなかったという、人の注意能力の限界を示しているが、たとえ前出の実験は注意が向いていたとしても、機械(AI)の指示を過信することを示している。

オートメーション化はこれまでも、これからも不可逆的に進んでいくだろう。テクノロジー、オートメーション化は人間に福音をもたらすばかりではない。その副作用やリスクも含む。

「情報技術は、気づかれたら負けなんだよ」とエマちゃんは言う。オートメーションを進める情報技術は、利用者が気づかぬうちに生活、仕事の中に入り込んでいる。だからそのリスクや副作用も気づきにくい。前出のような研究や事実は、こうしたリスクや副作用の存在を気づかせてくれる。その時、人間はどうするのだろうか。思考停止に陥らずに、批判的な視点を持って、常に考える必要があるのだろう。

AIの定義

先日、某政府機関によるAIベンチャー企業への助成事業の発表があった。採択されたのは音声認識とか、診療科推論とか、監視カメラシステムなど。話を聞くにつれて、AIベンチャーというけれど、同じ人たちを数年前まではITベンチャー企業って呼んでいたし、やっている内容にしても、AIじゃなくて普通にITとかICTとかって呼んでいたよなあと、新人記者だった10年前のIT担当時代を懐かしく思い出しました。

今はAIブームなので、何でもかんでもAIと呼ばれているが、だいたい今AIと呼んでいるもののほとんどは数年前までITとかICTとか呼んだものだ(ちなみに役所的には呼称ITとICTの違いは、経産省総務省の違い)。私は定義厨なので、人から「AI」と言われれると、「今おっしゃっているAIの定義は何でしょうか?」と(余裕があれば)いちいち聞いてしまう。

ところで、エマちゃんがこの前プレゼンしていたAIの3分類はとてもわかりやすかった。今世の中の人がAIと言っているものはだいたいこの3つに分けられるよね、という分類だ。

ひとつは、「既存のITCの延長」。もうひとつは「深層学習に焦点を当てたもの」。最後に「汎用人工知能など、今はまだ存在しない技術」。

今のAIブームは、発端は2012年の画像認識コンテストでディープラーニング(深層学習、DL)を使ったチームが好成績を上げたことだと、研究者らAI専門家の間では言われている。技術的にはDLへの期待が、ブームの発端になった。一方で、社会的には経済貢献への期待がブームを盛り上げたために、ビジネスにおいてはなんでも「AI」を付けることがポジティブに働くという土壌になった。そこで、これまではAIとは特に呼んでいなかったIT関連の技術はだいたいAIと呼ぶという現象にいたったと認識している。

これ、別におかしなことではないし皮肉っているわけではなく、ただそういうものだということ。ちなみに中島先生は「AIは実用化するとITと呼ばれる」とおっしゃるし、新井先生は「AIとはデジタライゼーションすべてを指す」とおっしゃるし、だいたい共通認識だと思う。(AIブーム以前は「AI冬の時代」があり、専門家の中では「AI」という言葉を使うことで詐欺師扱いをされるという風潮があったために、人によってはあえてAIという単語を使わないようにしていたということもあったという)

ということで、だいたいビジネス文脈など実用の世界で今AIと言っているものはIT(ソフトウェア、アルゴリズム、プログラム)と置き換えて差し支えない。

一方で、2点目のDLについては、データを食わせて結果は出てくるけれど、なぜその結果になったのか、合理的な説明ができない、というブラックボックス性のために、ほかのITとは区別されるケースが多い。製品としては、説明責任を担保できないということに繋がりかねないためだ。DLの有用性の可能性が高い一方で、そのわかっていないという懸念点もあるため、区別して考える必要があるというわけだ。

3点目の「まだ見ぬ技術」については、主にAI研究者ら、AI専門家たちが研究に取り組むのは、まさにここだからだ。研究者が研究に取り組むというのがポイントで、今のAIブームの焦点になっている今すぐに、おそくとも2−3年で市場投入できる技術ではないということだ。とはいえ、AIブームの中で出てきた、未来や社会、人間についての議論では、この「まだ見ぬ技術」とそれに伴うシンギュラリティが話題になることが多い。

AIと一言で言っても、今話しているAIというのはこの3つのうちのどれに相当するのかを明確にしておくだけで、議論はスムーズになるだろう。

仮想通貨バブルと分類

先週は12日にJPモルガンCEOが「ビットコインは詐欺」と発言したことでビットコインの価格は暴落した。その前にも中国のCIO禁止とか仮想通貨取引所閉鎖と言った報道を受けて下がっていた所で、9月初めには1BTC55万円くらいまでに上がっていたのが、一時期32万円を切るほどに下落した。

とはいえ、1年前には1BTC6万円ほどで、40万円台に入ったのはつい先月のことだ。単純に乱高下が激しいというだけのこと。

ビットコインで支払いができる店舗も増えてきたとはいえ、今ビットコインを売買している人のほとんどが投機目的だ。ビットコイン投資の世界では、短期というと数時間、1日単位、長期でも数ヶ月という短期間でものごとが動く。

バブルは何でもかんでも情報があふれるので、きちんと整理して分類して見ていかないと思っていて、例えば、(ブロックチェーンによる)仮想通貨には、4つの側面があると思っている。

ひとつは思想的側面。ブロックチェーンによる仮想通貨は、中央集権型ではなく分散型という思想だ。通常の通貨は国の中央銀行が管理する中央集権型のため、分散型の通貨は真に民主的であると考えるリベラル派は少なくない。これはインターネット黎明期にも通じる思想で、そこに魅了されてビットコインに興味を持った人は初期には多かった。

もうひとつが、技術的側面。ブロックチェーンという技術への関心だ。これはエンジニアが中心だが、技術を進めていくこととその活用への関心があるようにみえる。

次に投機筋で、これは去年あたりから急増した印象。ビットコインに関しては今は殆どがこの投機筋が売買している。

最後に、当然ながら通貨としての側面だ。ビットコインに関しては、最近は支払いに使える店舗も増えてきた。また、送金の手間や手数料の簡略化にも期待がされている。

昨日、みずほFGや地銀などが仮想通貨「Jコイン」で提携するという報道があった。送金や支払いの利便性向上につながりそうだ。一方で、円に完全に連動するため、ビットコインやアルトコインのような価格変動がないため投機的な利用はないだろう。

仮想通貨についてはこの4つの側面を意識しながら、どの側面についての話題になっているのかを抑えながら見ていく必要があると思っています。

AIについて語るということ

AIブームはともかく、人はAIについて語りたいようだ。だいぶ前に、AI研究者某M氏が「AIマインドがない人はAI研究者ではない。AIマインドとは、AIについていかに深く語ったかどうかだ」と仰っていて、はあ、とよくわからなかったんですが、何となく分かるようになってきました。AIを語ることは、きっと、人やその集合である社会について考えることなんですね。

でも、ただ漠然と人や社会について考えるってなかなか難しい。AIというのは、AIの研究者や専門家以外の人にとっても、とっかかりとして入りやすくて、AIをとっかかりに人や社会について考えるということが、最近起こっていることのように思います。

先月、AI暑気払いという謎飲み会がありました。15人くらいで参加者はほぼ官僚と、AIに関係しているその他という感じ。全員同年代で、AI門外漢がほとんど。「AIについて語る会をやりたい!」を言い出した公私共にAIは特に関係ない財務省官僚の一言から、AIについて語りたい人たちが招集されました。

そこで彼が、「羽生さんのNスペを見てからAIおもしろいと興味持った」と目をキラキラさせながら語り続けていたのを見て、AIの魅力っていうか魔力を感じました。AI非専門家(だけど超絶頭いいロジックモンスター)たちがAI愛全開でAI語るのっていいなと。それだけ話のネタとして人を引きつけるのがAIなんだなあと。

一昨日、エマちゃんが企画したAIと社会についての対話イベントがあり、我々はお手伝い要員で行ってきました。イベントは、一般から募集した参加者70人が、9グループに分かれ、3セッションでワークショップをするというもの。それぞれのグループには対話参加者のほかに、AIと社会に関する専門家、グラフィックレコーディングをする学生ファシリ、対話速記メモがいて、対話の様子がその場で可視化されます。

参加者は全くの一般人というよりも、ある程度AIについて普段から考えたり調べたり、または仕事で関わっている人が多かったようです。話題提供として参加してくださった専門家の方たちも、「参加者のレベルが高い」と舌を巻くほど。

3セッションが終わった後の全体の議論の共有では、「AIについて考えることは、結局人間について考えることだ」というまとめがちらほら聞かれました。

AI研究者であるM氏からみても、ワークショップ参加者の様々な属性の方たちからみても、AIについて考え、語ることは、結局のところ人間、その集合である社会について考えることにつながります。

でも、何かについて考えるときに、ひとりで考えるよりも、誰かと一緒に考えたほうが楽しいし、きっと先に進んだ議論ができる。

ワークショップは、そうやって他の人の頭を使って一緒に考えるためのものだと思っています。人との対話の中で人の頭を使って考えて、それを持ち帰ってまた自分の頭を使って考える。そういう両方のプロセスの繰り返しで、考えは深まっていく。でも、そういう前者の場ってなかなかない、だからこういうイベントが必要なんだと。

でも本当は、こういう特別なイベントをやらなくても、普段からいつでも議論ができるといいんだと思う。議論をしてくれる友人や同僚たちに感謝しています。

 

 

 

「いつかティファニーで朝食を」(マキヒロチ)

アラサー、女、東京で働く、独身。美味しい朝食が好き。
そんな彼女たちの仕事や恋や人生が、美味しい朝食とともに描かれるのが「いつかティファニーで朝食を」という漫画。実在するお店の朝食が紹介され、コミックの最後には店舗紹介や朝時間.jpの朝食レシピ紹介もある。

登場人物たちが、とても美味しそうに食べる描写がいい。大人には、日々、いろいろある。でも、美味しい朝食を、うわあって感激しながら美味しく食べる。ただそれだけで生きていける。

美味しい朝食を食べに行ったり、作ってみたりしたくなります。平日の朝、仕事前に築地市場へ朝ごはんを食べに行く、とか今度やってみよう。

 

いつかティファニーで朝食を 1巻 (バンチコミックス)

いつかティファニーで朝食を 1巻 (バンチコミックス)

 

 

 

ビットコイン使用で得た利益は「雑所得」

仮想通貨のビットコインの使用によって生じた利益は所得税の対象となり、雑所得に区分されるとの見解を国税庁がしました。

No.1524 ビットコインを使用することにより利益が生じた場合の課税関係|所得税|国税庁

ビットコイン価格は昨年9月には6万円程度だったものが、今月は50万円程度とここ1年で高騰している。投資対象としている人も少なくないが、課税対象となることが明記された形だ。

気になるのは、他の仮想通貨の取り扱い。ビットコインのように1号仮想通貨とされるものは、同じく課税対象になるのだろうか。

先日中国がICOを全面禁止したことが話題になっていたが、今後ICOが増えるとされており、成り行きがきになる。

ディープラーニングの教科書の日本語訳がウェブで無償公開

ディープラーニング(深層学習)の教科書「Deep Learning」の日本語翻訳版が、オンラインで無償公開されています。翻訳は、東大松尾研究室のメンバーが行った。翻訳したのは「Deep Learning」(An MIT Press book, Ian Goodfellow, Yoshua Bengio, and Aaron Courville)。ディープラーニングの第一人者らによる著書だ。

以下からダウンロードできます。早速DLしました。

Deep Learning

 

 

Peace Tech という考え方

テクノロジーは平和にも戦争にも使われる。歴史を振り返ってみれば、テクノロジーは戦争によって進展してきた。インターネット、コンピュータ、GPSなど今普通に使われている多くのテクノロジーの多くは、戦争のための軍事予算によって開発が進展した。そのテクノロジーを積極的な平和を進めるために進めていこうとするのが、Peace Tech という考え方だ。

Peace Techとはテクノロジーによる平和貢献、として、紛争地域で学生らにICT教育を提供しているのが、Edo Tech Global の金野さんだ。ルワンダ、ヨルダンではシリア難民向けに、10月からはボスニア・ヘルツェゴビナで、大学生にAIやVR、データサイエンス、ロボティクスなどを教えているという。現地の大学などのインフラを借り、講師は日本人でオンラインで講義をする。学生たちは、例えばシリア難民なら、ほんの数ヶ月前まではアレッポ大学でコンピュータ・サイエンスを専門としていたエリートの大学生。紛争で国を追われて勉強の機会を失われた学生たちだ。テクノロジーの専門だけではない。ソーシャルグッドマインドを養うための教育もあるという。

「戦争やジェノサイドの原体験を持つ若者たちは、平和実現へのマインドセットが強い。彼らがテクノロジーとソーシャルグッドマインドを持つような教育が、積極的平和につながる」と金野さんは言う。

こうして教育を受けた人たちがテクノロジーを積極利用していくことで、Peace Techにつなげるというのが狙いだ。

先日、広島県主催で広島市で開催された「国際平和のための世界経済人会議ミニフォーラム」の中で「テクノロジーと平和」というセッションに呼んでいただき、金野さんと一緒にパネル登壇をした。私は「デュアルユースとアカデミア」について話して欲しいという依頼だった。

デュアルユースとは、テクノロジーは軍事用にも民生用にも使えるという両義性のことを指す。だがすべてのテクノロジーはそもそもそうした両義性を持つ。むしろ今なぜデュアルユースが話題になったかに注意を払う必要がある。

2015年に新設された防衛省(防衛装備庁)の大学や研究機関、企業に対する基礎研究の研究費助成事業「安全保障技術開発推進制度」が発端だった。国による研究費助成は文科省経産省などさまざまあるが、防衛省による研究費助成事業は、戦後初めてのことだった。ということで注目を浴び、また防衛省が予算を出すということで、これは「軍事研究」に当たるのではないか、ということで、日本学術会議で昨年から議論が始まり、今年3月には「軍事研究禁止」としたこれまでの声明を継承するとの声明を出した。

そんなこんなでデュアルユースが話題になっているわけだが、とはいえ現実問題として、研究費助成の対象でもあり、テクノロジーの研究開発に携わるアカデミアの工学系研究者の間では、炎上や批判を恐れてこの話題はタブーに近くなり、思考停止状態になっているのが現状だ。

「デュアルユースとアカデミア」から考え始めると、こうしてスタックしてしまい、現実問題としてニッチもサッチもいかない。なので、この話をしたあとに、でもこのアジェンダ設定が違うんじゃないかなと思っていて、平和のためにどうしていくか、というこのイベントの趣旨からも、平和のためにテクノロジーをどう使っていくか、という問いから始めるほうが建設的なんじゃないでしょうか。というような発言をしたのは、このあとに話す金野さんへのつなぎのつもりだったんだけど、事前打ち合わせをひっくり返してすみませんでした。

ただ、そう発言したのは打ち合わせのあとにも登壇しながらもいろいろ考えた末の結論で、自分自身デュアルユースとアカデミアとアジェンダ設定をしてここ数年取材をしてきたけれど、なかなかどうにも建設的な方向にならない。切り口を変えたほうがいいんじゃないかと思っているところなのでした。